SUMMERY

目をつぶらない

滑らかに生きたい。明晰に生きたい。方途を探っています。

ある人を知りたいと思う時何を欲しているのか

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 またまた雑記。

 ところでここに貼った写真は香港の写真なのだけど、今香港は大変なことになっている。多少北京政府の支配が強まったところで一般市民に影響ないだろうけど、今香港の未来のために戦っている学生たちが今後デモに参加したことを後ろ暗い過去として抱え、いつか難癖つけられ検挙されるのではないかという不安から逃れられずに生きていかなければならないとしたら、なんと難儀なのだろうと思う。

 

 標題の件についてふと考えていた。気になった人についてもっと知りたいと思うことがある。インターネットで調べたりその人のSNSを見たりして、とにかくその人の情報を集めるのだが、結局それではちっとも満足感がない。知るべき事柄がどんどん増えて、落ち着かない感覚が募る。だったら結局どんな状態になれば満足なのか。それを改めて考えた。

 これがこの人です、と提示できるようなある人間の本質というものはない。ある人というのは環境や周りの人との相互関係の中で形作られて来ており、大抵複数存在する。だからある人を知りたいと思う時、その人の側面のすべてをみようとすれば得るべき情報は限りなくなる。

 ある人について知りたいと思う時、私は、知った、把握した、という感覚を得ることができるような、大まかなその人のその人性、性向を掴みたいと思っている。これが第一である。ある人というものが多様な現れ方をするにせよ、大まかな傾向というのは確かにある。体は一つなので、一つの体を使うゆえの癖などもある。

 しかしそんな大まかなものでは大抵満足できない。やはりその人の内面のようなものを把握しているという幻想を得られてこそ、知っている、という満足感が得られると思う。

 では何がわかればいいのか。

 ということで出した結論は結局、相手が作る私向けの内面がある程度わかればいいのではないかと思った。前述のようにある人は、周囲の人との関係の中で生まれてくる。私との関係で生まれてくるその人([その人]と示す)は、[その人]以上のものではない。しかし、一旦[その人]が生じてしまえば、私はその人の複雑性が縮減された[その人]を理解することで、その人の理解にとってかえることができる。しかも[その人]の内面は私との関係で成立しているので、私にとってある程度理解可能なものであるはずではないか。

 ということで、ある人を知りたいというのは私との関係から生まれる[その人]の内面を知りたい、ということなのではないかと思う。つまりその人と関係を結ばないと不可能なわけで、凡庸な結論ですが、インターネットやSNSから離れて普通に直接話すのがいい。何度か付き合っていればその人が[その人]を作り出すので、理解できる感も増すと思われる。やっぱりなんとなく一緒にいるとか、そういうことは結構大事なんだなと思う、

 当然すぎる。うーん。でもよくよく考えた結果が当然すぎるということ自体、結構よくあることな気がする。