SUMMERY

目をつぶらない

滑らかに生きたい。明晰に生きたい。方途を探っています。

「お勉強」と仕事の間

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学校からの帰り道

学校の先生になった理由?

 以前「学校の先生という選択肢を捨てた理由」という題の記事を書いた。

 

summery.hatenablog.com

 

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 その手前恐縮なのだが、私は現在都内で高校の教員をしている。国語科である。現代文専門だ。

 なぜそんなことになったのだろう。はっきりと教師になろうという選択は、最後までしなかった。しかし、なぜか、流れ着いたのである。もちろん、内定をもらってそれを受諾する、ということはしたのだから、選択はしたということになる。けれどもそれはその時の状況がそうさせたという感が強く、はっきりと、何年も教員という職業を背負ってやっていくことになるのを意識しながら、数ある選択肢を捨て去り、教員を選んだのではない。だから、いまだにどうして先生になったのだろうと思う時がある。

 しかし、なんだかんだ教員という選択肢からつかず離れずに長い期間を過ごしてきたことは事実だ。だから長い目で見れば、曖昧なまま少しずつ、私はそちらの方向を選択していたのかもしれない。それは、他の全てを一瞬のうちに断ち切るような意味での「決断」ではなく、なんとなくそっちの方に接近していき、長い時間かけて境界線を少しずつ超えていくような、そういうゆっくりと深まりゆくような、選択だったのだろう。

 

「お勉強」という消費

 それでもやはり、なぜを問わないわけにはいかない。なぜ私は教員を選んだのだろう。そんなことを少し考えた。それで出た結論は、「「お勉強」するのが好きであるから」というものだ。「お勉強」という風に、小馬鹿にしたように表現するのは、私の中に、学問を消費している、という実感があるからだ。

 どういうことか。

 「お勉強」という言葉で私が示しているのは、最先端の学問的知見をわかりやすく噛み砕いてくれた新書や軽めのハードカバー、参考書、そして特に気になるテーマに関する論文を読むことを示している。その読書を通して知らないことを知ることができるし、物の見方は広がる。何か複雑なものを理解することにより知的満足感も得られる。「お勉強」は端的に言えば楽しいものである。

 「お勉強」が「楽しい」ものであるための重要な条件となっているのが、「勉強という行為の意味について考える必要がない」ということだと思う。もちろん「お勉強」と考えることは不可分だ。しかし、考える作業であれば楽しいというわけではない。例えば、クイズやゲームなどに時間を費やすことは私はあまりしない。一定時間以上やると、むなしさが募ってくるからだ。なぜそれに時間を費やしているのかわからず、時間と知的体力を浪費している気持ちになってくる。

 しかし、「お勉強」は違う。お勉強する内容は、大抵いつかの時代にどこかで誰か天才的な頭脳の持ち主が、熟考の末に導きだした知見の上澄みだ。そして今日にいたるまでの長い時間の中で様々な分野にその思考様式等は応用されている。それを勉強する意味付けについても、既に膨大な蓄積がある。

 いきなり極端に大きな話になるが、私たちが生きている意味は根本的にはない。何をしてどのように生きようが、価値の差などない。だからこそ逆に、時間をどのようにすごせばよいのか、よくわからなくなることがある。しかし「お勉強」は、その行為をする意味を、十分に供給してくれる。それをしている限りにおいて、私はあまり考える必要がないのだ。つまり、楽なのである。

 楽で楽しいから、私は「お勉強」をする。もちろん都度、何か目的意識を持って勉強をしている。授業の準備のためであるとか、生徒の自由学習の手助けにするためであるとか。しかし根本的には楽で楽しいからするのである。そうした行為の動機ということだけ考えれば勉強をする動機は、テレビを観たい人がテレビを観る動機と変わらない。楽でありたい、楽しくありたい、という風な欲望を出発点としており、どちらもいわば「消費」なのだ。

 私は「お勉強」を、学問的知見の「消費」という意味で使っている。上のような意味で、私は学問の消費者の一人である。

 

「お勉強」は誰のため?

