SUMMERY

目をつぶらない

滑らかに生きたい。明晰に生きたい。方途を探っています。

『千と千尋の神隠し』を観た10歳の頃のこと

 

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 先日テレビで『千と千尋の神隠し』が割と遅い時間帯にやっていて、後半の一部を観た。観ていると、この映画を初めて観た時のことを幾重にも思い出した。私にとって同作は、距離を持って〈批評的に〉語ることが難しい作品である。それを鑑賞することは、幼少期の私自身の鑑賞体験と分かち難く結びついてしまっているからだ。

  以下、当時の自分が『千と千尋』からどんな影響を受けたかを少し書いてみたいと思う。この映画を観て同じように大きな影響を受けたという人にとって、その「影響」とは何だったのか、考えるきっかけとなる記事になればよいと思う。

 

 『千と千尋』の公開は奇しくも私が10歳の時のこと。つまり千=千尋と同じ歳の時のことで、メディアでは〈10歳の少女の冒険を描いた作品〉というような(正確に覚えていないが)紹介がいくつかあったので、私は自然と千尋に自分を重ねて観ることになった。当時の私は児童文学を浴びるように読んでいて、その中で自分が共有できる思春期の少年の自我にまつわる問題系を扱う作品や重厚長大なファンタジー作品の主人公がことごとく中学生ほどの年齢に設定されていたのに割り切れない気持ちを抱いていた。自分がそうした物語から疎外されている気がした。10歳という数字に、つまり自己がそうした物語の主人公になりうるという、虚構と自己との接続可能性の次元のリアリティに強くこだわっていた。

 大人になった今から振り返ると、例えば『ハリー・ポッター』シリーズを自分が描くのなら(突然自分をJ・K・ローリングに重ね、話が大変なことになるが)、微妙な問題だがやはり、主人公を10歳に設定することはないと思う。10歳の頃の私は、10〜14歳というようなくくりの一つの時期、つまり思春期に入ったと漠然と思っていた(当時読んでいた児童文学の多くが思春期を扱っていて、それに深く感情移入していたため)が、今顧みると、10歳は思春期というよりは、8歳や9歳の、お漏らしするような子供達に近い気がする。彼らを作品の主人公に据えると、思春期の自我の葛藤や友人関係での悩みを扱いづらくなる気がしてしまう。だから、書き手の論理として、ある程度厚みをもち、深みのある問題系を扱う作品を書くのに、12歳くらいが設定されるのは頷ける。

 そこに来たのが、10歳の少女の物語としての『千と千尋』。吉祥寺の映画館に1時間ほど並んでやっと見ることができたのだが、正直何から何まで衝撃だった。けれどもその衝撃を言葉出来るような言語運用力はなかったので対象を所有しようとしたり(「DVD出たら絶対買おう」と思い決めた)、対象の世界に入ろうとしたりした(パンフレットを何百回も眺めて作品世界を模写したりした)。

 それで、その時からなんと約20年近く経ち、私が劇場で『千と千尋』に観入っている間に産声をあげた赤ん坊らが今甲子園で活躍している中にもいるかもしれないというのが2019年夏の現在時。結局10歳の私にとって『千と千尋』の何がそれほどに魅力的だったのか、先日ハクを助ける方途を探すため、千が銭婆(「ゼニーバ」)のところにいくあたりからぼんやりみていて、少しずつわかってきたような気がする。

 

 湯屋の火室を取り仕切る釜爺から遠い昔に購入した列車の切符をもらい、リンの小舟に乗って湯屋を抜け出す千。湯屋の裏口から出ると、湯屋を取り巻く世界が雨の後で見渡す限りの水面となっており、その中に一筋線路が通っている。いつの間にか、カオナシがついて来ており、千はそれを拒絶することなく、銭婆の魔法によって鼠に変えられた湯婆婆(「ユバーバ」)の愛息子・坊とそれを運ぶハエ(元々は湯婆の使いのカラス=湯バード)とともに列車に乗り込む。列車の乗客たちの顔は半透明になり見えない。例えばここに続く、銭婆の住む場所「沼の底」に至るまでのイメージの連なり。

 一面の水を見渡す車窓からの眺めに、時折現れる小さな島々。水が来る前は高台だったであろうそれらの上にまばらに立つ西洋の田舎風な家々。人は見えないが、生活感覚はあるので全体に、人がいるはずなのにその存在が剥ぎ取られてしまっている物寂しさが漂う。時間の経過とともに夜が来るが、暗くなった窓にチラチラ映るのは思いがけないことに繁華街に見られるようなネオンサインである。明滅するサインが湯屋の幻影のように出現し、今まさに盛り場から離れつつあることの物寂しさを強調する。しかし千の手の中には鼠とハエの安らかな寝顔がある。鼠は湯婆婆の息子で、彼らは千をこの世界に結びつけて離さない、千にとってはなんとも不条理なはずの理の側の存在で、本来現実世界に生きる千とは立場が違う(敵対しすらする)のだが、それに寄り添われる千は一人ではない。自分には理解不能なものらに、千は付き添われている感覚がある。

 

 こうしたひとつひとつのイメージの連なりが、私にとってはほとんど衝撃的なほどに新鮮だった。一体何故水の中に一本レールを通すというイメージを思いつくのか。どうしてそこに西洋風の物寂しい家々を配置できるのか。それらにネオンサインを重ねてちらつかせる着想はどこから得られるのだろう。千についてくる小さな存在の両義性、それとの関わりから得られる温かみ。不条理な世界の理に立ち向かう一本気な千の仲間たちをこのように、単に千に共鳴する存在でなく、立場としては逆になりうるものらから構成することにより、相互に慈しみあう関係が成立し、それこそが千(そしてその孤独を心配する観客)を励ます。どうして鼠たちが千についていく展開を思いつき得たのだろう。

 他人の心の中に生き生きとした想像の構築物を立ち上げていく、宮崎駿らの想像力の仕事。通常並列されることのない風景同士を並列させ、ともに旅しそうにないキャラクタ同士を結びつけて旅をさせる。しかしそれは全く荒唐無稽な並列・連結ではなく、展開されてみれば、確かにそれがあり得たような気のする、日常表出化しない独自の論理を持った並列・連結だった。それによって、観るものを強力にそこに現れるイメージの連なりに惹きつけ、そこにこそありうる論理を納得させ、物語にリアリティを付与する。その帰結として、私のような観客に、映画の中の世界を、自分がそこで生きられる世界のように感じさせること。湯屋を動かす湯婆婆の魔法よりもずっと、そのことが私にとっては魔法のようだった。どんな風に生きたらそれらの組み合わせを思いつくことができるのかわからなかった。狂おしいほどそれらに近づきたかった。こんな風にして自分自身の世界を作れるのなら、そしてそれを作ることが、自意識に内閉するのでなしに、一緒に生きる新たなものらを生み出していくことなのだったら、そのように自分に寄り添う存在、自分の帰ることのできる場所を作っていくことで生きたいと思った。……のだった。多分。

 

※長くなったので、分割しました。続きは以下

 

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