SUMMERY

目をつぶらない

滑らかに生きたい。明晰に生きたい。方途を探っています。

話を聞いているふりがうまい人/責任を逃れるのがうまい人

 話を聞いているふりがうまい人がいる。こちらの目を見てうなずいてくれる。しかし相槌とともにはさむ「共感の言葉」がずれている。こちらが喜び半分、不安半分で話している時も、「本当によかったね。幸せだね」や、「すごい!優秀ですね」といってまとめる。こうした人にとって「よかったね」「優秀ですね」というのは明らかに、ネガティブな話題を除く大半の話題を無難に収めるための切り札のようなものだ。「よかったね」と言われて「いや、よくなかった」と答える人はそうそういない。「優秀ですね」と言われて否定する人はいるだろうが、嫌な気持ちになる人はほとんどいない。大抵の話にはよかったことが含まれているし、話者特有の認識や判断の鋭さをうかがわせる部分がある。本心としてどう思っているかは別として、「よかったね。本当によかったね。」「すごいですね」と言えば、言われた側はとりあえずそうかなという気分になり、つかのま嬉しくなる。言った側は自分の言葉が発揮した効き目を目の当たりにして陶酔的になる。

しかし、多少なりとも冷静さがあれば、こうした共感の言葉をあまりにもすぐに、また繰り返して発する人の、当該の言葉が空虚であることに気づくはずだ。その人は自分の何も見ていない、と思うだろう。その人にとって重要なのは、話題が何であれ(あきらかにネガティブな場合は除く。そういうときに「よかったね」と言ったらやばいことくらいはさすがに彼らでもよくわかる)とにかく「よかった」「すごい」というラベルを話者の話にべったりとくっつけて、話者を気持ちよくし、それによって自分自身も気持ちよくなることなのだ。

そうしたコミュニケーションは、端的に寂しいと思う。そこには交感はない。真の意味での共感もない。全部うわべだけのことで、社交なんてそんなものかもしれないが、寂しい。もちろん、本人が一番寂しさを感じていると思う。「よかった」「すごい」を明るい顔で言わないことはなかなかないから、そうした人は一見、割とニコニコしているように見える。けれどもそれは、自分の中の観念にくすぐられてそうしているわけで、そうしたところからくる笑みは想像以上に空虚だ。でも、それでうまくやってこれてしまったのだからしょうがない、のだろうか。

 

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責任を逃れるのがうまい人がいる。誰でもできるような瑣末な仕事を積極的に引き受けるその人は、一見物腰柔らかで優しく親切。しかし、その人が優しく親切なのは、自分が優しく親切にできる領域の中でだけの話だ。例えばペンを貸して欲しいと言えば、そうした人は喜んで、しかも最速で貸してくれる。遠く離れた席にも喜んで小走りで貸しに来てくれる。それは彼らにとってあまりにも容易なことで、なおかつまた、どうまちがえようと決して後ろ指を指されることがないからだ。途上で転んだり、結局ペンが出なかったということになれば、おおげさに謝る。貸す時点で文字通り「貸し」を作っているのはわかっているから、その上で謙虚に謝ればますます、相手が恐縮し「ありがとう」の言葉をかけてくれるということをわかっている。

細かいところでやや過剰と思われるくらいの親切心を発揮する人には注意が必要だ。まず第一に、そうした人はそれ以外に自分の価値を発揮することができないから、そこに力を入れている可能性が高い。それは一つの免罪札なのだ。こういうことを丁寧にやる。すると、周囲の人からの印象はよくなる。細々とした仕事も率先して引き受けるので、皆がそうした仕事をその人に期待する。結果的に、本当はその人の年齢やポジションにふさわしいような他人との(大抵の場合面倒な)交渉事を伴う仕事を回避できる。というか、そうした重い仕事を引き受けられないし、避けたいのでそうでない、あまりにも簡単な部分に過剰に時間と心を傾けて、周囲の機嫌をそこなわないようにする…。

これは不幸なことなのだろうか。

人とぶつかるのは基本的に大変なことである。それをせずにすむのなら、誰だってしたくない。その面から言えば、人とぶつかる大変な仕事を避けるのは合理的な戦略だろう。しかし、結局人とぶつかりうる交渉事を自力でなんとかできなければ生活が、もっと言えば生が、新たな局面を迎えることは決してないように私には思われる。もちろん、それは相手に「勝つ」ことができなければ、ということではない。そうではなく、相手と話し合って落とし所を探す、ということだ。

 

私も人とぶつかるのは正直クソめんどくさい。そうした仕事は人に嫌われた挙句、思ったような成果が上がらなかったりする。

一方で、花瓶に水を入れたり、お茶を汲んだり、ゴミを捨てたりといった雑用は、みんなやりたがらない汚れ仕事で、だからこそみんなから感謝される。感謝だけされて気持ちよく生きていきたいなら、くだらない雑用だけするのが一番だ。

でもなぜだろう。お茶汲みで一生終えたくないと強く思う。それは空虚だと思う。お茶汲みにプライドを持っている人を馬鹿にしているのではない。そうではなく、簡単な仕事に逃げ込む人でありたくないと思う。面倒臭いが、人と対立しうる現場で協働の道を探していくことにしか、自分の生の開かれはないような気がする。多分この感覚は正しいので、そうしていくが、とはいえ、ほんっとうに面倒くさいんだよね。交渉・調整は。