 さて、話しを戻そう。私は「お勉強」が好きなので、教員になった。

 教員には、私のような「お勉強好き」が一定数居る。常に勉強をし、そこで得た知見を授業において生かす。わかりやすい解説本を大量に読み込んでいることもあり、教科の内容を噛み砕いて解説する方法を私のような教員は心得ていて、一定程度の支持を得られる。

 しかし、問題はここからである。

 「お勉強」好きな教員の基本的な姿勢は消費であり、知識欲という自分の欲望を満たすことだ。自分の勉強にはならないが純粋に生徒のためになることを、私は正直、大してしたくない。その最たるものが、事務作業や部活動顧問である。しかしここで私が「大してしたくない」と言っているのは、こうした明らかに授業と区別される活動だけではない。昨今教員のブラックな勤務実態が明らかになる中で、「事務嫌だ」「部活やりたくないです」は言いやすくなっている。だからといってやらなくて済むことは稀だが、やりたくないことを表明できる環境と、それを言うことすら憚られる環境とは大きく差がある。

 私が嫌なのは、丁寧でわかりやすいプリントを作ったり、毎日こまめに宿題を出して、それをチェックしたりということだ。私の勤めている高校はそれなりに受験指導に熱心である。朝学習、放課後学習、夏期講習などがあり、頻繁に小テストや課題提出がある。

 これらが正直今、面倒でたまらない気がしている。なぜならそれらは純然たるルーチンワークだからだ。いわばそれらは計算ドリルのようなものだ。そりゃあ毎回きちんと先生がチェックしてあげたほうが、上達はするだろうが、そんなことをしていたら私の「お勉強」の時間がなくなってしまう。

 彼らができるようになるのは嬉しい。彼らの成長に貢献できているという実感は嬉しい。もちろん、そうした喜びを、私は十人並みに感じる。しかし一方、テストの採点なんて、別に私でなくともできる、と思うのだ。

 生徒の学力的な向上や、健全な発達を支援するのが教師の役割だとすれば、こまめに宿題を出したり、体験学習等の企画運営に時間を使うほうが、半分消費のような「お勉強」をするよりも目的に適っているはずである。しかし私は、それをすることを、本当に面倒に感じる。

 「お勉強」が授業に還元されればよい。私の「お勉強」が回りまわって生徒のためになればよい。それが一番幸福な形だ。そうしているし、そう出来ているつもりでいる。毎週のように休日図書館に行き、借りてくる膨大な教育本や、ブックオフでふと購入する参考書の類。それらから得た知識を私は授業を通じて還元している気でいる。しかし、改めて、教師の「お勉強」は果たしてどれだけ授業に還元されるのか、私は疑問を抱いている。それを生かすことができるためには、相当に大きな裁量を与えられていなければならない。厳密に授業計画を立てることを求められ、毎時間生徒が身に付けなければいけないことが決まっているような学校(大半はそうだろう)であれば、「お勉強」が効果を発揮する場面は多くないのではないか。究極、学校によるとしかいえないのだが、ほとんどの学校では、教師が「お勉強」を通して授業の質を向上させようとするよりもドリルのチェックなど生徒のお世話に労力を費やしたほうが、学力は向上し顧客(生徒)満足度という意味での「教育の質」は上がる気がする。もちろん、「教育の質」ってなんだよ問題は、あるのだが。

 

「お勉強」ができる職業

 「お勉強」を業務時間外にやるのだったら立派なものだが、見る限りお勉強好きな教員は、「お勉強」を業務の時間内にやる。これは当然かもしれない。教師の業務の性質上、「お勉強」は授業準備と切り離せないところがあるからだ。それを切り離し、「お勉強」はするな。授業準備や校務分掌だけしろ、と言われたら窮屈すぎる。私はそんな職場は辞めるだろう。その効果は正直曖昧なのだが、教師は「お勉強」を仕事としてできる。

