SUMMERY

目をつぶらない

滑らかに生きたい。明晰に生きたい。方途を探っています。

『秒速5センチメートル』や『風立ちぬ』を観て泣きたい君へ:私たちの世代のロマン的感傷のありかを考える

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 大学時代に友人の県人寮で一夜を明かした。彼は男性同士の汗臭い友情—極点では同性愛に通じるようなそれ—をすごくナイーブに求めていた。そうした類の感傷を私は普段なら馬鹿にして終わりなのに、あまりにも彼が真面目で、真面目にナイーブな感傷を抱いていて、その時私はそうしたナイーブさを保持できない自分の側の方が、どちらかというとむしろ大変に斜に構えているということになるのかもしれないと思った。

 そうした自分の中の屈折を保存したまま、結局彼に出さなかった手紙が、以下のもの。書くうちに、彼は私の世代の一つの類型で、だとしたら私は単に個人的な手紙を書いているのではなく、これから死ぬまでに何度も出会う彼のような人物に宛てて書いているのではないかと思った。例によって脚色はしているけれど、ご笑覧ください。

 

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 坂上健太郎 君 

 久しぶりです。私のことを覚えていてくれていれば嬉しいけど、そうでなくても、これが自分に宛てられた手紙だというその一点をもって、貴方が以下の文面を読んでくれることを願います。最後に会ったのは多分、西荻窪にある貴方の寮に行ってから半年後くらいに、大学の一号館の廊下ですれ違った時だったね。その時私は貴方と目が合ったけど、綺麗に無視してしまいました。

 

 その前に、貴方は確かメールをくれたと記憶しています。それは私の家に行っていいかというものでした。私は、自分は実家生であるし、貴方の期待するようなことは僕の家では出来ないよ、という意味合いをこめて断った記憶があるけど、もちろん断った理由はそれだけではありませんでした。その時は、だけどそれだけであるように見せようと思ったから、それが功を奏していたら嬉しいなと思う。

 

 私は実を言うと、貴方の寮で一晩明かした時に恐れを抱いてしまったのでした。それはいかにも童貞らしい理由で恥ずかしいけれど、簡単に言えば身体的なものへの嫌悪感で、もっと俗っぽく言うと、汚いな、と恥ずかしいなの二つだった。これは貴方が、僕が、ということではなく、全体としてそうなのです。私は貴方が接吻を迫ってきたときに、貴方の口腔のかすかな生臭い匂いや、それをまた自分も同程度かそれ以上に発しているという感覚に、どうしても我慢できませんでした。

 

 私は常にそのように目の前の対象の汚点を見つけては、それが自分にもそっくり当てはまる事実にその都度驚愕とともに出会い、そしてそれを人に見せたくないと思う恥の感情をおさえられなくなります。また貴方が何度も私に接吻を迫ってきたときの貴方の、「本当は君もこういうのが好きなんだろ」と確信を以て勘ぐる、来るべき結果を既に手中にした上で状況それ自体を楽しむような下卑た迫り具合、それが私には醜く感じたのでした。

 

 こんなこと言って本当に申し訳ありません。ただ、私はそれが私にも同じ様にありうるのが、怖くなったのでした。でもそれだけじゃありません。それと同時に、貴方の様にある場面では同年代の他の学生より遥かに悠々とした冷静さを持つ青年がそのようなある種の老獪さを感じさせる粘り気のある色欲を見せるのは、これは一体どういうことだろうと思ったのでした。つまり私はそれが本当にわからなかったのです。そのような物を私はこれまでに見たことがなかった。しかもそれが通常の貴方からは全く想像が出来なかったという事実、私自身の想像力の欠如にも私は辟易しました。私は自分の見識を少しく信じていたのですが。それは私が私の大してない能力の中でわずかな、それなりに信じているものだったのですが。それはその時は上手く機能していなかったのでした。

 

 私はその時に決定的に私と貴方との違いを感じた、私と貴方とは異なる人間なのだから、違いはあるに決まっている。だからこれは悪いことではない。けれどもそれを私は先に述べた様に予想外の形で突きつけられたから身構えざるを得なかった、のだと思う。

 

 

 そのようなことがあって、私はそれを一つの危機のように感じました。私はそれを貴方に上手く伝えることが出来なかったから、貴方との日常現実生活での交渉を一旦停止せざるを得なかったのです。しかし誤算はあって、これを私はあまり長期間のものと考えていませんでした。なぜなら私たちは同じサークルに入っていたから。私は確かに、貴方がサークルにまともに参加していないし、満足にとけ込むことが出来ていないことは知っていた。

 貴方は確か高校の文化祭の実行委員長をしていたと言っていたね。だからその流れのままサークルも、学園祭で熱心に出し物をやるようなところに入ろうとしたのでしょう。しかし、根本的に人見知りなところがあり、また、他の大学新入生の子供っぽさに辟易した貴方は、少しずつ委員会から距離を置く、もしくは、もっと近づきたかったがそれを様々な理由でためらうことを繰り返し、先延ばしにしている内にいつの間にか遠心力によって遠ざかった。

