SUMMERY

目をつぶらない

滑らかに生きたい。明晰に生きたい。方途を探っています。

スポーツ・囲碁の快楽について【雑記】

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 とても大きなタイトルを掲げたのですが、「雑記」とある通り思考の垂れ流しです。

 

 スポーツについて考えたのは、囲碁から回り回って。なぜ人は囲碁を打つんだろう、と問うてみた時に、囲碁ボードゲームであり、遊戯であるので、その意味ではなぜスポーツをするのか、という問いとも重なるのかなと思いました。ちなみに囲碁はマインドスポーツ とも呼ばれているようです。スポーツに結びつけて考えようと思ったのはなぜかというと、単純にスポーツの場合の方が知見が蓄積されているだろうと思われたのと、私自身が中学の頃運動部に所属していたからです。

 バドミントン部。本当に、本当によくやった。そもそも息が切れることが嫌な私が週四回くらい、それもうち二回はコーチがみっちりつくような練習を続けられ、かつ年に三回ほどは、一ヶ月くらい連続で土日を潰して試合に出る、というようなことを続けられたのはなぜか、ということを改めて考えました。

 その理由は、快楽があったからです。

 試合中の、世界が飛ぶシャトルにだけ還元されてしまうような集中の感覚。一瞬の攻防なので考えた瞬間に体を動かさなければならないのですが、それによって生まれる、思考と身体が一体に近づいているような感覚。あるべき動きを、考えることなく、あるべきように行えた時、自分が違和感なくその世界の一部になったような、というか、世界と切り離されて自分個人がいるということを忘れてしまう忘我状態がありました。そうした濃密な集中の時空間に入っていくのが面白かった。そこでは、悩む必要がなく、全ては基本的にクリアに答えが出ます。あるべきかそうでないか。良いか悪いか。勝ちか負けか。勝ちの方向に向けて、力を振り絞ればいいのです。

 囲碁も近いところがあるのではないかと思いました。ともかく世界が碁盤の上だけになり、次の一手を読むことの中だけに回収されていくような感覚。そういう、つまりは快楽ベースで打っているところが、棋士にはあるのかなと思います。脳で分泌される快楽物質のようなものが関係している、のかはわかりませんが、ともかく行為に体が付き合うことによって連れて行かれてしまう場所。そこがいいのかな、と。

 ただ、自分も少し囲碁を打ってみて思うのは、バドミントンの場合体を動かすので、とにかく打ち始めてしまえば体の側が打つモードに入り、それに引っ張られるように頭もゾーンに入っていきますが、囲碁の場合、また違った手続き、入り口が必要とされるだろう、ということです。

 

 

 緊急事態宣言があけそう。行きつけのサンマルクは昨日から開店しています。明後日あたりから出社かなあ。また忙しい日々が始まる。忙しいというより、神経を使う日々。