 だから私は、「お勉強」好きな人に、教師はうってつけだと思う。実は、下手にいろいろ「お勉強」するより、指導書(馬鹿にしていたが、改めて読むと大変良く出来ている)に首ったけになるほうが、結果的にはいい授業ができる可能性は多々ある。けれども、だからといって教師の「お勉強」が表立ってとがめられる、などということはないのである。

 大学で詳細なシラバスが求められる昨今では、厳密な時間管理や、数値で表すことのできる成果が求められ、教育現場でも「お勉強」をするのに窮屈に感じることがある。国語科は、身に付けるべき能力が教科書掲載のテクストと不可分なものではなく(=教科書に載る文章自体を暗記したり、その文章の思考法を身に付けなければならないというわけではない)、目的が読む方途や書く方途を学ぶ科目であるため、他の科目に比べて教材選択の自由は確保しやすい。つまり「お勉強」が生かしやすい。しかし他の教科に関して言えば、少なくとも卒業までに全範囲を終わらせ、基本的な問題が全員解けるという状態を目指すのであれば、そうはいかないだろう。他教科の同僚らは、国語科の私がやっているよりもはるかに小テストの作成や採点、入試対策の教材作成に時間を取られている。彼らにとって、指導とはほぼ、大学受験のための指導に等しい。彼らは否定するだろうが。

 しかしそれでもやはり、「お勉強」が曲がりなりにも許され、それを仕事の一部としてみなしてもらえる職業の筆頭は教員なのである。それが本当に生徒のためになるのかは別として。

 誰のために働いているのかを、ここでは明確にしなければいけない。自分を中心に考えるのであれば、お勉強をしてよいというのは大変なメリットだ。けれども人のためになること、人を喜ばせてお金を得るのが仕事なのだとしたら、お勉強ばかりする教員はよい教員ではないということになる。彼は、話は面白いかもしれない。そして、面白い話が好きな生徒のためにはなるかもしれない。しかし根本的に、自分の勉強が第一で、あわよくばそれを授業に生かそう、くらいにしか思って居なかったりする。

 

なんのための教員?

 どれだけ他者に裨益するような仕事をするべきか。どれだけ自分のことを優先してよいか、私はわからないでいる。もちろん、そんなことに解はないのだ。それは周囲との関係性によってきまってくるもので、社会人はみな一律、顧客第一にしなければならない、という決まりなどない。というか、「顧客第一」という言葉や姿勢に潜む欺瞞というのも、結構怖いものだ。だからといって、自分のことばかり考えることが免責されるわけではないけれど。

 教育は一筋縄ではいかない。授業の目的の一つに生徒の学力向上は数えられるかもしれないが(学力って何?問題も置いておく)、教育全体の目標が学力向上というわけではない。私は幸い、生徒指導は好きなので、そこに多くの時間を使ってもあまり苦痛は感じない。それに時間を費やしたからといって、「お勉強」の時間が無駄になったなとは思わない。授業だって、受験のためのことを教え込まなくてよいのなら、きっと今よりも好きになれるだろう。自分の考えを素直に伝えたり伝えられたりすることができる場に、授業がなれば。けれどもそれは、一人よがりになりかねないのであるが。それならば、受験のための勉強を教えているほうが、まだためになる、と考える自分もいる。私は受験勉強を否定しているわけではない。それは本当に様々な面で役に立つ貴重な技術だ。小っ恥ずかしいが、この社会において「生きる力」の重要な構成要素として事実あると思う。でも、それを繰り返し教え込むことには、あまり前向きになれないでいる。

   どんな目的で、何のことを考え、誰の方を見て仕事すればよいか、よくわからなくなってきている。そして、それにある程度答えをだすためには、自分の核としてある「お勉強」を仕事にどう生かすか、というところが深く関係してある気がする。

 もう少し考えていきたいなと思う。