SUMMERY

目をつぶらない

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物語を読めないと死ぬ Jホラー映画の論理と『リング』

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物語ることで生きる

 

 人は生きる中で、自分の人生の物語を措定する。本当は大部分偶然が重なって、たまたま今のような自己があり、またこれからも同様に大部分偶然の作用によってこれからの生が形作られていくはずだが、それらの偶然に意味づけをすることにより、偶然の偶然性を捨象し、その人にとっての、なんらかの必然性を見出していく。

 例えば、たまたま周囲に足が速い人がいなかったため学年で一番足が速い子がいたとする。その子が、「そういえば自分は子供のころからスポーツが好きだったし、得意だった。これからも足の速さに関しては誰にも負けない」などという物語を作ったとすれば、これは上で挙げたような偶然を必然性ととりかえ、自分の物語を作ったことに他ならない。誰もがこのように物語を作り、その物語に依拠して、現在の自己というものを確定している。

 偶然培われた可能性も十分にある性向を、家庭環境に還元して物語ろうとすることなど、誰もがよくやるのではないか。例えば「うちは代々実業家気質で、みんな結構独立心旺盛なんだ」とか。また、偶然に出会われた出来事を自分のこれまでの行いに対する賞罰に還元したくなる人も多くいるだろう。突然の不幸に見舞われて、「これは身勝手な私に与えられた試練なのだ。」とか。

 どの物語に関しても、「当たりだ」「外れだ」ということは実証的にはわからない。だから、「僕の人生の物語における語り手=僕の中ではそうしとこう」ということに過ぎないのだが、確からしい物語は他人の強い支持を受けることができたりもするので、ふと調子に乗って、それが自分の物語=フィクションに過ぎないことを忘れかけたりもする。

 今年3月に出た千野帽子さんの本は、人と物語との関係について語った本であり、以上の事情もわかりやすくまとまっていた。

 

 

 この本はweb連載をもとにしているので、内容の多くが以下から読める。

www.webchikuma.jp

 

 

 このように自分の人生を物語=フィクションとして捉えることは、人に迷惑をかけない限りは悪いことではない。それどころか、私はその人にとっての「その人の人生の物語」の虚構性を安易に暴くことは暴力的だとすら思っている。多かれ少なかれ、人は自分の作った物語に依拠して生きているのだから、いろんな人と一緒に生きていくということはその人の物語=フィクション=ウソの中に紛れ込んでいる、その人にとっての「本当のこと」を尊重することだからだ。…といって、できないことも多いのだけれど。

 

 

ホラー映画を観るのはなぜ?

 

 そこで表題にあるホラー映画である。僕はとてもホラー映画が好きで、よく直近に見たホラー映画の話を同僚にしようとしたりするのだが、あまり芳しい反応をいただけたことがない。「観ないですか?」と聞いたりすると「私ホラー苦手なんです。怖いじゃないですか。グロテスクだし。」という返事が返ってきたりする。確かにその通りだ。怖い、グロい、可哀想、痛そう、悲しい。こう並べてみると、なんでこんなもの観るんだろうと思われて来る。しかし僕は観たい時は割と片っ端から観る。

 「なぜ私はホラーを観るのが好きなだろう」−−−そんなことを時に考え、時に完全に忘れ、その問いとの関係においては不真面目な生活を送ったのち、先日たまたま映画『リング』を観返しながら、ピンときたことがあった。もちろん、それでホラー映画が好きな理由を言いつくせているわけではないが、しかし理由の一つを明らかにしている気がする。

 そしてその理由は、上で述べたような、人が生きる中で、物語を語らざるを得ないことと関わっている。

 

ホラー映画の主題は、生前の物語を探すこと

 

 『リング』は観たら一週間後に死ぬと言われる呪いのビデオを観てしまった女=浅川玲子の物語だ。玲子はその呪いを解くべく、元夫=高山竜司に協力を依頼し、二人で一週間の間に様々な画策をする。呪いのビデオに呪いをかけたのは誰なのか。そして、どうして。玲子らの必死の調べの中でそれらが明らかになっていく。

