SUMMERY

目をつぶらない

滑らかに生きたい。明晰に生きたい。方途を探っています。

『闇ミル闇子ちゃん』・アイデンティティ・大学院(雑記)

 

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 『闇ミル闇子ちゃん』(2014)の単行本を明け方ふと読み直した。本棚にひっそりとしまわれているのに気づいてしまったから。

 著者のsatsumaimoさんは私のいわゆる「同クラ」で、一時期は一緒に小さな演劇を作るなどした。彼は闇子ちゃんのように学生の自意識を快刀乱麻切って切って切りまくるタイプではない。少なくとも二年生までの彼を見る限りは。つまり漫画中の闇子ちゃんの言葉や振る舞いに見られるアイデンティティ確立への途上で学生たちが周囲に対して発揮する欺瞞への鋭すぎる感受性は、彼が大学生活を通して後天的に獲得したもの、ということになると思う。もしそうでなく、闇子ちゃんの吐露するようなことを、彼が大学初年次あたりから普通に思っていた(けれども、口に出さなかった)ということになれば、私のような自意識過剰な人間(思い出したくないが、そういう時期があったからこそ闇子ちゃんを笑って読める)は彼の内面において何度血祭りにあがっていたのだろう、と薄ら寒い気分になる。

 何らかのアイデンティティを選び取ることは必ずやそうでないものの排除や、以前の自己の切り捨てが含まれる。人は弱いから、自分が切り捨てていくものに対してそれが「重要ではないものだった」というような否定的態度を取らざるを得ない。それが本当に重要かそうでないかは別として。なぜなら、もしそれが重要なものなのであれば、それを切り捨てるという選択を正当化できないからだ。(ここに述べたことの具体例については、もう少し説明を加えるべきなのかもしれないが、そういうことに時間を使うのは面倒だし、何となくわかると思うので省略)

 闇子ちゃんは、こうしたアイデンティティ獲得の努力の中で、人々が振り落としていくものに対してとる欺瞞的態度を突く。そして漫画で何度も強調されるように、それは「闇」を指弾して闇を抱える人々との関わりを切り捨て続ける闇子ちゃん自身への批評として帰ってくる。

 大学に入りたての学生間におけるアイデンティティ獲得過程の自意識の闘争。なかなかそこから免れうるものはいない。泰然としている人は、それはそれで、「周囲を実はバカにしている」などとみなされる。二十歳前後の大学生の驚くべき未成熟さ。そしてそれを助長するような前期教養課程のマス化した教育のありよう。前期教養課程で心を病んだり、何らかの形で別なものにどっぷり浸かって、留年他により私の目の前から消えて行った人は私一人の周囲ですら二人や三人ではないのだが、彼らはこうした駒場の空気に中ったのではないか、と勝手に思う。

 

※ちなみに私自身の前期教養課程時代については以下の記事をどうぞ。

summery.hatenablog.com

 

   大学院生まで駒場にいた私の目に、毎年入学してくる大学一年生はどんどん幼く映るようになっていった。教養英語や初年次ゼミのTAで出会う彼らの中に、心底楽しそうな人はあまりいなかった。彼らは常に自分の選択が他人のそれらとの関係の中でどう位置付けられるか気にしていた。それを見て、私は心底窮屈だなと感じられた。そういうふうに思い始めたあたりから、私は自分の所属する駒場のキャンパスにほとんどいかなくなった。駒場を歩いているとイライラした。伏在する競争の空気の中にいると、自由に思考ができなくなる気がした。

 正直、最近は大学院にも前期教養的なものと似通ったものを感じる。伏在する競争意識に基づいた他者に対する卓越化の闘争という点で。論文生産にコスパを求める風潮は、論文の数で院生を序列化することに帰結する。また、博士論文を書くまでの期間がどんどん短くなっていくことで、院生は、学振をとっているか、博論の構想が練れているか、(そういうものがあるのなら)博士論文執筆のための審査をすでに受けたか、博論をどれほど書いているか、何年で書くつもりか、などで周囲と比べられることになる。そういう、比較の眼差しにさらされるのが嫌で、そうしたものと大学院は無縁だと思っていたのに…。

 こうした雰囲気は、要するに前期教養課程的なものとの連続性においてとらえられるのだなと思う。卑小な自我を守りたいと思う、それ自体卑小な自意識。それを人生のある段階で抱いてしまうことは責められることではない。闇子ちゃんの漫画からは著者satsumaimoさんの、前期教養課程的なものへの愛が感じられる。なぜなら闇子ちゃんが都度暴き出すように、それらの強がりの裏にある弱さは、20前後ではまだまだ、容易に暴かれるものだから。つまり慈愛に満ちた眼差しとともに結局は、見ることもできなくはないのだ。

 しかしそうした価値観をどこまでも内面化した人々は、可愛いでは済まされない。彼らは他者への暴力を無自覚的に振るう存在へと転化するからだ。しかしそれは、一体どのようにして防止し得るのだろう。防止、といって押さえつけるのではなく、他者を貶さずに、みんなで相互に承認しあって、遅い人はその遅さにおいて評価されるような有り様はないのだろうか。

    考えてみれば、そうした共同体の可能性は人文学にあるというのを私は何となく嗅ぎつけてそちらを選択したような気もするのだが、現実にはここ数年で人文学の肩身はますます狭くなる一方。それでもなくならないとは思うが、ポスト削減により目に見えるわかりやすい成果を上げることに汲々とする人々(もちろん、現実的には時間にもお金にも限界があるし、今の状況で、余裕がない人はそうなって当然だが)が人文系で生き残る風潮ができると、長期的には人文科学の価値は内側から掘り崩されてしまう。そういう意味で、危機だと思う。

 

 とか記事を書いて外の様子も確認せずに喫茶店を出たら外が大雨。でもトレーを下げてしまってから入り直すわけにもいかないので、土砂降りに濡れながら自転車を漕いだのでした。とほほ…