SUMMERY

目をつぶらない

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思春期の性と身体をどう文学に描くか:村田沙耶香『しろいろの街の、その骨の体温の』

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小石川植物園


 

 先日書いた近況報告のエントリで最近全然本が読めていないと書きました。今読むと、このエントリは一つの記事としてはあんまり長大で読みにくい部分があるのでそのうち分けるかもしれません。

 

summery.hatenablog.com

 

 そんな中でもしっかり読んだものが全くないかといえばそうでもなく、標題に掲げた村田沙耶香の作品を紹介したいと思います。

 これまで思春期の性と身体を描いた現代文学の作品でピンと来るものに出会えてきませんでした。あるものは登場人物があまりに自意識過剰かつ自罰的で乗れず、あるものは対照的に極めて放埓で不埒なため、読み進めることが難しかったです。極端な方向に陥りやすい時期であることはわかりつつ、極端なものを極端なまま書くことでは文学として自立していると言えるか怪しいのではないか、でもどうやって書けばよく書けていると言えるんだろう、とぼんやり考えつつ答えは出ていませんでした。

 本作はそうした問いに一つの答えを提示したこのジャンルの白眉だと思います。

 

概略

しろいろの街の、その骨の体温の (朝日文庫)

しろいろの街の、その骨の体温の (朝日文庫)

 

 

 この作品については以前このブログでも触れました。

summery.hatenablog.com

 その時に書いていたことを少し引いてみると

 

最近珍しいニュータウンを舞台にした小説。ニュータウンの開発やその停滞と第二次性徴期の身体の変化とを重ね合わせて書くのが小説の基本的な仕掛けで、その上にカースト間の対立厳しい教室で生きる様々な層の生徒たちの生きざまとその裏にある不安や葛藤が、主にカースト下位の私の自己防衛的観察眼により剔出される。

 

 はいそうでした。スポーツ万能でクラスの人気者である、淳良そのものな伊吹が自分の顔貌にコンプレックスを抱える陰気な「私」こと谷沢という女子に小学校の時の関係の延長上で何度もキスを強要されるという筋書きは、それだけ聞くと本当に小説として立ち上がるのか不安になりますが、スクールカーストの問題をかませながら見事にまとめられています。

 

身体を通じた世界との新たな出会い

 で、今回再読して気になったのは、性徴が発現する時期の身体との関わり方をどう書くかということ。『地球星人』(2018年)もそうでしたが、村田さんは自慰や性行為を割とストレートに神秘的なものとして描きます。以下は「私」(谷沢)の自慰のシーン。

 

 ふと、窓ガラスに映った自分を見た。交尾した蝶々の羽のように、またはあのとき唇の中で震えた伊吹の性器のように、自分の肉体も、神秘的な振動を繰り返していた。

[中略]

 伊吹の、あのとき聞いた、小さな悲鳴のような呼吸が耳に蘇った。そのときの濡れた目と、舌にひろがる体温を思い出した瞬間、爪先からぴりっと、小さな、光の粒でできた雷のようなものが走って、脚の間からその光の粒子がゆっくりと抜けて行った。

 私は起き上がり、自分の脚の間を見てみた。何かが抜けて行った感覚があったので、伊吹の精液のようなものか、もしくは何かきらきらした星屑のようなものが、ベッドの上に散らばっていないかと思ったのだ。

(248頁)

 

 「神秘的な振動」「光の粒でできた雷のようなもの」「きらきらした星屑のようなもの」という表現が目を引きます。自慰は①自分の欲望を解消するための恥ずかしい行為で隠匿すべきものとみなされる向きが多いのですが、ここでは②自分の身体の自分ならざる側面との出会いとして語られているように思います。

 思春期の性徴が発現する身体はそれまでの身体と異なり個人の力で抑えることの難しいような欲望の発信源となります。①のような自慰の語り方は、そうした欲望を抑え込むべきものとしてみなすことを前提にしており、村田さんの②のような語り方はそうした欲望を新たなものと出会うための一つの経路として捉えているように思います。 

 「雷」「星屑」とあるように、そうした欲望は自分の身体に対して本来外にあるような自然の諸物とつながっています。『生命式』(2019年)の「街をたべる」などにも見られますが、村田さんは人間の営みを広く自然や生命活動の一部と相対化して捉えることによって、それを新たな角度から活写することを得意としています。ここにもそうした、社会で言説化されてしまった性のありようを改めて外界との関わりから位置付け直そうとする意思が読み取れます。

 自分そのものであり、したがってその機構については既にあらかた知り尽くしている身体が知らず知らずのうちに新たな形へと組み替えられる時、組み替わった身体は世界との新しい関係の中に置かれることになる。そして、新たな身体を通してしか垣間見ることのできない、相貌を異にして現れる世界が個を超えたもの=神秘的なものとして経験される。

