余白から生まれる透明な寂しさがいい 市川春子『宝石の国』
大学一年生の時、シラバスでふと見つけた船曳ゼミに未だに参加しています。その読書会で市川春子『宝石の国』を読んだので、今日はその感想を書いていこうと思います。
※この読書会の関連で読んだ作品について考えたことをまとめた記事として、他に以下のものがあるので、よろしければこれらもご笑覧ください。
余白の多い画面が良い
正直一巻の半ばまであまり惹きつけられる感じはなかったのだが、それをすぎたあたりからこの作品の描線に感覚が馴れていき、容易に抜け出せなくなってしまった。
先に言ってしまうが、ストーリーラインの中に見るべきものは正直ほとんどないと思う。SF、ファンタジー、仏教のモチーフが入り乱れる本作の設定は悪く言えばめちゃくちゃ。よく言えば自由。入り乱れているそれぞれの要素がうまく絡み合えば「めちゃくちゃ」ではなくなるのだが、正直個々の要素があまり巧みに結びついていない感じがある。
それでは何がいいかというと、多くのものを捨て去り、綺麗で清潔なものを残す、作者の感性、世界の捉え方がよいのである。ストーリーラインは、この作者の世界の捉え方を示すための手段にすぎないように思われる。
まず1コマ取り出してみよう。以下のような画なのだが、要するに描かれる対象が丸みを帯びた線により抽象化されており、複雑な部分や汚れは捨象されている。作者は描写を行う上で厄介なものを無視しているのである。
厄介なものが捨てられた、綺麗な身体
同様の操作は彼らの身体に関する設定の上でも行われている。主人公たちは「宝石」であるとされ、作中の大部分でピカピカと光り輝いており(下図参照)、破壊されても輝く宝石の破片になるわけで、血液が飛び散ったり身体の形が不恰好に変わったりすることはない。痛みの感覚もないし、性別もないのだ。身体の持つナマモノ故の厄介さが、ここでも徹底して無視されている。
それゆえに、第一に私が持つことになったのは「なんだか宝石いいな、綺麗で…」という偏差値ゼロメートル地点の感想だった。第二に持つことになったのは寂しい、物悲しい、という感想である。前者は後者と結びついている。多くのものを捨象することからくる寂しさが、小さな宝石の輝きを強調しているからだ。
捨てることが喚起する、透明な寂しさ
それでは、多くのものを捨象することがなぜ寂しさを喚起するのだろうか。
それは、読み手の想像力がその裏に捨てられてしまったものを二重写しにして読むからだろう。抽象化された描線は、ずれ、重ね書き等を排した迷いのない曲線で構成されており、線と線の間は多くの要素を捨象したがゆえに成立する単色の広い余白で構成されている。読者として僕はここに、本来あるべきものの影を見、そしてそれが捨て去られることの寂しさを感じるのである。
同様の余白は、ストーリーの上では、時間的・空間的なものとして現れてくる。敵との戦いと日常生活との単調な繰り返しからなる展開らしい展開が不在のストーリーラインにおいて、目を引くのは彼らが作品内で経る時間の長さ(エピソードとエピソードとの間に100年くらいの時間が経過していたりする)や、彼らせいぜい二十数人が活動する場としてはあまりに広い草原である(下図参照)。
ここで注目されるのはやはり余白であろう。描出されたエピソードが彼らの単調な生活のほんの一部であることを示すかのように挿入される間に過ぎた時間の長さへの言及は、描かれることのなかった時間=余白を読むものに意識させる。小さな宝石たちと大きな草原との対比は、その間にある広大な空間に広がる何もなさ=余白を強調する。
「なんだか、とてもいいな」と思ってしまう寂しさ
大きなものと小さなものを対比した時、そこには透明な寂しさが生まれてくることを、柴幸男『わが星』が岸田國士戯曲賞を受賞した際に、選考委員である野田秀樹が指摘したが、この作品ではまさに大きなものと小さなものとがいたるところで対比されており、それこそが、作品全体を覆う物悲しさを生み出しているように思うのである。
多くの人がこの作品の描写の上での余白に、また、この作品が前提とする時間的スケールの大きさと、クローズアップされるもののちっぽけさとの間に生まれる余白に、不思議とひきつけられてしまうのではないかと思う。それは目に入るあらゆるものに関して容易に情報を得ることができ、また時には情報を得ることを駆り立てられる今日においてこそ一層力を増す、描かないこと、捨てることの魅力なのだと思う。
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