SUMMERY

目をつぶらない

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ポケモン剣盾に対して持ってしまう違和感:ジムリーダーが本当に強くはならないか

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 言わずと知れたポケモンの最新作ソード・シールド。昨年(2019年)11月の発売後は、コアで辛口な有象無象のファン達からも概ね高評価を持って受け入れられ、シリーズ中の佳作としての評価は定着しつつあります。実は私はゲームのプレイ動画をちょくちょく見るのですが、今作については、見る中でずっと前からポケモンに持っていた違和感を改めて感じることになりました。今回はそれについて。ちなみに大前提としては、今作を私も高く評価しています。

 

第一世代からフォローしています

 ポケモンゲームをプレイしたのは中学時代のルビー・サファイア(2002年)が最後ですが、以降のシリーズについてもプレイ動画はここ二年くらいですべての分フォローしてきました。世界観、キャラクタ造形、対戦システムなどがいずれも幼稚園児だった頃にプレーした第一世代(赤・緑・青)よりはるかに洗練されてきていることは論を待ちません。対象年齢は低めな気はするけれど、第一級のコンテンツであることは疑う余地がないと思います。

 しかし、プレイヤーとして第一世代を遊んだ幼稚園の頃から長らく感じていた違和感は結局解消されていません。だから駄目だというつもりはないし、むしろそれは、プレイヤーを後述するように映画・アニメなどの派生コンテンツに向かわしめるようなゲームの魅力とも捉え直せる気はしますが、ともかくどんな違和感なのかについてまずは書きます。

 

勝負の論理と人―ポケモン関係との間の溝

 簡単に言えば、プレイヤーが持つポケモンへの愛着が戦闘では単に数値や相性の勝負に還元されてしまうことが私にとっては違和感を感じるポイントです。

 ポケモンの世界では、パーティーとしての強弱を度外視して、ポケモンと付き合う人々が現れます。典型的なのはジムリーダー。勝負に勝つためには多様なタイプを手持ちに入れていたほうが圧倒的に有利ではあるのに、彼らは水なら水、という形でタイプをそろえる。風貌もタイプイメージにそろえている。彼らはどのようなポケモンを有しているかがアイデンティティと分かちがたくなっているトレーナーです。

 それらが弱いトレーナーではなく、むしろ強者=ジムリーダー、四天王として立ちはだかるのは、多様なタイプを手持ちにしているほうが戦闘には有利という勝負の論理には反しています。しかし彼らは勝負の世界で強いことになっている。この矛盾が子供心には違和感として残りました。 

 

ジムリーダーとポケモンとの間にある、魅力的な空白

 例えばタイプ相性がよいポケモンを出すことで、レベルが少し高めのジムリーダーの手持ちを何匹も連続でなぎ倒す、というのはよくやられています。プレイ動画を見るたび、大げさに言えば胸が痛みます。

 胸が痛むというのはどういうことか。大抵ジムリーダーが出すのはその段階でプレイヤーが目にしていなかったような風貌や技・特性を持っている花形ポケモンであり、演出上作り手が特に重要視しているはずのもの。しかし、タイプ相性が良ければいとも簡単に倒せてしまう。ジムリーダーが満を持して繰り出すポケモンとリーダー自身とのかかわりあいや、リーダーが特定タイプに手持ちを統一しようとするに至るまでの物語は、多くの場合語られないけれども、対戦の裏にはあるはずであり、明示されずともプレーヤーは、それを想像することによってゲームプレイを立体的なものにしていけるはずなのに、そうしたゲームのはらむ魅力的な空白は、タイプ相性のいいポケモンにジムリーダーのポケモンがなぎたおされていくなかで押しつぶされてしまうような気がします。そういう意味で胸が痛いです。

 また、制作目線で見ても、お金も時間も膨大に投入されているはず(私の勝手な予想でしょうか)のジムリーダー戦・四天王戦が単純に超えられてしまう仕組み(プレイヤーとしてやって見ればまた違うのでしょうか)になってしまっているのは(胸ならずとも)頭が痛いのではないのでしょうか。

 

生コンテンツでやるべき?

 ところで、プレイヤーの個人史と不可分なポケモンの選好と勝負における強さとの関係づけの描出までゲームでカバーするべきなのか、という疑問は出てしかるべきでしょう。ルールがあり、そのルールの枠内では何事も可能というのがゲームというものの本性で、それがいいところです。あなたの考えているようなことはアニメ・映画・漫画など感情的機微を描きやすい派生コンテンツを通じて示されるべきだ、というのならそれはそのとおりです。

 実際、ここで問題にしている点を含め、ゲームの世界では描き切れない世界設定上の魅力は映画やアニメにより描き出されてきました。

 例えば『劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲』(1998)など大人になった今、「案外安っぽいところがあるなあ」と感じてしまいはするものの、他方で見るとどうしてもどこかで首のあたりがぞわぞわするような、おののきと一体になった感動が這い登ってきます。ゲームの世界観に可能性として内在していたもの―それはプレイヤーとしてゲームに没入する中で自分の中に取り込んでしまった想像力の芽でもある―がはっきりと形を成していると思いました。

 ゲームがゲームボーイの中だけのものでなくなったと気づくことは、それに自分自身が接続しうること、すなわち、そのゲームが自分の一部として息づき得ることを感得することと並行していました。作品はいかにして単体の作品を超え出ていくのか、もちろんその頃はそんな風には言語化できなかったけれど、それを目の当たりにできた私にとっての初めての体験。小林幸子の歌う「風と一緒にどこまでゆくの」という歌詞は、ポケモンに自分の一部を持っていかれてしまっていた当時の自分の感覚を代弁していたような気がします(もう憑き物が落ちて久しいけれど、それから20年経ってもこんな記事を書いている)。

 

制作サイドを応援しています

 自分の持っている問題意識はゲーム外で実現されるべきかもしれないとわかっているのなら、なぜわざわざこうしてブログに書く/いてしまうのか。端的に、私が今のゲームの変化についていけていないからなのかもしれません。子供のころに予期していた以上にゲームシステムが複雑化し、グラフィックも精緻になったことから、それを映画か何かのように体験してしまっているのかもしれない。これだけのことができるのだから、例えば水タイプだけのパーティー、ないしはあるプレーヤーが愛着を持ち、長い時間をかけて育てたポケモンが、種族値や相性で負けているポケモンを凌駕するような形のルールに変えていけるのではないか。と思ってしまいます。ただ、まあ、ないものねだりといったらそれまで。

 付言しておけば、見たことのないタイプの組み合わせのポケモンが多数出現し、タイプ相性を判定することが難しくなっていたり、なつき度と連関したわざが現れたり、雨パや晴れパといった似通ったタイプを揃えることで有利になる戦略が可能になったりと対戦がこれまでそうだったような形の単純な数値争いに還元されないような方向に開かれつつあることは重々承知です。ジムリーダーが戦闘中に話しかけてくる演出も、ジムリーダーの中の物語を想像するよすがになっており、制作サイドが如上のように感じるプレイヤーに応答しようとしていることもよくわかっています。なので、応援したい。

 

 最後に。もしポケモン今ひとたび、育成バトルRPGゲーム史を塗り替える圧倒的な進化を志向するのだとしたら、その可能性の一つは、プレーヤーがポケモンに対して持つ愛着を今まで以上に対戦システムと関連させるにはどうするかということを考える方向の中にあるのではないかと思います。