 「恋愛」というのはあまりに毒の回った言葉で使った瞬間に色々嘘を抱え込むことになるので、便宜的に「他者の身体の希求」(小説中の言葉でいえば「疼き」?)と言い換えるのだとすれば、それは如上のように自分の身体と世界との新たな出会いを根本的なところで駆動させるものなのだなと思いました。

   うーん、やっと「恋愛」の良さがわかったかもしれないぞ。でもこのように「他者の身体の希求」として「恋愛」を捉えるのだとすれば、やっぱり恋愛には相手の身体に対する欲望が必須ということになるのでしょうか。村田さんの小説を読む限り、それはイエスに見えます。直観にも一致。

 

自己から他者への乗り越え点

 さて、(1)身体を通じて世界と新たな形で出会いたいという他者への志向と(2)自分の体や他者の身体を自分の思う通りに服従させたい・そこから快楽を得たいという自己の欲望への内閉とは容易にすり替わってしまいます。無論この二つは厳密に切り離せるわけではなく村田さんの小説でも、谷沢は何度も伊吹君の身体を服従させようという暗い欲望に駆られます。しかし、最後にはそうした暗い欲望を乗り越えて、伊吹君の身体と出会いなおすわけで、この小説の本領は、(2)をどう乗り越えて(1)に至るかという課題を思春期女子に内在的な視点から描き切ろうとしている点にあるのではないかと考えています。

 その乗り越えがどのように描かれているか、ここからは複数の解釈がありうるところと考えられます。私の読む限りでは、成長し性徴が発現する途上の自分の身体が持つ歪さに対して持っていた嫌悪感を谷沢が肯定的にとらえなおすことができたことが乗り越えの主因となっています。

 

 谷沢のクラスではいじめが横行し、常に自分の振る舞いが所属するカーストに期待されるものから逸脱していないかを気にしなければいけない状況が生じていました。その中で谷沢は自分の振る舞いに対する自己監視をすることで教室の規範に順応しますが、ひょんなきっかけからあえなくいじめられる側に回ってしまいます。

   そして、いじめられる側に回ることで、長らく恐れてきた「気持ち悪い」という言葉やその類の顔貌に対するネガティブな評価付の言葉をかけられることならびにその際の細かな応酬を、谷沢はむしろ、教室の規範に対する抵抗として捉え返していきます。

   それを通じて、谷沢にとって「気持ち悪い」という言葉はそれほど恐ろしいものではなくなっていき、「気持ち悪」さの源泉としての自分の身体にも向き合うことができるようになっていきます。

 

 こうした身体を軸とした谷沢の闘争には、谷沢が住む建設途上のニュータウンと谷沢との関係の変化も織り込まれることになります。小さなころから周囲と異なる自分でありたいという自意識を抱えていた谷沢はそうみられる一つの方途として、ニュータウンを嫌う身振りを自覚的にしてきました。

   思春期になると成長途上でいびつな身体を抱える自分と成長途上で発展が宙づりとなってしまうニュータウンとがはっきり重ねられ、街への嫌悪と身体への嫌悪はおおむねイコールな関係として読めるようになります。

   そして、大嫌いだった自分の体を聖なるものとして捉え返すのにあわせて、その聖性を育んだ街についても「これ以上嫌いな街に会うことってないんだろうな」と記述されます。「嫌い」が安易に「好き」になるのではなく、「嫌い」たくなるような固有の物質性を持ったものとして立ち現れる。巧みな筆運びです。

 

おわりに

 冒頭で述べたとおり、この作品を読んだ時、思春期の性と身体を文学として描くことに成功しているなという印象を私は持ちました。なぜそう思ったのかというと、①それを描くことを通じてしか切り取られえない世界の側面と、そのように見られた世界に独自な論理(スクールカースト、建設途上の街、谷沢の身体の有機的かつシンボリカルな連結)が描かれている②それが読むことで追体験可能な形で読み手に差し出されている、という二つの理由からです。何をどう描くと文学なのかという問いに答えを出すのは難しいのですが、それが言葉を介して描かれる以上、読み手との共同性を構築する方向に作品が向かおうとしているかということは確実に一つの基準となるかと思います。

 …そういえば私も自分の身体が変化する中で、自分の身体に嫌悪感を感じたタイミングはありましたが、どう乗り越えたのだったか。この作品を読み終えて顧みると当時考えていた以上に、それは困難な過程であったに違いないと思われて来ます。私の中にもまた谷沢的な存在がいたのではないか、そのように思われて来るということは、この作品が文学として成立している証左なのではないかと思います。