SUMMERY

目をつぶらない

滑らかに生きたい。明晰に生きたい。方途を探っています。

エヴァンゲリオンの中の愚かな人間たち

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 お正月にPrime Videoにエヴァ序・破が入り、何事にも基本的に集中できない飽食と惰眠の二、三日、なんとなく改めて観たのだった。実に五年ぶりくらいだった。というのもQは気になって何度か折に触れて観てはいるものの、序と破はQの前座のような気がして、ストーリー的にも序などイントロダクションのような感もあり、観返すほどではないと思っていた。

 そのような感想は特に変わらなかったが、働き始めた自分自身の経験からの捉え返しもあり、今回得た印象は、エヴァンゲリオンというのはネルフという組織を描いた話だということだ。そんなの当たり前だろ、と思うかもしれないが、私が言っているのは、そこに日本的組織が抱える問題点と葛藤が描かれている、ということだ。以下ざざっと駄文を書きなぐる。

 

シンジくんはむしろ普通の若者

 シンジくんはよく見ると別に弱い子でもみっともない子でもなく、私が同じ立場でもエヴァには乗りたくないし、お父さんに反抗しつつもその愛を求めてしまったりするのだろうと思う。そんなちょっと内向的な普通の若者であるシンジくんがみっともなく弱い子だと思えるとしたら、それはネルフという組織に内在するおじさんたちの、「自分たちのミッションに積極的に貢献しようとしない若者は弱い、格好悪い」というステレオタイプを観衆が内面化してしまうがゆえだと思う。

 そしてこれは別に、会社で頻繁に起こること・・・な気がする。幸い今の職場(職員室)でそういう経験をすることはないが。

 例えばある会社が売り上げ目標を立て、まあ大して役にも立たなさそうな商品をひたすら売りさばかなければならないとして、もしそこで商品の社会貢献性なり、売り方あなり、なんでもいいが疑問を持って「こんなものを売りたくない」などと言おうものなら、「結果を出せないから逃げる」「言い訳ばっかり。みっともない」「自分の殻を破って売ってみろ」などと言われてしまうのではないか。

 

誰も言葉をうまく使えない

 シンジくんに欠けているものは自分の問題意識を言語化する能力である。なぜエヴァに乗りたくないか、なぜ周囲の人たちのいうことに自分が反発するのかを彼は明確に説明できない。そして、彼の周囲の大人たちもそんなシンジくんの悩みの核心をすくい取り、彼を根底的なところで説得することができない。今回見て思ったのだが、シンジくんの理解者だと思っていたミサトさんは、公平に見て時折当たらずとも遠からずなことはいうが、結局はすぐ精神論になってしまって、ダメだこりゃ、と思った。こういう人すごいいそうだけどね。

 こうした根本的なところでのディスコミュニケーションが、作品を覆う人と人との間の感情的・性愛的なやりとりの表面化につながっていると思う。

 赤城リツコさんおよびそのお母さんが碇ゲンドウに手篭めにされたこと。私にとってはシンジくん以上に、そちらが気になっている。優秀な研究者が男性との性愛関係からぬけだせず、叛逆を試み、かつは失敗し死ぬ。死後もシステムの中に生き続ける母親は、娘とともにゲンドウに反抗することよりも、あくまでその腕の中に抱かれることを選ぶ。女天皇を手篭めにした道元を、なんとなくゲンドウという名前から思い起こしてしまう。理性の敗北は、人間存在というものの卑小さを表しており、こうしたネルフ内部の動物的な人間同士の関係のありように比べれば、優れて魅力的なフォルムを持つ使徒キリスト教神秘主義のモチーフなど一体どれほどのものだろうと思う。

 

愚かな日本の組織を描く庵野監督

 いや、そうした卑小な人間存在のあまりにも打算的な目標の追求や、自分で決めてしまった規範に絡め取られて生きることの、本人にとっては深刻であろうが、組織から降りることや逃げることを肯定する微温的な言説が氾濫する現代から見るとどうしてもただ単に「愚か」といってしまいたくなるようなありようが、まさかの神の意志や世界の崩壊といった、その小ささに対比した時めくるめく大きな状況と直結してしまうことが、作品の魅力を構成しているのだろう。シン・ゴジラもしかりだが、庵野秀明は日本の組織のあり方、その中での卑小な人間模様を描くためにこそ、巨大な怪物を作中に出現させているように思う。世界を滅ぼしかねない使徒と戦うのが、モラルの低下した、どこぞのブラックな中小企業にいそうなネルフの人間たちというあまりにも終わってる状況は、むしろエヴァンゲリオンの本領なのだろう。