SUMMERY

目をつぶらない

滑らかに生きたい。明晰に生きたい。方途を探っています。

近況報告

f:id:Summery:20191107125411j:plain

新宿渋谷方面を眺める

 

 

 随分長らく更新が滞りました。ちょくちょく書こうかと思うタイミングはあったけれど、書く気にならなかったのはほかに書くべきことが山ほどあってエネルギーを吸い取られていたから。他の物を書くことで、ブログを書きたいという思いを収めることはできないけれど書くことに費やすことのできるエネルギーはやはり有限なので、ブログに書きたいことがあるなあと思いつつできなかった。10月から11月は研究面・仕事面でのピークであまり記憶がありません。

 

 今、次の職場で働き始めるまでのお休み期間中なのですが、平日昼間ふらっとサイクリングしてみて、太陽のもと鮮やかにせりあがる家並や街路樹、小石川植物園の椿や梅の花を見るにつけて、そうした外の世界の諸物との関係の中にある自分というのを忘れ去っていたことにはっきり意識的になりました。会社のパソコンのモニターの中、家のデスクトップの中、本の中、頭の中だけで生きているわけではなく、私の体はこの世界でいろんなものと並んで在るはずなのに、そうしたありようを完全に忘れていました。晴れた日に道を歩くだけで感動してしまう。どれだけ疎外されていたのか。ちょっとリハビリが必要。普通に生活している分には至って普通なのですが、例えばYoutubeでNコン小学生の部を見て、単純な抒情がまっすぐあらわされた曲を子供たちがにこにこしながら(作られた笑顔ですが)歌っているのを見るとあっさり涙が流れていたりする。いくつかの部分については自分で驚いてしまうほど脆くなっています。この半年のダメージといってしまうのは簡単だけれど、そうじゃないのはよくわかっています。もともと弱かった部分がうずいている感じがあり、これは30代が近づいているゆえの何かの変化なのでしょうか。別に悪い気はしません。若干戸惑うだけ。

 

 

f:id:Summery:20200129141720j:plain

小石川植物園の椿なのですがクリスマスツリーのように見えませんか



 そういえば10月から11月までの記憶があまりないのは、仕事面・研究面で忙しかったからだけではなく、小説を書いていて頭を持っていかれていたからでもあるのでした。小説を書いたのは小学校高学年の時がはじめて。中学・高校では書かず、大学に入ってから演劇の脚本を書くようになってまた小説を書くほうに少しずつ戻っていきました。

 

 それで、何もこんな時期にとは思うのですが、10月にどうしても書きたいという気持ちになり、学会発表の準備と仕事との合間を縫ってともかく書いていました。それを書き終えるのと学会発表(+学内発表)が終わるのとが同時で、12月のはじめ一旦全部収束してアパシーになり、マックで宙を見つめながら2時間くらい過ごしたりして、早回しのように日々が過ぎ気づいたら年末になっていたのですが、ここでまた小説を書きたい欲が沸き上がってきて10月に書いていたのとはまた違う小説を書き始めてしまいました。小さなころから苛烈な勝負の世界で戦う子供の思春期にかけての内面が描きたく、ちょうど興味のあった囲碁のプロ予備軍について書いてみようと思ってからは朝から晩までひたすら囲碁のことばかり調べ、今年は土日などの都合で正月休みが9連休くらいあったのですが、すべてその調べで消えました。

 しかし、自分のほうが勝っているのか負けているのかわかるまでにこれだけ経験が必要なゲームも他にないのではないだろうか。…いや、本当に勝ってるのか負けているのかはどのゲームであっても判断するのは難しいけれど、例えば将棋であれば王将が危なそうか、大丈夫そうかはとりあえずまあなんとなくわかる。しかし囲碁の場合自分の全体的な色がよさそうかは初心者には「とりあえずまあなんとなく」もわからないと思う。

 

