SUMMERY

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作家・古谷田奈月さんについて(1)三島賞受賞作・「無限の玄」(2017年)まで

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最近話題作を繰り出している作家として私は古谷田奈月さんに注目している。二度くらいにわけて、ちまちま調べた情報や、読んだ古谷田小説の感想について書きたい

 

1、古谷田奈月とは誰か。

 古谷田奈月は、現在純文学系の文芸誌を中心的な活動の場とする新進作家である。古谷田の小説の多くに共通するのは、家父長制社会下における男女の生に独自の観点から問題意識を投げかけつつも、そうした社会に生きる若者たちの個人史によりそい、彼らを肯定的に描き出す語りのありようと言えよう。

 

 古谷田は、1981年に千葉県我孫子市に生を受けた。二松学舎大学文学部国文学科を卒業してのちは、しばらく派遣社員などをして働いていたようだが、その後本格的に執筆に取り組み始める。

 2013年には、「今年の贈り物」という作品で第25回日本ファンタジーノベル大賞を受賞した。同作は、その後『星の民のクリスマス』(新潮社、2013年)と改題されて出版される。これが古谷田のデビュー作となった。2016年には光文社から『リリース』という作品を出版している。この作品は2017年に第30回三島由紀夫賞候補となったが、当選はしなかった。しかし同作は第34回織田作之助賞を受賞している。

星の民のクリスマス

星の民のクリスマス

 

 

リリース (光文社文庫)

リリース (光文社文庫)

 

 

 2018年には、「無限の玄」(『早稲田文学』増刊女性号(通巻第1026号)、2017年)で第31回三島由紀夫賞受賞し、「風下の朱」(『早稲田文学』2018年初夏号(通巻第1028号))で第159回芥川龍之介賞候補となった(受賞作は高橋弘希送り火」)。この二つの作品は一冊にまとめられ『無限の玄/風下の朱』として2018年に筑摩書房から出版され、第40回野間文芸新人賞の候補ともなる(受賞作は金子薫「双子は驢馬に跨がって」、乗代雄介「本物の読書家」)。 

無限の玄/風下の朱 (単行本)

無限の玄/風下の朱 (単行本)

 

 

 2019年4月には長篇「神前酔狂宴」(『文藝』2019年夏季号、のち河出書房新社より2019年7月に単行本化)を発表した。同作では、明治時代の軍神を祀った神社の管理下にある会館で、結婚式の運営にあたる派遣社員に焦点化して語りが行われる。同作は日本的婚姻制度の問題、天皇制と生身の身体を持つ天皇の個人としてのありようとの間の葛藤、新自由主義下の若者における貧困の問題などが描き出される意欲作であり、高い評価を受けている。

神前酔狂宴

神前酔狂宴

 

 

 以上述べてきたように、古谷田はデビュー以降概ね継続的に作品を世に送り出し続け、その多くが主要な文学賞を射止めたりその候補となるなど、現代文学を孵卵し、世に送り出す文芸誌を中心とした制度——以下では仮に現代文学の「文壇」と呼んでおく——の中で、八面六臂の活躍を見せている作家である。

 

2、「無限の玄」「風下の朱」執筆まで

 前項で述べたように、古谷田のデビュー作はファンタジーノベルである。もともと古谷田は純文学の新人賞に応募していたが、「純文学縛り」が窮屈となり、ファンタジーに向かうことになった。

 インターネット上で公開されている下記のインタビュー記事において、古谷田はスクエア・エニックス社(現社名)製の大ヒットゲーム『ドラゴンクエスト』の攻略本から、同ゲーム中に現れる装備など細かなディテールにまで作品世界設定に即した物語が付されていることを知って感嘆したエピソードを述べており、古谷田が想像上の世界を精緻に組み上げていくことへの志向性を有する作家であることがわかる。

www.webdoku.jp

 

 しかし、受賞後、今度はファンタジーのようなエンタメ系の領野ではオチをつけなければならないことに窮屈さを感じ、逆に何でも書いて良い純文学が自由に思われるようになったという。

 

転機となった『リリース』(2016年)

