囲碁について半年間調べる中で考えたこと(2) 仲邑菫さん、上野梨紗さん、福岡航太朗さんら年少プロ三氏の入段に着目して
あまりに長くなったので二つにわけました。前回の記事からの続き。
ちなみに本記事では年少プロのアイデンティティ問題について論じていますが、その関心は『ヒカルの碁』を読んだ時から共通しています。
囲碁界とプロ棋士の今後について
それでは、彼らを取り巻く囲碁界はどのような状況なのでしょうか。囲碁界の未来はどんより暗いといわざるを得ません。
・囲碁人口は減り続けている。
・現段階ですでにプロ棋士約450人中食えるだけの収入を得られるのは一握りと言われる。
・多くの公式棋戦のスポンサーとして名を連ねる新聞社も業界的に厳しく、今後賞金・対局料が減ることが予想される。
・世界棋戦では日本のトップ選手でもなかなか上位に上がって行けない現状がある(かけている予算、囲碁教育者・学習者の熱量と投下する時間が全然違うので当たり前)
・以上の状況が改善する兆しが見えない。
プロ棋士の悲哀(?)
そんな状況下で彼らが囲碁を打ち続けるのはなぜでしょうか。単に囲碁にはまってしまったから、よくできたから、成り行きで、というのが実相でしょう。しかしライフステージが上がるにつれて、どこかで「なぜ自分は人生を囲碁に費やしているのか」といった実存的な悩みに当たるときは来るのではないでしょうか。答えが見つけられないのなら、ただただ無限に出てくる「勝ちたいという欲望」「より効率的な打ち筋を見つけたいという欲望」「進歩したいという欲望」を消化するだけになります。実は内心、そういうことに徒労感を感じているプロもいるのではないでしょうか。それとも、そういうことを考えない人がプロになるのでしょうか。外から見ると如上の欲望を喚起する囲碁というゲームのシステムにむしろ、人間の方が遊ばれているのではないか、と感じたりします。
しかしシステムというのはそういうものです。人間から生まれたはずなのにいつの間にか人間を支配する野蛮性を持つもの。今はAIが台頭して日が浅く、これまでの囲碁の常識が次々に覆る状況が新鮮で、面白いと感じる人が一般の碁打ちにもプロにも多いと思います。しかし日進月歩の情報技術の進展で、AIがどんどん進化し、「AI流」として多くの人が身につけ、大量の解説本が出た打ち筋が二、三年と経たずに更新される、などということが繰り返されたりすると流石に眉をひそめたくなる棋士もいるのではないでしょうか。
プロ棋士の役割の再定義
これまでのプロ棋士は求道者として神秘化された存在で、常人にはおよびもつかない知を内面に宿しているということになっていましたが、AI台頭後は人間のどんな打ち込みにもAIが応手を提示してしまうのでその存在は一定程度脱神秘化されてしまいます。スポーツと異なり身体性に訴えかけられず、かつ凄みを理解するのに時間がかかる囲碁が商業的に成立し続けるためお活路は①厳しい勝負の世界で生きていく棋士たち個々人を巡るヒューマンドラマ②人間が人間の限界ぎりぎりの部分で戦う際にのみ現れる感情の機微や心的葛藤のコンテンツ化、ということになるでしょうか。プロ棋士が身にまとっている物語、彼らの人間性がこれからより重要になっていくことは少なくとも確実だと考えられます。こうしたプロ棋士の社会的役割の変化に囲碁の世界がどのように対応していくのかも気になります。
プロ棋士のアイデンティティ問題と囲碁をやることの意味
ここで年少プロというトピックに戻ると、何かの勢いで囲碁界に入ってしまった低年齢プロたちが迎えうるアイデンティティ上の葛藤は、私にとっては気になります。なりたかった自分と現在の自分との間のずれ、培ってきたものと必要とされるものとの間のずれ。このずれはいうまでもなく多くの物語を生み出してきました。
傍目にはやらなくたって別に構いはしないような囲碁について、「別にやらなくてもいい」と一般大衆に迎合するようなことを言うことはいとも容易だし、実際最近史上最年少で名人となった棋士の芝野虎丸さんは何かのドキュメンタリーだか記者会見だかで「囲碁はいつやめてもいい」(大意)というようなことを言っていた記憶があります。芝野さん自身が、上述三氏に比べると少し遅くはあったのですが、中学生のうちにプロになった(入段時14歳)ので、興味深くその発言を受け取りました。
芝野さんの発言は本当にそのとおりで、無意味性無根拠性がボードゲームという「遊び」の本質的な部分だと思います。そこに意味を見出すと途端に遊びは遊びでなくなる。しかし、プロ棋士というのは遊びからお金を得ている存在で、ただの遊びをただの遊びでないようなものに見せる魔術師としての役割を持っていると思います。ということであえて言いますが「いつやめてもいい」ならなぜプロ棋士はみんな朝から晩まで囲碁の勉強をするのか、あなた方なりの意味があるのではないか。多くの人に納得されるか、普遍性があるかどうかということは別にして、自分自身にとっての囲碁を打つ意味をなんとか言葉にしてほしいです。囲碁なんて打っても打たなくてもどうでもいいことは誰でもよくわかっています。だからこそ、「囲碁を打つことには意味がある」「囲碁を打たなければならない」と言うことこそ、囲碁という共同体において名人に期待されていることなのではないでしょうか。もちろん、そんな期待に乗る義務などないのですが、私個人としてはそこに関心があります。
偶然かもしれないし成り行きかもしれませんが、ある対象に惹きつけられ、長い時間をかけてきたというのは間違いなくその人の固有性と不可分な経験であり、そうした語る主体と不可分な物語こそ、多くの人が求めている強度のある物語だと感じます。そこに、「どうでもいい」との間のかけがえのないずれが生じ、囲碁に関わる言説、フィクションが生まれてくる場が開かれるのではないでしょうか。容易に無意味に転じうる「意味」を語ることにこそ「抗弁」というモードの力が見えるような気がする。
特に、半分わけもわからぬままプロになってしまう嫌いの強い年少プロが、棋士としてのアイデンティティ問題にどう向き合っていくか、注目したいと思っています。ただ、それをうかがうための情報がどれだけ外に出てくるかはわからないところですが。この四月から新聞記者との兼業棋士になった一力さん(入段時13歳)とか、情報を集めて発信する職に就いたのだし、今後こうした点に関するご自身の経験を踏まえた発信をしてくれないだろうか、などと期待しています。
おわりに
ということでつらつら書いてきたのですが、私は今後も折に触れてちまちま勉強しつつ、気になっている年少プロについてフォローして行くつもりです。あわせて囲碁界がどうなっていくのかも外から見て行きます。このブログで囲碁について言及することもあるかもしれません。
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年少プロ棋士のどこに興味を持っているのか。もう少し深掘りした記事をのちに書きました。よろしければあわせてどうぞ。