 そんな風にして年末に書き始めた小説が一定の分量となり、そろそろあきらめをつけなければならないだろうとなったのが先週末。連絡がとれなかった友人から連絡があり、話をしている最中にふと、終わらせなければならない、と強く思いました。終わらない小説でもいいのだけれど、自分が生み出した想像力の世界にそれなりの強度を持たせたい、そのためにはある程度の完結性が必要とは思い、日月火と本当に朝から晩まで取り組んでいましたが、私の小説の書き方は、大学・大学院のころと現在とでだいぶ変わったなと思いました。

 

 10月に書いていたのも含め、ここ4か月ほどの執筆は「充実しているけれど本当に消耗する」経験。消耗というのは何を示しているのかと言えば、第一に世界の往還に消耗する。書いている世界に没入するのもそこから自分を引っぺがして現実に帰るのも体力が必要。例えば会社に行く前に2時間書いたりすると、出社するころにはかなり疲れていて「もうひと眠りしてから会社行きたいな」などとおよそ社会人としてありえないことを思ってしまったりしました。睡眠時間は基本8時間くらい必要になりました(それまでも7.5時間は必要でしたが)。

 

 

f:id:Summery:20200129141744j:plain

お日様の側からとったさっきの椿

 

 

 第二に、書いたものを読みなおすことで大きく感情が刺激されることに消耗します。これについては、どういうことなのかやや長い説明が必要です。まず一旦ちょっと遡ったところから話を始めると、大学・大学院時代は比較的書く対象との間に距離をとることができていて、〈どう書くか〉に注力するウエイトが高かった。当時の私は小説を書くことを通じていかにそれまでにないような言葉の可能性を開くかということに取り組もうとしていたのでした。そのため、物語内容については、もちろん自分が欲望する内容を書くのですが、読者がどんな物語を読みたいと思うか、ということを考えることも多かったです。つまり、物語内容をある程度客観視できていたのですが、それは自分の欲望と物語の進行との間に距離があるということでもあり、なかなか続くプロットを書くことができませんでした。物語の面白さの基準を外においていたので、自分にとって面白いようにあまり感じられなかった。この時期の私の小説は書く内容が尽きて中絶したものが多く、分量としては基本短篇、多くても原稿用紙100枚くらいでした。

 そして、自分の偏った言語使用を分析し、抽出された特徴をさらに複雑に屈折させ濃密にしたような文体なので、今読み返すと、「自分としては悪くない(というか、濃密でよい)と思うけれど読ませられるほうは大変だろうな」と感じられてしまうものに仕上がっています。しかしまあともかく、20代の自分が自分の体をどう言葉の使用に反映させようとしていたかはよくわかり、〈自分研究者笑〉としての自分にとっては史料価値が高いしいつかなんらかの形でリサイクルできるだろうと思われるものに仕上がりはしました。

 

 それに対してここ4か月の執筆では、想像した物語のプロットを書きたくて書きたくてしょうがないということが第一にあり、表現手法としての言語の使用についてあまり意識しなくなりました。すると、読者がどんな物語を求めるかよりも自分がどんな物語を欲望するかということを考えて書いたものが結果物として現れ出るため、書く際にも書いたものを読みなおす際にも自分の欲望が刺激されて刺激されて仕方がないのです。自己同一化することのできる登場人物も以前に比べて増え、一度読み直すだけでも相当感情的なアップダウンを経験することになりました。

 

 嫌な話ですが反省がてら書くと、山場については書きながら涙がにじんでいたし、「これはよくない。全然作品と距離が取れていない。次の日に冷静になって読み直そう!」と思い立って9時間寝て読み直すと今度は、書きながら書いたものを読んでいた前日とは異なり、続く言葉を考える必要がなく純粋に物語自体を受け取ることになったからか、前日とは比べ物にならないほど感情的な昂りがあり、しゃくりあげて泣くような状態になってしまいました笑。自分の書いたものを自分で読んで泣くなんてこれまでになかったので動揺したのを覚えています。

 