 私に関しても事情は大体同じだったのだけれど、私の方が貴方よりも若干仕事が多かったから私は一応あの年、最後までは居たよ。私は貴方が委員会に残り続けるとは思っていなかったけれども、そうだとしても今年度の終わりまではやるだろうと思っていたから、そこで何らかの話をする機会があるだろう。また、学園祭の前日から片付けの日まで私たちのサークルはサークル部屋に約四日泊まると聞いていたから、その間にまた寮の時のようなことがあるかもしれないと、期待と恐れを半々に抱いていたのでした。

 

 さて、前座はこれくらいにする。私が貴方について印象に残っているのは、貴方の部屋で『秒速5センチメートル』を見た事。

 『秒速5センチメートル』に貴方はいたく惹かれているようだったね。私も確かにあれは良いと思ったけれども、それは貴方と一緒にあの寮の狭くて散らかった部屋で見たというその思い出の中に組み込んで今、懐かしく思い出すことが出来ているのです。この点は貴方に非常に感謝している。私は確かに、貴方の寮に一夜遊びにいったこと、そのことを大切に思っているからそのことはしっかりと今言っておく必要がある。

 

 その上で言うけれども、貴方はどうして『秒速5センチメートル』に惹かれるのだろうね。というより、私も含め私の同世代からあのアニメが支持を受けるのはどうしてだろうね。そのことを私は貴方と話合いたいのだ。でもこの手紙では貴方と話し合うということは出来ないから、私の考えを提示しておく。

 

 貴方が確かその夜に言っていたように、恋愛のまっすぐさの魅力はその通りだ(私はそれは割とどうでもいいが)。けれども、恋愛を描いたアニメなど星の数ほどあるのだからそれは理由にならない。むしろあの映画の効果として秀逸なのは登場人物の男も女も無個性化されているところだと思う。彼らの顏は、徹底的にリアルに描かれた背景とは対照的に、ほとんど浮くような手書きタッチの描線で描かれているものの、それが過度に美しかったり、魅力的であるわけではない。一言で言えば線が薄く、そのキャラクタを浮き立たせるような工夫を排除してある。

 

 また、あのアニメでは地名は重要なものとして意識されているけれども、それ以外のエピソードの要素は比較的地味だ。手紙のやりとり、転校、転校したあと会いにいくという展開、電車の遅延、何一つとして真新しいものはない。ただそれらが、景色の中で象徴的に美しく点景化されている。

 

 そのような演出により、二つの効果が生じると思われる。一つ目に、それらが無個性的・日常的であるからこそ、それが自分たちの過去にありえたこととして意識されるということだ。言って見ればあのアニメの非個性的な性格は公約数をとってきたが故のものである。

 

 しかしながらその公約数の見方や写し方については工夫が凝らされている。そのように自分にありえたかもしれない出来事の集積を、中学、高校、そして社会人になってからという一つの大きな時間の流れのなかで観察する視点が与えられることで、攫もうとして攫めなかったこと、有り得た未来とそうならなかった現在という対比的な形で喪失が際立ってくる。これはある根源的な、透明な寂しさを喚起する。

 

 それは、大きな時間の流れで見た時、自分はとても小さいということだ。そしてその事実には本当は気づかない方が幸いということだ。私たちは成長する中で過去を一貫して見通す視線を得るが、本当はそれを得ている過程で大きな認識上の変化を被っている。端的に言えば、その変化とはもう二度と取り戻せないものが存在するという認識を得ることに集約される。

 

 そしてこれは翻って言えば、二度と取り戻せないものの唯一あり得る残滓として過去の記憶を再認識することだ。これは本来人生においては長いスパンで少しずつ起き、また常にはそれを意識することではないのだから、あの様にたった二時間未満の映画で一気に見せられると私たちは驚愕する。さらに、これは陳腐な表現となるが、あの映画のビジュアル面での手の入れようは、それら過去の記憶を見るものに美しい風景として認識させる、記憶の美化の役割を果たす。

 

 だから私は、一般的にあの映画が恋愛の要素に焦点化したことが重要とは思わない。それがどのような時間的スパンの中でどのように語られているかが本質的と思う。これについては貴方の反応を待ちたい。

 

 次に、貴方がtwitter風立ちぬの予告編を見ただけで泣きそうになったと言っていたのを見て、私はそれが『秒速5センチメートル』を好く貴方の感覚と共通性があるように思われたからそれを指摘しておく。これは貴方のことを考える上で私にとって重要に思われるからだ。

 

 「風立ちぬ」の予告編は確かサナトリウムの近くの泉で女と堀越二郎が出会うシーンから始まり、関東大震災の描写が続いて舞台が「誠に生きづらい時代だった」ことが紹介される。予告編の最後では男の飛行機があたかも落ちるようなカットが挿入され、また菜穂子が血を吐くところで終わる。

 

