SUMMERY

目をつぶらない

滑らかに生きたい。明晰に生きたい。方途を探っています。

前の職場を退職して四ヶ月、囲碁について考えたり書いたりし続けた理由:プロ棋士の自己形成・もう一人の自分

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 あっという間の四ヶ月間

 六月になった。前の仕事を辞めたのが一月の終わりだったのであっという間に四ヶ月。最初の職場で新入社員をしていた頃は入社後四ヶ月がなかなか長かったような気もしたけれど、今回はあっという間だった。

 現実からそれほど外さずに、しかし適宜改変して書きますが、まず二月は前の職場の有休消化期間。サラリーマンであることを一時的にでも辞めるというのはこれほど解放感があるのかと驚き、かつ院生時代には当たり前だった、時間を自由に使える日々が愛おしくて仕方がなかった。

 

summery.hatenablog.com

 

 この一ヶ月は机に向かってひたすらに小説を書いていた。お昼頃に起きて三時頃に寝るという生活。その頃は、これが私の真の生活リズムだったんだな、朝起きて昼仕事するなんて無理してたな、と思ったのだけれど、社会人生活がリスタートして三ヶ月経った今では、「真の生活リズム」をどんな調子で維持していたのかすっかり忘れている。二三時くらいから少しずつ眠くなり、朝は六時前に目がさめる。昼寝を前提として、夜寝が短くなっているが会社のお昼休みにはなかなか眠ることはできないのでやや頭がぼんやりする日々。

 

 それから、三月に入社して一ヶ月半は職場で働いたがコロナ禍により四月の半ばから五月終わりまでは大体在宅勤務。ずっと家にいなければならないという状況は辛さもあったけれど、安い材料を使い短時間で栄養バランスの良い食事を作ることができるようになったり、部屋の片付けをある程度習慣化できたりと悪いことばかりでもなかった。Zoomは何度か使ったが本当に嫌い。そんなに相手の顔ばかりまじまじと見たくないし、集団会話もやりづらかった。現実の飲み会だと隣の人とだけ話して盛り上がり、それを皮切りに向こうの人を巻き込んでいく、ということができるが、Zoomだとできないからなあ……。

 

囲碁について考え、かつ書いていた

 この間、書いている小説にも関わって、常に考えてきたのは囲碁のことと囲碁教育のこと。囲碁については一旦調べたこと、考えたことを先日まとめた。すでに「つたないな」と思われる部分が散見される。過去の自分が急速に〈愚かな他者〉化する。

 

 完成した思考のみ世に出そうと思うとブログなどやっていられない。品質の保証された内容を発信することと、垂れ流すことの間くらいでやっていきたい。なので消すつもりはないが、アップデートはするかもしれない。

 

summery.hatenablog.com

 

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 ところで、上記二記事を書き終えても自分が囲碁の何に関心を持っているのか実はいまいちわからなかったが少しずつ明らかになってきたことがある。それは、曖昧な心的領野が一つの方向に向かって秩序立てられることで生まれる、ある程度強度を持った形式に関心があるということ。この形式をここでは便宜上「内面」という言葉で示します(ファジーに使います)。

 上の囲碁界についての記事を書いた後、自分が何に関心を持っているのか手探りをするために、以下二つの記事を書いたのですが、そこから少し考えが進んだ結果を「内面」にかかわらせつつ、これから書きます。

 

summery.hatenablog.com

 

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囲碁と内面

 たとえば子供が囲碁を習得し、だんだんとそれを真剣に勉強するに至る過程を考えてみる。あちこちに引かれていた注意が盤上の石の動きに集約されるようになる。学びを進めるにつれ、操作的なところのある囲碁については特に、いくつかの手筋やよい石の形が刷り込まれる。自然と重要な部分に目も手もいくようになり、簡単な部分で頭を働かせなくてよくなる。すると、さらに注意を向ける幅が制限され、その分思考は深まる。この繰り返しにより、曖昧だった心的領域が注意を向ける対象と不可分な形で固まって行く。考えることとは、考慮に入れるべき対象が処理可能なくらい十分に絞られており、かつ明確な目標設定(問い)があって初めて可能になる。囲碁の知育具たる所以はこのように、それとの相互作用の中において考えるということを可能にするところにある。

 

 一旦考えることを学ぶと自分で対象を絞って目標を設定してさらに考えるようになる。外からは見えないが、その人の中では何かの考えが進む。自律的に問いを立て、深め、さらに問いを立てるという形で思考の深みにはまりこんでいき、かつそれが時折、石の並びの形で表現されるのであれば、外からは、内面がそこにある、という気がする。棋譜はこの時、内面のメディアとなる。

 

 理論を学べば学ぶほど、棋士の打ち筋のうち、理論(当然の打ち筋=棋理)から逸脱する部分をピックアップできるようになる。その部分は、棋士の固有性の発露ということになる。棋譜はそのように棋士の身体性、感情、時々の判断が織り込まれたテクストとしてある。

 

囲碁はプロ棋士の一部

 彼らは物心つく前から囲碁を打っており、彼らの思考力は如上のとおり、その形成からし囲碁と切り離せない。とすれば、棋譜には彼ら自身の内面が凝縮されて現れている。彼らにとって囲碁を打つことは、従って、考えることであり、内面を持った一人の主体としての自己を感じ取ることである。私が文章を書き、かつ読むのをやめられないのと同じで、打たない期間が長くなると実存が危ぶまれる。そのように囲碁と絶対に離れられないようになってしまった存在が棋士なのではないかと考えている(もちろん極端な物言いではあるけれど)。