 それはそれで気持ちいいというか、カタルシスを感じる体験であったし、自分がどんな物語に感情的に揺り動かされてしまうかを考えるきっかけとなったので自己認識も深まったのですが、一方でやはり書き手として書くものにどう距離をとるのか、今の書き方を続ける限りにおいては再考しなければならないと思いました。少なくとも、人に読ませるのだったら。

 そしてまた、こうした書き方は体力的につらいものがあるなとも思いました。細かな表現を推敲するたびに都度心動かされるほど没入すると本当に消耗します。「別にいちいちそんなに入り込まなくていいのではないか」と思われるかもしれませんが、第一に自分の欲望する物語なので勝手に入り込んでしまうし、第二に入り込んでこそ踏み出せるもう一歩というか、その時でこそ書き継げる表現があるので、なかなかそこをスキップするつもりにはなりません。

 

 ということでここ数日の推敲作業と終わりを見つける作業で生活リズムはぐちゃぐちゃ。スイッチ切れる直前まで疲れ、「ほぼ限界だけれどキリのいいところまで、最後に30分だけ推敲して寝よう」と思っても、箇所によっては読み始めると入り込んでしまい、気が付くと明け方3時を回っていたりします。ただ、そういう時も疲れはたまっているので、次の日の活動を始めるのは12時になったりしました。

 

 

f:id:Summery:20191125124736j:plain

 

 

 休みがあったら読みたいと思っていた本はいっぱいあるのですが、それらのうち読むことができたのはごく少数です。「読みたい」というのは欲望ですが、自分が自分の欲望するとおりの物語(読みたい物語)を現に書きついでいるので、読みたいものと言えば何よりもまず、自分が書いているものになってしまいます。したがってともかく起きるとまず自分の執筆中の小説を読んでしまう。自分が持っていかれる、消耗する、へろへろになって「夜は違うことをするぞ」と心に決めながら夕寝をする、起きる。何となく書いていた小説を開いてしまう、自分が持ってかれる、この繰り返し…。

 

 で、そんな執筆にけりをつけたのが今日でした。

 

 大学でシンポジウムを聴き、途中で抜け出して図書館で作業。今日も朝方まで頑張るぞと思いはしたのですが、結局全体の進捗8割くらいで限界を迎えてしまいました。消耗で推敲ではなくただ読むだけになってしまっている。いくつか大きな問題が残っているが、それを解決するよりも読むことで一秒でも長く小説世界にとどまろうとしてしまう。やはり少し距離を取らなければならない。しばらく寝かせなくてはならない…そうは思いながらも自分の小説を読み続けてしまう自分を、パソコンを畳むという物理的な手段をもってクールダウンさせます。いったんあきらめをつけないと寝かせることもできない、と思ったので上で少し出てきた友人に送らせていただきました。持つべきものは信頼できる読み手としての友人。

 

 そういえば私は大学で文芸サークルに入ろうと思ったことが一度あったのですがいくつかのサークルが出している文芸冊子の質が低い【ように見えた】のでやめてしまいました。若干後悔しています。今改めてどっかにしまってある(?)のを引っ張り出して読み直す気にはならないので本当に質が低かったのかそうでないのか定かではないのですが、当時は本物の馬鹿だったので、多分勘違いでした。万が一本当に質が低かったのだとしても、この歳になってわかるのですが、書いた作品を読んでくれる友人を持つことができるというのは掛け値なしに貴重で、書いたものを読みあえる関係性構築の場として、文芸サークルは重要だったなと思います。当時の私は全然思い当たりませんでした。結果物ばかりを見ていた。そもそもサークル的な集まりについての理解が決定的に浅かったのだと思います。(なんであの人たち群れてるんだろう?というようなことばかり考えていた)

 

 閑話休題。作品を読んでくれる友人に送ってこれで手を離れたということになるので、多少は落ち着けるはず…と思っていたら本当に緊張がほぐれたのか3時間も夕寝をしてしまいました。