 私はこれを見て貴方が、その映画もまた、「旧き良き」時代におけるある喪失を描いたものと想像したのではないかと考える。松任谷由美の曲も、「あの子の命は飛行機雲」と言っているから、二郎が最後死んでいくと考えるのは妥当な想像だし、私も最初はそのように想像したのだ。またもう少し戦争がその前面に色濃く出てくる作品なのではないか、とも・・・。それでなのだが、まず普通の映画に関して予告編で人が泣くことはありえないと一般的な推測として言えると思うから、私は貴方がどうして泣きそうになったのか、それを推測したいと思う。

 

 一つの前提として、ある喪失を嘆くことは、その喪失を嘆く側の共同体の基盤を強く意識することだと言える。何も共感するところがないのだったら感情的に動かされることなどあるわけはないから、これは当たり前の推測だ。風立ちぬにおいては、それは時代性と関わると言える。

 

 すなわちそこにある基盤とは私たちが日本人であり、またそれ故に震災の時代を、戦争の時代を私たちの社会が経てきたということだ。それを私たちは体験して居ない。しかしながら、私たちはそれがあったことを知っている。より正確に言えば、それがあったということになっていることを知っている。そしてそのことは確かに力を発揮する。それは大きな時代がかつてあったことを、そしてそれが既に失われたことを示すからだ。そして菜穂子と二郎とに有り得た関係性が自分にも有り得ることをそれがあり得たことを認識すると同時に失われたことを知るからだ。

 

 私はこの貴方のロマン的感傷は嫌いではない。貴方は何よりも泣きたい、ということは、何よりも何かの紐帯を求めているのだ。しかしそれが本当に今現在ありえないことなのだったら、泣いたって仕方がないじゃないか、と私は思うから、そのことから考えて、貴方がこの紐帯の可能性が現在バラバラな形で存在していること、そしてそれが現在まさに失われていることを思って居ても立っても居られなくなることの二つのことを示しているように私には感じられる。

 

 生まれる前に何があったのだろう、何が有り得たのだろうということを考えることは常にあって、後者で言えば、それは可能性の次元だ。つまり、それがあったかは別として過去であれば有り得たことを私たちは知るのだ。しかし、なぜ私たちは私たちの生まれる前に遡ることは出来ないにも関わらず、その時を慮って、その時に有り得たことに涙するのだろう。何故それがわかるのだろう。そこを貴方は疑問に思わないだろうか。

 

 確からしく手で触れるのは現在であるにも関わらず、私たちは自分の生きてきた時間が鳥瞰的に大きな時間の布置におかれたのを垣間みる視点を得る時、そしてそこで無数の喪失に、それらが喪失という意外の形で存在する可能性を最初から奪われた形で出会う時に、寂しさを得るのは何故だろうか。人間は最初から最後まで孤独であるにも関わらず、過去には孤独でないことが有り得たような感覚になるのは何故だろうか。

 

 私は松任谷裕美のひこうき雲という曲の中で、「今はわからない、他の人にはわからない。あまりにも若すぎたとただ思うだけ。けれど、幸せ。」という部分が最も心に来るのだ。それは、空に散っていった若者が何を考えていたかということが永遠に誰も知り得なくなってしまったからだ。そしてそれはある時には誰もが知り得たことだったからだ。

 

 坂上貴方、私は思うよ。私たちが『秒速5センチメートル』や『風立ちぬ』といった作品で感慨を覚えるのは、私はそれが失われてしまったからだと言ったけれども、修正しなければならない。それが現に失われつつあるからなのだ。その失われつつある残滓は今も私たちの周り至るところに存在する。ところがそれはなかなか目に見えないし、一貫して攫むことも難しい。そして恐らく、それらは、「他の人にはわからない」と言って口をつぐんでいるのだ。

 

 それをわかるようにすることが私たちの義務などと言うつもりは私にはない。ただ私は、貴方にも同じようにそれが当てはまると思うけれども、風立ちぬを見ると何もせずには居られないようなざわざわとした感覚がやってくるのだ。それは私がただ今まで通りに暮らすことを細かいレベルで邪魔をしてくる。私はだからそれをなんとか処理しなければならなかった。出ないと私は、そのような映画をこれから受動的に消費し続けることになるかもしれないと思ったからだ。つまり、そこに私は不在なのだ。私は私が物語に対して随分弱い立場にあるとよくわかっているから、それに何らかの形で対抗しなくてはならない。そうでないと私は一つの阿呆になるのだ。

 

 長くなってしまって本当に申し訳ない。けれどももう終わりだ。私は貴方を見ているうちに、私に似通った部分を貴方が持っていることがよくわかったから、それを考える中で、自分について考察もしていたのだ。実を言うと私は、今貴方のfacebookの頁を見返して、この手紙を出すのを止めようかと思っている。今の貴方にこのようなものを出すのはどこかおかしい様な気がするのだ。それに加えて貴方の写真を様々に見る中で気づいたけれども、私は貴方の中の幼さが好きなのだろうと思う。けれどもそれは常に貴方の表面に出てきているわけではないし、それはこれからどんどん減少していくだろう。それでいいのだけれどもね。

 

 お元気で。