SUMMERY

目をつぶらない

滑らかに生きたい。明晰に生きたい。方途を探っています。

「本当のこと」と仕事の間:とある退職エントリに関して

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 就労を始めて1年半を超えた。大学・大学院時での私はお世辞にも会社でうまくやっていけるようなタイプではなかったので、そういうタイプの自分でもやっていけるような職場を選びはしたのだが、それでも働き始めるまでは大変不安だったし、働き始めて一ヶ月ほどは「これは続かない」「来月辞めよう」などと考えていた。当時の不安な気持ちは以下の記事に一部見られる。

 

summery.hatenablog.com

 

 

 今も、「いつ辞めようか」とよく考えはする。ただしそれを「来月」というような短いスパンで考えることはなくなって来た。端的に、いてもたってもいられないほど我慢できない、という局面が減って来たのだ。「やめるとしたら、今手掛けている仕事が終わる半年後かなあ」というように考えたりする。つまりは少なくとも二、三ヶ月は耐えられる自信に、その気持ちは裏打ちされている。慣れたのだ。

 慣れたというのは、職場の人間関係をハンドリングするすべを学び、かつ自分に何が求められているのかわかったというようなことだ。完全に順応できたわけではないが、日々気持ちの調節を怠らなければ、我慢できそうにないと思われる時でも、二ヶ月はなんとか続けていける、というように思える。そしてそれを積み上げた先に、半年、一年続けることはあり得ると想像できる。

 

 そんな折、ツイッター上で長らく観察していた人の退職エントリがツイッターで回ってきた。ここでは仮にBetterさんとする。本当は、ツイッター上の実名を出しつつ一旦この記事を書いたのだったが、書きながら、この記事の主眼がむしろ書く自分の考えの表明にあると気づいたので、それを明確にするために虚実を織り交ぜた。ということで、以下は現実に根ざしたフィクションと読んでもらえればよい。

 

 Betterさんは面識はないものの(実は一度くらい、ジョナサンとかで一緒になったかも)、私と同じ年に同じ大学の同じ学部に入った。それで、私がツイッターを盛んにしていた頃にはやりとりをしたこともある。もう5-6年も前の話だ。 

 

 当時私は自分が就職してサラリーマンになるなどと思ってもいなかった。そのくせ官僚になることは漠然と選択肢にいれており、官僚などまごうことなきサラリーマンなのだが、その二つを結びつけ得ない程度の貧困な職業への認識しか持ち合わせていなかった。

 とにかく自分が「サラリーマン」と名指される数多いる無名の労働者の一員になりたくはないという実存的欲望はあった。そしてこれは多くの学生が一度は持つ欲望だろうと思う。当然Betterさんのような人もそのように思っているのだろうなと、今から考えれば大変勝手にも、感じていた。

 

 その後私は学部に進み、卒業し、大学院を修了した。この間ずっとちょくちょくBetterさんのことをツイッターにおいて観察していた。常識を思わぬ観点から反転させてネタに昇華する、そのネタツイートの際のラディカルさとは裏腹に、西洋古典学科に進んで以降、つぶやきから垣間見えるBetterさんの勉強はアリストテレスを原語で1行1行読み進めるという手堅いもので、およそ体系だった勉学とはいいがたいような、適当に批評文献や小説を読み散らかしていた自分は慄いたものである。

 

 その後、Betterさんは確か、修士に進み、一年ほど勉強を続けたのち、改めて別の大学院への進学を志したようだった。それで、一時期そちらの方面の本を盛んに読んでいたようである。しかしなんらかの理由で、おそらくこちらの道を諦めた。ということで修士の修了までにBetterさんは1年余分に要し、私の方が先に社会に出たということなのである。

 冒頭でも触れたように、昨年私は入社1年目で、苦労しつつも会社に少しずつ慣れて行こうとしていた。詳しい経緯はわからないが、この間金銭的に展望が見えないことや、西洋古典の大学院で勉強していても「本当のこと」に近づけない(?)という見切りもあり、Betterさんは就職することになったようである。で、働き始めて約9ヶ月で退職を決めた。以下の(ような)記述に、最終的にたどり着くわけである。

 