 大変だった…。心なしかやつれたような。気づくと一日一食それも21時ころにやっと食べた、ということになってしまった日もあり、これまで結構どんなときでもお昼と夜は規則正しく、それも他の人に比べて多めに食べていたのですが、そこすら不安定な生活になってしまいました。こうした根を詰めた創作活動は休みがなければできないので、本当にできてよかったけれど、課題は山積している。これでいい小説が書けていたら言うことないのだが、そんなことには到底ならないのが難しいところ。ま、大抵の物事は二か月とかでなんとかならないので、これだけ二か月で済ませられると考えるのはおかしな話でしょう。

 

 

f:id:Summery:20200129145759j:plain

 

 

 根詰めて小説を書いた一番の成果は、「ともかくこれなら過剰なまでにできる」とわかったこと。社会人になって思うのですが、優れた仕事というのは何らかの過剰さをはらんでいます(誰もが優れた仕事をする必要は全くありません!念のため)。そうした過剰さと同じものを訓練を通じて発揮することは十分可能だと思いますが、それにはなかなか労力がかかる上、継続できないと長期的には質は下がる一方。それではどのような仕事なら過剰さを発揮しつつ継続できるか。それは個人の性向や個人史に根差しているため、自分で見出すしかないと思います。とはいえ、それはいつも呼吸をするように続けていることや抑え込んでも抑え込んでも断続的に沸き上がる欲望の中にあるので、冷静に自分の日常を振り返れば見出せるはずではあるのですが。私の場合こういう風に書くことを一時的にならできるとわかりました、が、これだけ消耗することを継続できるのか。そしてもし継続できるのなら、それは対価をもらえる仕事になるのか(そうでなくてもそれはそれで続けますが)、見極めなければならないと思います。

 

***

 

 せめて外の世界を若干也とうかがう機会くらいは多少持とうと思い、この数日、執筆場所はいろいろ変えていました。主には家から自転車で行ける文京区の様々な喫茶店。そこに向かうまでの家並は前述のとおりよかった。特に小石川。一目見ただけでお金も手間もかかっているとよくわかるような、デザイン的に優れており清潔で品のあるお家がぎっしりと並ぶ閑静な住宅街。そこを歩くとこちらも居住まいを正そうという気になります。駒場の西側と同じものを感じた。

 

summery.hatenablog.com

 

 小石川は基本言うことなしなのですが唯一、地下鉄の駅までは遠いかな…茗荷谷、千石、春日、どこにいくにも徒歩だと15分くらいはかかりそう。ちなみに同じ文京区でいえば目白台とかも不便そう。

 文京区は公共施設にもお金をかけており、歴史と教育を大事にしていて、都心の割にはがやがやとうるさい場所が少なく、道も広め。一生ここを出たくない。ゆくゆくは小石川とかにお家を構えたいなと思いつつ、勤め人なのでしばらくは駅近の下町エリアに住みます。

 

***

 

 最後にお仕事について。転職します。その事情については多分そのうち書きますが、ここでは一旦以前働き始める際に書いたエントリを貼り付けておきます。うーん新しい生活への〈不安と期待がないまぜになった感覚〉笑がある。総括すると、20代半ばまでずっと学校的なものの中にいた私にとって就労はもっともっと異世界体験のようなことに満ちているのかと思っていたら、案外普通でした(周囲の人も「働き始めた割には案外変わらないなこの子」と思っていたはず)。

 

summery.hatenablog.com

 

summery.hatenablog.com

 

summery.hatenablog.com

 

summery.hatenablog.com

 

本当に恵まれた職場だったので大きな不満はなかったのですが、人が社会で働くこと一般についてはちょこちょこ考えることがありました。

 

summery.hatenablog.com

 

summery.hatenablog.com

 

summery.hatenablog.com

 

summery.hatenablog.com

 

この三年間で一番大きかったのは一人暮らしを始めたこと。仕事とは直接関係ありませんが、私の人生にとっては革命的な変化でした。一人暮らしを始められたことの一点をもって、働きはじめたのは成功だったと自信をもって言えます。私生活については、間違いなく人生最良の日々=今

 

summery.hatenablog.com

 

 以上乱筆失礼しました。