SUMMERY

目をつぶらない

滑らかに生きたい。明晰に生きたい。方途を探っています。

大江健三郎における「本当のこと」

・・・ところで、先の記事を書きながら、大江健三郎の作品を長らく読んできた身として、どうしても「本当の事」というフレーズを大江健三郎と結びつけて思い出さざるを得なかった。

 

summery.hatenablog.com

 

 Betterさんのモデルになった人が意識していたかはわからないのだが、「本当の事」は大江健三郎の『万延元年のフットボール』(1967)における鍵語である。

コギト工房 大江健三郎 万延元年のフットボール

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 『万延元年のフットボール』のあらすじについては上記記事で明らかであろうが「本当の事」は観察者=語り手=根所蜜三郎が描き出す行動者=蜜三郎の弟=鷹四が静かに、かつ、熱狂的に追い求める対象である。作中では鷹四は最終的に「本当の事」にたどり着くことができずに猟銃で自害するように描かれる。服部訓和はこの結末につき、自害によって読者に提示される、ざくろのように割れた鷹四の身体こそが、むしろ「本当の事」の内実であったのではないかと述べている。

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 大江はこの作品に限らず、死んでゆく行動者とそれを観察する語り手という二者を度々小説に現してきた。『万延元年』から実に40年近く経ち、発表された作品『憂い顔の童子』には、この「本当の事」問題が、行動者から観察者=語り手に受け渡されていることがわかる。下引用部「古義人」は大江健三郎自身の似姿である、老年の作家=語り手のことを示している。

ウソの山のアリジゴクの穴から、これは本当のことやと、紙を一枚差し出して見せるのでしょうか?死ぬ歳になった小説家というものも、難儀なことですな!

大江健三郎.憂い顔の童子おかしな二人組」三部作(講談社文庫、初出2002年)(Kindleの位置No.137-139)..Kindle版.

 

そして千樫がつたえたのは、古義人さんがウソの小説の山ひとつできるほど書いてから、歳をとって紙きれ一枚分でも本当のことを書くならば、それは本当と信じてやってほしい、というものだった。吾良さんのことを思うてベルリンで働かれておる間でも、その後のことになっても……

同上(Kindleの位置No.207-210)..Kindle版.

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 「本当の事」に惹きつけられ、それにたどり着くことと死の招来を同時に行ってしまう行動者の系譜とは裏腹に、観察者の系譜は、迂回を繰り返し、迂回を積み上げていくことでこそむしろ、対象に接近することを試みる。二人の女性たちが語り手=古義人の「本当のこと」について言及するように、古義人は迂回を繰り返す中で、周囲の人との関係性を切り結び、彼らに後押しされるように小説を書き続ける。

 小説を書くことの中で追及される「本当のこと」とは何か。それが最近気になっている。おそらくそれは、言語以前の領域ということになるのだろうが。

 80年代の大江作品では、超越的なものに傾倒する語り手がしばしば登場する。彼らはいわば「本当のこと」に惹きつけられており、それを書き終えれば書くべきことは全て終わるような、究極の小説、最後の小説を構想したりもする。

 しかし小説中、語り手のそうした試みは基本的にいずれも失敗で終わるのだ。そして、むしろ超越的なものに対する接続が断たれた地点でこそ、他者と交感するトポスが開かれる。大江におけるフィクションは、この最後の小説を書けない地点から始まっているように、私には思われる。