SUMMERY

目をつぶらない

滑らかに生きたい。明晰に生きたい。方途を探っています。

四年ぶりの『風立ちぬ』考:叶わない夢を追うことのペーソス

 

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久しぶりに『風立ちぬ』を観た

 四年前、『風立ちぬ』を観て急ぎ以下の記事の感想を書いた。タイトルのとおり、『風立ちぬ』を批判した記事だ。

 

summery.hatenablog.com

 

 その後、大学院でさらに勉強を進めたり、映画『この世界の片隅に』を観て戦争とその表象について考えた経験から、現在は若干異なる感想を持っている。昨日見直してみて、少し書いておかなければならないと思われたので、自分の『風立ちぬ』批判に対して四年後の現在の自分が応じておきたい。

 ちなみに『この世界の片隅に』について考えたことは以下のとおり。

 

summery.hatenablog.com

 

 戦争を映像作品で表象することについて少し考えたことは以下のとおりだが、この記事はちょっとおちゃらけ過ぎていて、近日中にリライトする予定。

 

summery.hatenablog.com

 

風立ちぬ』を批判する?

 「風立ちぬ」で私が興味深く思うのは、堀越二郎が足の骨を折ってしまった菜穂子の女中を背負って転んだ時に大汗をかきながらふと見つめた空の上の方にカプローニの作った飛行機と、それが飛ぶ美しく夢想的な色彩の空を観てしまうところである。そのような純粋な飛行機の美しさへの憧れ、それが人の手の届かぬ高みを優雅に舞うロマンを夢想的世界として挿入し、二郎が飛行機技師として成功を修めるという単純すぎる美談と結びつけることで、宮崎駿は物語の審美主義的色彩を強めているように思う。そう考えるとこれはかなり罪深いことといえるのではないか。

 四年前に書いた記事の一部で、殺人機械を審美的に描くことの危険性を指摘しようとしている。しかし、作品が完全に審美主義的ビジョンに中心化しているわけではない。そうそう簡単にわかるものではなくとも、危機の伏在はあちこちに描かれていた気がする。

 映画が二郎から見た世界観だけを描き出しており、それが揺らぐことがないのであれば、批判に値する。争点は二郎の世界が相対化される契機が導入されているのか、ないし、二郎の観念の世界を突き詰めていった結果、それが破綻をきたし自壊する様が描かれているのか、というところである。二郎が二郎だけの世界に自閉し、そこに安住する様だけが描き出されているのであれば映画は閉じたものであり、観客に二郎の思想への共感を要求するだけのものになるだろう。

 しかし、どうもそうではないような気がする。私はむしろ二郎の悲哀を感じる。悲哀を感じるというのはつまり、二郎自身の人間としての苦しみが、私に共感可能な形で描き出されている気がする、ということである。

飛行機を作っていたせいで殆ど顧みる事が出来なかった結果として死んだ妻が生き続けることを命じる最後の夢は、純粋な愛から来たものというよりも、何かデモーニッシュな力による生き続けることへの強制のように思われる。というのも、二郎は作中で飛行機を作る事、そしてまた、恋愛に全てを傾けていたように見受けられるから、「生きて」と言われても観客はそのあと二郎が何を糧に生きていくのかほとんど全く想像がつかないからだ。そこで本来は感動的な言葉であるはずの「生きて」が宙に浮いて、何もなくても生き続けなくてはならない、その後の生のはじまりを予感させる。

 最後のシーンで菜穂子が二郎に「生きて」というのは今回観返しても、あまりよい台詞と思えなかった。二郎にとって都合のよい台詞だと思う。そもそも二郎は生死の葛藤を抱えて来ていなかったように思うので、端的に最後の最後で生死の話を持ち出すのは的外れだと思う。もしそうしたいのなら、例えば二郎が、自己のつくった戦闘機が一機も帰ってこなかったことに対する何らかの形の責任感を感じ、死を選択せんとするとか(本当に「例えば」に過ぎないのだが)、そういう少なくとも二郎が生死の問題に拘っていることを示すシークエンスが挿入されるべきだと思う。

 

 自分の作った飛行機は一機残らず落ちて一つも帰ってこなかったにも関わらず、自分が技師という立場上戦争を生き延びてしまったこと、それについての問いを発しようとした直後に「生きて」という言葉に押されて感謝とともに生き続けることを選択する二郎、私が二郎に共感できなさを感じる原因は、彼の中の葛藤、問いかけの不在なのだ。彼は考えていない。そしてそれはある時には「働くのは男の義務だ」「この仕事を途中で辞めてもらう訳にはいかない」という社会の声によって、あるときは菜穂子の後押しによって許される。そして最終的に二郎はただ純粋なだけの人になっていくのが、面白いと思った。

 これに関しては、今も同様の感慨。むしろ、二郎が常に自分の中に抱いた夢に対して目的合理的にしか行動できないところに、どうやらペーソスがありそうである。つまり、彼の夢想する美しい夢の世界は本当は存在しない。そのことに彼は絶対に気づかない。夢の世界と現実との距離は二郎がいかに努力しても縮めることができない。

 本当は超越的世界に近づき得ないことに気づいて立ち止まる際にこそ他者との交感の可能性が開かれるのではなかったか。にも関わらず、菜穂子の「生きて」はむしろ、夢への追求をやめないように迫っているように感じられる。生きるべきか死ぬべきかと悩む地点から本当ははじまりうる周囲への開かれを、夢の中の菜穂子はあらかじめキャンセルしてしまったように思う。二郎は菜穂子と対話を交わす地点から二郎は始めなければならなかった。しかし夢の中で、菜穂子は一方的に「生きて」と言って消えて行く。

 

考えないことを許されている二郎を羨ましく思う。私は最近「考えろよ」と言われてばかりだ。菜穂子に最後「あなた、考えて」と言って欲しかった。それで二郎が「ありがとう」と返したらすごく笑えたのに。あーさすがにわかってたんだな、何にも考えてないということに、と思えたのに。

 四年前の私はこのように書いているのだがやはり菜穂子と二郎とが話し合う場面を四年前の私も期待していたのだと思う。

 もちろんこの菜穂子は二郎の中の菜穂子である。だから、最後の場面は、葛藤が生まれようとする瞬間にそれをキャンセルし、ひたすら自分の中にしかない、絶対にたどり着けない理想を求め続けなければならない二郎の、生きづらさの源泉とでもいうべきものと思う。二郎はあのあとも、周囲の他者を犠牲にして夢に邁進するだろう。そしてそれだけ真摯に夢を追い求めても追い求め切れることのない夢は、二郎の中でますます美しいものになるだろう。その美しさが、むしろ悲しい

 

 『風の谷のナウシカ』でも現れて来たテーマだが、生命を闇の中のまたたく光に例えたように、宮崎駿は決して美しい人間のありようを理想としているのではない。苦しみ、悶え、這いつくばりながら生きようとする生命の姿を描こうとしている。

 それではなぜ美しい風景が必要なのか。それは一つには美しい理想を追い求めようとしてしまう人間のありようを示すためであり、また一つには、美しい理想と現実との間の乖離をこそ描こうとしているからだ。