SUMMERY

目をつぶらない

滑らかに生きたい。明晰に生きたい。方途を探っています。

雑記:学校現場におけるマネジメントスキルの育成はどうすればいいのか

 

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 さてさて、雑記に行くが、なんでしょうね、最近疲れることが増えて来てしまって、授業準備と授業の繰り返しだけやっていれば楽なものを現実にはそうはいかないのが辛いところね。担任業務、はまだ生徒相手だから楽だが、保護者対応に行事・部活関係は本当に体力をごりごり削ってくる。授業・生徒対応とは全く異なる頭と身体の使い方をしなければならないのが辛い。教育現場は教師になんでもできることを求めて来ていて、他方私は、残念だけど何でもできるようになることに魅力を感じてはいないのである。それはひょっとして何も満足にはできないことと紙一重なのではないかと感じてしまって。

 一つの職場しか経験していないのに何だが、よく日本企業について語る際に、「日本企業はスペシャリストを育成する力に欠ける」と言われる。例えば「あの人は経理処理が苦手だから、できるようになってもらおう。」みたいな思考が叩かれる。得意な人にやらせればその人のスキルはもっと上がるだろうし、苦手な人は自分の得意な分野にさくことのできる時間が多くなる。全体の効率はそっちの方があがるはずなのに、そうしないのはなぜかと。

 やはりこの問いへの解は、日本企業が終身雇用・年功序列を基本に据えており、誰もがいつか管理職になることを想定した人材育成をしているから、ということになるのだろう。これから課長になる人が、経理処理を全くやったことがなく、知らない・経理処理のセクションと全くなんのコネもない、では確かに話にならない。こうした育成システムが、つまりは労働者個々人がスキルを上げ、それを元に複数の会社を渡り歩くような現在出現しつつある社会のシステムと矛盾しているということなのだろう。

 学校現場にもある程度まで同じことが言える。副校長や校長にならんとする人が保護者対応をしたことがなく、行事運営の方法やその際の危機管理をできないというのでは話にならない。それが、どんな教員も色々できた方がいい、という考えにつながる。

 解決策は、管理職と教員とをきっぱりわけてしまうことなのだが、これには教員から反発が出る。次の策は管理職になることを見越した育成パスとそうでないパスをわける、という手。しかしこれだと管理職パスの人が転職してしまった場合その人にかけたコストは無駄になる。すると、ともかくどの教員にも手広くやってもらっておいた方が、結果誰が残ることになってもその人に経験がある程度蓄積されているので、問題が少ないということになる。

 …と、せっかくの休日なのに仕事の話を書いてしまったが、専門性を身に付けたいのに雑多な仕事で疲弊させられるのが嫌だ、というのはどこかに勤める現代的労働者共通の悩みな気がするので書こうかと思ったのだった。