虚しさに襲われることはよくあった。例えば、月に一度程度の飲み会で、二つくらい年下の同期たちとの間の、いかなる点でも意味を感じられない会話をした後など。本当はそんな頭でまともにものを考えられるはずもないのに、アルコールに軽く浸った脳を酷使するように、『形而上学』を読んだ。面白かった。少なくとも彼には本質への志向性を感じた。

満足した豚というが、満足すらしていない僕はただの豚かもしれない。ただの豚としてこれから30年、40年と生きることに、それほど意味があるのだろうか?そうした問いを抱えてしまうように、抱えてしまわざるをえないように生きてきた高校以降の15年間を思った。確かさが欲しい。失われないものや嘘ではないもの、本当のことを探したい。

少しでも頭をはっきりさせようと、濃いコーヒーをがぶ飲みして、カフェインに弱いので今度はカフェインに酔って、亢進状態で指先を震わせながら、退職届を書いた。

 

 この記述に書いてあることは私にもわからないではない。いや、もう少し正直に書くと大変よくわかる。ただし、これも正直に書くが、求めるものに対して与えられる「確かさ」「本当のこと」という言い方に私は違和感を感じてしまう。そんなもの、あるのだろうか。あるとしたらそれは相対的な意味においてではないだろうか。「自分にとって本当のこと」というのなら、これは十分理解できる。しかし、だとしてもそれは、どこかに確固としてあって見つけることができるようなものではないのではないかと思う。

 だからBetterさんの試みは、結局「自分にとって本当のこと」を自分で見出していくということに落ち着くことになるのではないだろうか。なぜならそれは自己の固有性と決して切り離せない形でしか顕現しないはずのものであるから。わからない。それ自体私の方の信仰のようなものに過ぎないのかもしれないのだけど。とにかく、私はそう思う、ということ。 

 翻って自分の方を向くと、私は私で、今働きながら大学院に通っているのであって、今後なんとか資金繰りをして大学に通おうとしているBetterさんと軌道としては一部似通っているかもしれない。ただしここまで述べてきたことに関しては大きな差異があって、私は自分個人が日常生活で感じていること、抱えている問題意識を言語化し、読むに耐える形で送り出していきたい、そのすべを学びたいと思っている。それは「失われないものや嘘ではないもの」の対極にあり、誰もすくい上げなければ簡単に失われる、現に失われつつあるものであるし、また、私以外の人から見れば大嘘に見えるものである。

 「嘘」に見えるものごとの自分にとっての真実性を抗弁すること、そしてまた、すでに失われたもの、そのままでは失われた状態でありつづけるものの輪郭を改めて描くことは、私が専門とする大江健三郎の基本的な姿勢でもある。だから研究している、ということになる。大江は最終的に、個々人にとっての真実性を送り出しあい、それを聞きあう共同体のモデルを小説の場で作り上げようとしたと私は考えており、それをそれなりに説得力のある形で論証するのが私の目的である。

 

 ところで、Betterくん(突然「さん」から「くん」になり、大変なことになってきたが、私は一応同じ年に大学に入った「同級生」ではあるのだから)が盛んに言及するアニメに「10センチメートル毎秒」がある。このアニメはまさに、失われていくものや、本当でないこと=嘘に満ちている。そしてそこにこそ魅力がある。喪失や虚偽を描くことを通じて影絵のようにして浮かび上がる主体の、弱さ、曖昧さ。それらを抱えながら生きる姿にこそ、その人なりの固有性と現実を生きる一つのモデルを私たちは見るのではないか。単なる「決め」の問題にすぎないのかもしれないが、私はそちらの領域に強い関心があるし、それは「「10センチメートル毎秒」に魅力を感じるBetterくん」の関心と通じているはずだとも思う。

 

 誤解を解いておこう。私はBetterくんの今回の退職から「本当のこと」探しに向かう一連の動きを「自分探し」として揶揄しているわけではない。同じように「本当のこと」への志向を共有してしまう一個の個人として、「「本当のこと」を求める自分」といかにして彼が共に生きていくかに興味がある。人は誰しも、その人の生きてきた人生に固有の偏向(良い意味でも、悪い意味でも)を抱えている。それはその人の一部なのであり、簡単に捨てさることはできない。というか、それを簡単に捨て去ったり、それに蓋をしようとすることは強い言葉でいえばそれ自体誤りであると私は思う。