SUMMERY

目をつぶらない

滑らかに生きたい。明晰に生きたい。方途を探っています。

既に持っているものの中にある、乗り越えることの契機:『千と千尋の神隠し』

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  昨日書いた以下の記事の続き。『千と千尋』の作品評でなく、それを観た自分の経験について書いています。

 

summery.hatenablog.com

 

 上の記事にあるように、10歳の頃の私は、スクリーンの前で、連なるイメージや展開など、ほぼ全てのことに驚愕したのだった。そして、自分がそこで生きていく世界、そこでともに生きる存在を自分自身の手で作っていきたいと思った。

 …というと、何だか当時苦しい状況に置かれていたように聞こえるかもしれないが、特に生きづらさを覚えていたわけではない。むしろ当時は、学校を中心とした生活が楽しくて楽しくてたまらなかった。先生に恵まれて授業は(体育含めて)大好きだったし、友人との関わりは充実していて、休み時間は大体笑っていた。放課後は毎日のように家の門限まで校庭で遊んでいたし、家では教科書の音読や百人一首の暗唱(当時の先生が百人一首好きだった)を果てし無く続け、登下校時はリコーダーを吹き散らかしていた。

 そんな風に今から振り返ると当時は日常が楽園のようで、やることなすことの大体が自分の内部にあるエネルギーの生き生きとした表出と通じており、周囲の大人も私が人を傷つけることをしない限り、私のあらゆる行動を肯定してくれていた。何一つ思い悩むことはなく、学校の定めた枠や規則にしたがいながらも、その枠内において、あまりにも自由で、常に次に学ぶこと、次にすることを楽しみにできた時代が数年あり得たことが、今どれだけ自分自身の根本的な支えになっているのかということはもちろん、論をまたない。

 しかしその中でも、そうした楽園は、学校や学校の先生のお膳立ての元に成立しているということは子供なりに薄々気づいていて、日中楽しければ楽しいほど、夜に一人で起きてふと「小学校がなくなったら自分はどうなるのだろう、そういえばあとたった2年余りで卒業だ」と考え、不安でさめざめと泣いてしまうようなセンチメンタルな感性も一応持ち合わせていた。そういう時に結局自分が生きていく世界を、学校や先生に頼らずに自分自身で作らなければいけないと思ったし、だからこそ、スクリーンを通して多くの人々の心の中に、現実にはない世界を構築できるアニメーションの世界は立派だと思った。

 大長編ドラえもん映画やクレヨンしんちゃんをせっせこ観てきた10歳までの私だったが、『千と千尋』は間違いなく、生涯で最も優れたアニメ作品として記憶されるだろうと自分で思っていた。小さい私にすら、「生涯で」などとそれからの70年余りを自分で縛りかねない規定を、生まれて10年目に出会った映画に与えることにためらう気持ちが湧いてきはしていたのだが、そういうためらいは結局握りつぶせた。なぜなら『千と千尋』はもう世界が大きく揺さぶられるくらい当時の私にとって甚大な影響を与えた作品で、さればこそ、もしそれを超える映画にその後の生涯で出会えるのだったら、本当にそれは、なんと素晴らしいことなのだろうと思われたから。そして、そういうことがあれば、「間違っていたよ。『千と千尋』よりすごい映画があったよ!」と未来の自分ははっきりと、心の中に住まう10歳の自分に喜んで真っ先に報告できるだろうと思ったから。

 以上長々と自分が当時どう『千と千尋』を観たか書いてきた。作品に対する批評でも何でもないが、同作品が子供にどう影響するのか、ということについて興味を持った人の、参考になれば幸いである。

 

最後に少し、今回改めて観た感想 

 ところで最後に付け加えるが、先日今の自分の目から見て、印象に残ったのは、銭婆の家にたどり着いてのちのシーン。千はハクのことを相談するが、銭婆は解決策を教えてくれることはない。自分の問題を解決できるのは自分だけである。一度あったことは忘れない、思い出せないだけである、というような一般的な箴言を与えるだけである。しかし銭婆は年功を積んだものの立場から千に承認を与え自立に向けて暖かく励ますのであって、作品はそうしたやりとりを何よりも価値のあるものとして描き出す。そしてそこで食事をし、カオナシも含め共同作業をするうちに、ハクはいつの間にか表に来ている。その後に、物語の大きな転換点である、名前を思い出すことが続く。強力な魔法や、現世の人間には理解不能ないくつもの理が支配するファンタジカルな世界において、千が問題を乗り越える方途は驚くほどあっけなく、すでに有していた記憶の中にある答えを探りだすということだけなのだが、こうして映画の終盤、千の旅路と模索の果てそれが置かれてみると、かつて出会ったことを思い出すということ自体が、何かとても大きなことに思えて来る。日常当たり前にしていることが、凡庸で卑小なわけではなく、むしろそれは状況によっては何よりも大きな、魔法に匹敵する力を持っている、というのが、一つの作品のメッセージなのだろう。

 思えばこれは、大学以降なんども実感させられたことである。いくつか私も自分の中の問題に向き合ってこないこともなかったのだが、都度慌てていろいろなことに救いを見出そうとして四苦八苦した挙句、最後にわかるのはいつも同じことで、深刻な問題の乗り越えの契機というのは、何か大きな行動の末にあるのではなく、もう持っているもの、それまでにしてきたことの中にあるのだ。もちろんそれを乗り越えの契機とはっきり見定めるためには時間がかかるし手間もかかる。慌てていろいろやろうとして自滅するのも、すでに持っているものを見つめ直すためには重要かもしれない。千が銭婆のところまで行って、ハクを助ける契機はあなたの記憶にある=すでにあなたの中にあると言われたように、結局は自分が答えを握っているのだとしても、自分が答えを握っていることを納得するために踏むべきステップというものがある。