SUMMERY

目をつぶらない

滑らかに生きたい。明晰に生きたい。方途を探っています。

香港の若者たちへ:問題に長く関わり続ける覚悟を!

 

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香港のヴィクトリア・ピークからの眺め


 一時期、香港に関心を持ち、色々に調べたことがある。国内の香港に関する文献で社会学系のものは、基本的にすべてチェックし、その上で南華早報(South China Morning Post)という香港で書かれる英字新聞を毎朝読んでいた。興味が高じて香港にも社会学にも全く関係のない専門ではあったものの、香港大で行われた二週間ほどのサマー・プログラム(テーマは「Japan in Hong Kong」で内容的には概ね社会学に接する領域)に参加した。このブログでよくキャプチャ画像にしている写真の中の以下のものは香港大の寮からの夜景である。

 

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山の中腹にある香港大の寮から最寄りのケネディタウン駅の方を見下ろす

 

 ここ三年ほどは関心が離れていたが、最近の逃亡犯防止条例問題に関わって盛り上がるデモのニュース映像を観て改めて関心を持ちつつある。一時期調べていたことを思い出しつつ、少し今般の香港におけるデモの特徴について概観し、考えを述べたい。

 

香港人としての意識の台頭

 香港の政治システムそれ自体は香港人による自治からは程遠い。他方で、政治活動や言論活動については香港は自由度が高い。したがって市民は多かれ少なかれ香港人による自治が可能でない現状を憂え、議会を通じた変革が難しい以上、その外で主張を続けて来た。市民によるデモの文化があるのである。

 今般のデモを見ると、その特徴として、第一に香港人としてのナショナリズムが前面に出ている点がまず挙げられるだろう。もともと移民の集合からなる香港人香港人としての意識が希薄で、香港がいづらい場所となれば、来た時と同じように別の場所に去るだけ、というような意識があった。しかし70年代以降の香港経済の発展、社会福祉の若干の向上や教育体制の整備により、香港は、未だ多くの社会問題を抱えてはいるものの、大きく変わった。住む人が、生まれてから死ぬまでの生が包摂されうるとある程度安心して考えられるような社会状況になった。デモの中心をなす若者世代のほとんどは香港で生まれ香港で育ち、自由を享受してきた。彼らのうちの相当数は自分が生まれ育った香港の社会を改良しようとする責任意識をもっており、ともかく自分一人が稼げれば良い、状況が悪化すれば(英語もできるのだし)外に出ればよい、と考えてはいない。

 

対抗暴力を辞さない構え

 これまでの香港のデモは暴力を行使せず、街の秩序や景観をそれほど乱すことのない行儀の良い性格のものが中心と言われて来た。しかし、この点もやや変化しつつある。香港のデモを中心的に主導する人々のSNS上の発言を見ると、当初は穏健的であったその内容は、香港警察の暴力に対して対抗暴力も辞さない方向にシフトしてきているように読める。実際香港人たちによる今般の運動に関するディスカッションサイトではどのように警察に深手を与えるかということが大真面目に議論されているスレッドがある。また、警察が夜の帰路に何者かにより襲撃を受け重傷を負う事件が起きていたりする。どのようなデモにおいても急進化する一部の人間はいるものだが、にしてもこうした状況は2014年の普選要求の一連の運動(いわゆる雨傘運動=umbrella movement)の際には表面化しなかったものである。

 香港の若者にインタビューするニュースサイトでは、自由のためになら、命を捨てる覚悟があると語る若者も登場し、穏やかではない。「警察とのぶつかり合いの中で一人でも死人が出れば運動は次のフェイズに進む。逮捕されそうになったら、警察に逮捕するかわりに殺せばよいというと思う」とニュースインタビュアーに語る若者の写真がSNS上で拡散されている。

www.youtube.com

 

 「中国軍、来るなら来い」「ただではやられない」というように、デモ側の暴力的ぶつかり合いを前提とした挑発的な物言いも散見される。当然警察側の暴力もSNSで幾重にも拡散されている。現実の一面を切り取ることのできるネットを通じて双方のサイドがエスカレーションしていく様がみられ、恐ろしい。本当に死人が出そうである。デモに参加した善良な一般市民が権力に殺されたとなれば、事は大きくなるだろう。

 

どうやって着地させる?

 しかし、自由のために人が死のうと、体制が変わることはありうるのだろうか。

 普通選挙の実施を求めた2014年の雨傘運動は日本でも大きな話題になったため、記憶に新しいだろうが、結局のところあの運動が成功だったかについては、日本国内ではそれほど関心が払われていない。当然かもしれないが、普通選挙など中共が許すわけはない。多くの市民が動員され運動が国際的に広範な支持を得たことは事実だが、終盤ではデモ側はジリ貧で、中環に座り込んだデモ隊はその外縁に絶え間なく催涙ガスを浴びせられ、少しずつ切り崩されて行った。確かに占拠の期間は長かったが、その間に政府とデモが交渉を行ったり、欧米諸国の介入による解決を誘発するまでに至らなかった。

 今回の運動も、その時と似ている点がある。それは着地点が見えないことである。無論様々に画策しているのだろうが、立法議会が実質的に中共の傀儡なのだとしたら、交渉相手は誰になるのだろう。どのようにその相手を特定し、交渉に持ち込むのか。国際的な支持を得ても、今や大国となった中国国内の問題にあえて、実効性のある形で介入する国は、ほぼないのではないか。

 個人的には絶対にやめて欲しいと思っているが、百歩譲って学生が暴力や死をもし意識するのであれば、それほどのリスクを払うに値する勝機を見極めてからにして欲しい。上に貼ったリンク先の発言や、以下のようなつぶやき・絵からは申し訳ないがヒロイックな自己陶酔しか見えない。それで本当に後々まで続く後遺症を負ったとして、本人はそれで良いのだろうか。次に戦うことすらできなくなる。

 

長い時間関わる覚悟が必要

 こうした物事は明日どうにかなるというものではない。おそらく、一人二人死んだところでそう動くものではない。大騒ぎにはなるだろうが、ほとぼりが醒める頃、案外局面が進展していないことに気づくだろう。それよりもこの問題に粘り強く関わり続けるためのエネルギーを今回の運動から自分の中に溜め込んで、新たな大陸との関係や明日に続く社会のシステムを構築するのに必要な知的体力を涵養するよすがとして欲しい。一人も頭をかち割られてほしくない。

 SEALDSの奥田さんは運動後に一橋大の大学院生になったが、とても良い選択肢だと思う。すぐに成果が出ない運動に長く関わり続けることはそう簡単ではない。特に奥田さんのように指導的立場に立つ人は一参加者の何十倍もの時間を当然無給で費やさなければならない。そもそも日常生活から相対的に遠い問題について、当事者意識を持ち続けることは普通難しい。大学院で勉強することは問題に関わり続けるためにとりうる複数の有効な選択肢の中の一つではあると思う。

 今戦う若者たちが、やがてやってくるであろう、おそらく運動前とそれほど変わらぬ、もしくはより悪い日常の中で、腐らず持続的に戦っていってくれれば良いと思う。もしそうなるのだとしたら、政治体制がより非民主的になったとしても、社会は少し良くなったということに、結局はなるのではないか。それほど簡単な話ではないだろうか…。

 

ところで…

(そういえば知り合いの香港人に3年ほど前に香港の学生運動を応援している旨話したら「黄之鋒(Joshua Wong、上にツイートを引いた、雨傘運動時からの運動の中心人物。学生)はお金のためにやっている」などと言われたのだが、いや、もしお金のためだけにここまでできるんならむしろ尊敬するわ笑)