 そうして書かれた作品『リリース』は同作品単行本版の「解説」を執筆した栗原裕一郎のまとめを引用すれば、「男女同権やLGBTの権利の確立という理想が実現した暁にはどんな未来がやってくるかを追究した、思考実験的なディストピア小説[1]である。

 空想上の社会を描くという点ではファンタジー的想像力に親和的であるものの、テーマは現代におけるLGBT運動と直結しており、社会的な問題に取り組む作家の姿勢が色濃く伺える。古谷田は同作品執筆の経緯について、仲俣暁生からのインタビューにおいて、可能であれば社会的な問題をメインに据えたものを書きたくなかったが、自分の書いていた小説に男性ばかりでてくることに思い当たり、「どうもほっておくと自分は女性を出さないなということに気づき、特に思想があるわけでもないのにジェンダーの偏った小説を書くことに罪悪感が出てきた」 [2]ことが執筆のきっかけとなったと述べている [3]。

 そして、同インタビュー中で仲俣が、『リリース』の出版により「社会的な問題意識のある作家、それも技巧的な引き出しが多そうな作家として古谷田さんは認知された」 [4]と述べているように、『リリース』の発表は、古谷田の作家のキャリアにとって一つの転機となったと考えられる。

 それは、同作発表後、古谷田が早速、川上未映子が責任編集となった『早稲田文学』増刊女性号(2017年9月)という「社会的な問題意識」に満ちた雑誌に対する執筆依頼を受けたことからも裏付けられる。 

早稲田文学増刊 女性号 (単行本)

早稲田文学増刊 女性号 (単行本)

 

 

「無限の玄」(2017年)の執筆

 そして、この執筆依頼は古谷田にとって、初の純文学系文芸誌からの依頼だった[5]。それに応じて書いたのが、本稿がのちに論じる「風下の朱」の姉妹作、「無限の玄」である。

 「無限の玄」は男ばかりの血族で構成されるストリングバンドで絶対的な権威を持っていた父の繰り返される死と再生と、それに翻弄され、揺動しながらも少しずつ新たな形に変わっていくバンドの男たちの共同体を描く。現代社会におけるジェンダー不平等の問題に対する告発を主目的に据えた、「女性」を冠する「女性号」において、「無限の玄」は、男性のみの共同体を描いているという点で他の作品と比して異質なものとなった。

 この作品は2018年に三島由紀夫賞を受賞するが、その受賞インタビューにおいて古谷田は「女性の書き手のみで構成される雑誌だからこそ、男性について語られねばならない、しかもそれは、男女が対比的に登場する物語ではなく、純粋に男性のだけの視点で描かれるべきだと感じました」 [6]と意図を述べる。

 その上で、自己のジェンダーバイアスについて、「私はもともとジェンダーバイアスの感覚がおかしくて、かなり意識しないと女性の登場人物を出せない」「男性キャラに女性キャラを関わらせると、そこに意味を持たせなければいけないのではないか、つまり「性」に触れなければいけないのではないかという気がした」「私の性自認は女性ですが、作家としての私にとって女性はずっと「異性」でした」と続ける。そして、「フェミニズムが元気になってきて、正直とても引け目を感じました。女性の活躍を書けない作家なんてと恥ずかしくなった」 [7]とすら付け加える。

 あえて男性同士の共同体を描いた作品の受賞インタビューで吐露される、やや過剰にも思われるような女性ジェンダーを描くことへの義務感と、それができていないことへの「引け目」の感覚は、古谷田をして姉妹作「風下の朱」の執筆に向かわしめることになる。

 

3、三島賞記念スピーチについて

 続きは次回に回すが蛇足を一つ。

 最近話題となった文壇論として多くの人が想起するのは、福嶋亮大の「文壇の末期的状況を批判する」という記事だろう。同記事は『REAL KYOTO』というウェブメディアに2018年8月18日に掲載された。