 

リング

リング

 

 詳しいあらすじは以下を参照

リング (1998年の映画) - Wikipedia

 

 『リング』を観返しながら、ホラー映画にしばしば現れる霊的存在への現世の人々による対抗は、その霊的存在の生前の物語を読み解くことによって行われるのだな、と気付かされた。

 『リング』で呪いのビデオに呪われた玲子が取る手段は、呪いの背景を探り、その原因を断つことである。これは多くの幽霊譚と同様だ。生前思い残すところがあった者が死後霊的存在として猛威を振るうに至った場合、生者が取れるのは大抵、その者の鎮魂・供養であり、そのためには自分らに呪いをかけるものが何に対してどのような思いを抱き、今このように呪いを自分らにかけてきているのかを、その存在の認識に即して正確に読解しなければならない。

 つまり、呪いを解き、猛威を振るう霊的存在を前にして生き延びることとは、その存在が呪いを開始するに至った物語を見つけることと不可分なのである。

 『リング』という映画が秀逸なのは、この「物語を見つけなければ死ぬ」という呪いの根本原理を最後のどんでん返しにうまく利用していることだ。

 

 

物語を誤読すると死ぬ

 

 玲子と竜司の調べで呪いをかけた存在は山村貞子という女と特定された。彼らは貞子の怒りを鎮め、呪いを解くために、貞子が呪いをかけるにいたった原因を特定した上で、貞子がいま、何をして欲しがっているのかということに関して推測する。そして、貞子の死体が眠っているとされる井戸の底に潜り、どぶさらいをしてその骨を見つけ、地上にもどしてやることで、呪いを解こうとする。

 どぶさらいの最中、一週間後に死ぬ呪いをかけられた玲子が規定の時間を迎えたが、彼女は死ななかったため、彼らはこの方針が正しいことをいよいよ確信した。

 しかし、その後、時間差でビデオを観た男の方は一週間後の時間を迎えて呪い殺され、女は自分たちの行為が結局呪いを解き得ていなかったことに気付かされる。つまり男は霊的存在=貞子の物語を読み違えたため、死ぬことになったのである。ここで、他人の物語の誤読は即、死に直結している。

 

 ホラー映画では多かれ少なかれ、超人間的・超道徳的な霊的存在(『リング』では山村貞子)が現れ、破壊的な暴力を生身の人間に対して振るう。ひ弱な現世の人間たち(『リング』では上述浅川玲子や高山竜司)は力という点では決して彼らにかなわない。現世の人間は、彼らの生前の物語を発見し、正確に読解するしかない。霊的存在たちの実証的な事実だけ捉えても、彼らの呪いを解くことはできない。読むべきなのは、彼らにとっての、彼らの中での真実性である。それは、彼らの人生の物語=フィクションを読解することでもある。

 このように、他人の物語の誤読が即、死に直結するという進み行きが、私にとってホラー映画が魅力的なものである理由なのだろう。なぜならそれは、物語を読むということの、もしかしたらわかりやすぎる効用を示しているからだ。つまり、至極単純にいえば、生き延びるために私たちはフィクションを読むのだ。ホラー映画というトポスでは、読解対象が霊的存在にとっての、彼らの中での真実、つまり一般的にいえばフィクション=虚構=「ウソ」のことも多いのだが、「ウソ」だからといっていい加減に読むことはできない。

 ホラー映画は絶望的で残酷で、できれば目を背けたい描写が続く。しかし、誰一人生きのこらずに終わるホラーは稀である。むしろ、力の面では決してかなわない存在に現世のひ弱な人間たちが対抗しうるという結末は、私にとっては希望に溢れたものに思われる。それも、大きな暴力に対し、正面から同様の大きさの暴力を当てるのではなく、それ自体最も非力に思われる方法−−−すなわち、読むことによって。