 この記事は、早稲田大学のセクハラ問題から筆を起こし、盗用疑惑で一時期話題になり、かつその後芥川賞候補作となった北条裕子の『美しい顔』(2018年)について建設的な批判を展開しつつ、現代の文壇がないがしろにしていると思われる表象の問題を改めて提起する。舌鋒の鋭さと鋭利な批判性から記事の掲載直後より文学に関係する学者・批評家を中心に広く拡散され、侃々諤々の議論を呼んだ。

realkyoto.jp

togetter.com

 

 福嶋の記事は以下の引用部に現れるとおり、文学に関わる研究者・作家は表象の暴力性に十分自覚的であるべきだ、という主張を中心としている。

いずれにせよ、改めて繰り返せば、文学者ともあろうものがホイホイMe Tooなどと言って、他者の人生に「私」を重ねていくのは、たとえそれがどれだけ政治的に正しかろうと、文学者としては間違っている。Me TooだろうがWe Tooだろうが、気軽に使ってよい言葉では断じてない。たとえ支援の意志があったとしても、他者の人生の苦難に対して「私(たち)も同じ」と乗りかかるのは基本的に傲慢なことである。文学は本来、そのような共感の危うさを――つまり一見して優しげな善意のもつ罠を――教えるためのものである。

 ところでこの文脈に乗る形で古谷田奈月に関して言及があったことが、この記事を執筆していた私の関心を引いた。以下の部分である。

もとより、騒動後も渡部と数度メールをやりとりした私は、一連の報道をすべて鵜呑みにするつもりはない(ちなみにインターネットで「疑惑」が報道された直後に、某文学賞の授賞式でさっそくMe Tooをかざして報道に便乗した作家がいるとも伝え聞く――これが事実だとしたら一般論として軽率であるばかりか、後述するように文学者の振る舞いとしても大きな問題だろう)。

 これだけでは古谷田に関する言及とはわからないが、三島賞の授賞式が渡部に関する報道の直後である2018年6月22日であったこと、また、朝日新聞のオンラインメディア『好書好日』の記事(「# Me Too」「ハイデガー」「ネコトーク」 三島賞など3賞贈呈式、3者3様のスピーチ(『好書好日』、https://book.asahi.com/article/11637726、2018年6月26日配信)から、授賞式で古谷田が『早稲田文学』女性号についての考えを述べていることを考え合わせれば、福嶋が上引用部で言及しようとしているのが明らかに古谷田であることがわかる。

 古谷田がMe Too運動に現れるような他者を安易に表象した気になるPCの陥穽を自覚した上で、あえてニュース発覚直後の、事件を客観視するにたる情報が入ってきていない段階で発言をしたのならよいが、以下のリンク先から見ることのできるスピーチの動画からは使命感に駆られてともかく言及してしまった、という感じが溢れ出ており、問題意識は十分によくわかるが公平に見て拙速な感じはあったと思う。

www.shinchosha.co.jp

 

 しかし、こうした前のめりは、作家として書くという本来的に私的な試みを、〈この世界に生きる様々な人々に対してフェアな態度を取らなくてはならない〉という責任意識を負いつつ行う古谷田の誠実さゆえのものであろう。それ自体は好ましいものであるしその誠実さの強度は最近の若手作家にないものだと感じる。違和感を言葉にしようと試み、かつその中で受けた上のような批判を十分に生かし、それに対して(賛成にして反対問わず)作品執筆を通じて応答していくことのできる潜勢力のある作家であることは間違いない。

 それではスピーチからすでに一年半経過し、このほど執筆された話題作『神前酔狂宴』にそれが現れているか。続く記事で言及したい。

 

===

[1]栗原裕一郎「解説」、所収:古谷田奈月『リリース』、光文社文庫、2018年。

[2]古谷田奈月、仲俣暁生「小説におけるフェアネスと勇気」『ちくま』第572号、2018年。

[3]同上。

[4]同上。

[5]同誌には岩川ありさによる『リリース』論(「クィアな自伝——映画「ムーンライト」と古谷田奈月『リリース』をつないで」、436-444頁)が載っており、古谷田が『リリース』により岩川のような現代社会におけるジェンダー問題を論じる批評を多数発表する論者に注目されたことがわかる。

 [6]「受賞記念インタビュー 死が繰り返される世界へ」『新潮』2018年7月号。

 [7]同上。