 

 囲碁というのが第一級のヒューマンドラマたる所以がここにある。みっともない碁を打つことは、彼らにとっては彼ら自身の存在が否定されるようなことに通じうる。逆に思いがけない打ち筋は棋理という伝統の上に、現在時を生きる自己が付け加ええた発見で、今自分が生きて碁を打つことの意味の証明に似ている。

 

勝利とプロ棋士の実存的ロマンティシズム

 ところで、文章とは違い、囲碁は勝ち・負けという明確な判断基準がある。いつまでたっても、どこまでいっても勝ち・負けで測られる。それを軽やかに無視してかかることは、無論囲碁に人生をかけた時期のない外野の人間にはいとも簡単なことである。しかし囲碁が自己の形成と分かち難く結びついてしまっているプロ棋士には、それはなかなか難しいのではないか。強い人こそが、多くの金銭を得られ、社会的承認を得られるという限定された環境の中に彼らは生きているからである。夢のある新しい布石は日々研究されているが、常に、「それで勝てるのか?」という問いかけはつきまとってくる

 

 ここからは書く私の願望を少し前に押し出すが、外野にいる身としては、どこまでも貪欲に勝ちを求めるプロの姿を見たい。何歳になっても勝利に恋々として盤外戦にも熱心な、自分こそが一番だと思っているプロの姿を見たい。誰と言わないが、そういう棋士はいる。解説などにおける言葉の端々から自意識過剰さとコンプレックスが垣間見える高齢の棋士はいる。見ていて嫌な気持ちになる。カメラの前だから、それでも相当抑制しているはずなのだ。このような高齢棋士と対局しなければいけないのだから若手は難儀だなと思う。ひたすらに勝ちかと負けか、強いか弱いかで測られてきてしまったから、そうした価値観で人を測ることに何のためらいもない。それが彼らにとって自己を表現する手段なのだし、自己を守る手段でもあるからだ。

 

 自己形成と分かち難く結びついたゲームで勝ちを求めるというのは自分は強い、自分には価値がある、自分が考えることは他の人より深い、という主張と重なる点があるのではないか。別に現実にそうである必要はない。自分というものの相対化を嫌い、世界に対して己を押し出して行くこと。自分には価値がある・意義があると飽くまで抗弁し続けること。その執念と、裏面にある決定的な弱さ(より強い人は必ずいるので、簡単に、誰の目にも明らかな形で弱い側に回りうる)。それは確かにコンテンツになりうると思う。

 

囲碁教育の暴力

 まだ自我が固まっていない子供が、こうした一元的な価値観の律する方向に即応した内面を形成しなければいけないこと。それを考えると、外野の身としては少し身構える。むろんプロ棋士になろうと思うくらいだから抜きんでた才能があり、学び初めはそれを通じて自己の卓越性を世間に示せることが楽しくて楽しくてしようがないだろうし、考える喜びはそれとしてある。間違いなく本人たちは楽しんでそれをやるのだろうし、頻繁に測られるということは、自分の能力に見切りをつける機会が多いということでもある。

 

 囲碁の教育体制だけが暴力的というつもりはなく、私が身構える理由はより一般的に教育の暴力といってしまってもいいかもしれないが、囲碁や将棋の場合極めて低年齢時から、その他の勉強を半ば切り捨てる形で囲碁だけに特化しなければそれなりの実力のあるプロになれないという前提条件があるため、一旦囲碁向けに形成してしまった自己を脱ぎ捨てにくい(そこには社会的・経済的事情も絡む)という意味で他の教育活動と比べて程度の差がありそうな気はする。十五歳までにプロになるのが理想で、プロになるには、平均的に言えば二万時間の勉強が必要(ならしても意味がないかもしれないが一応ならすと、六歳の時から毎日たゆまず六時間以上)という説を耳にすると犠牲にするものの大きさがよくわかる。

 

プロにならなかった場合にありえた自己との関係

 それで、私の関心事はどこにあるのかと言えば、そういった囲碁向けに自己を形式化することから、どうしても漏れ出てしまうプロ棋士の、プロ棋士である前に人間である彼らが持つ固有性との向き合い方。囲碁をもしやらなかったとしてありえた別の可能性と彼らがどのように出会うのかということ。実はすぐそばに居るのに、そう簡単には出会えない、囲碁をやらなかったらありえた自分との直面。そこにはカタルシスがあり、したがってドラマがあるのではないかと考えている。人生の選択肢が最初から限られているからこそ、ちらりちらりと見える、そうでなかった可能性との出会いに強度が生まれる。

 

 たいていの棋士が、囲碁にそれほど熱中していなかったら、プロを目指さなかったら、ありえた自分のことを折に触れて意識するだろう、などというつもりはない。単に、私の想像力がそういうところに伸びてしまうというだけ。しかし、これは別に特異な想像力ではないのではないか。『ヒカルの碁』を例にとるなら、同作中にはプロ棋士になって以降も所属していた部活に顔を出してしまうヒカルの姿が描かれる場面がある。読み手としては、中学の友人たち同士のコミュニティの中で仲良く強くなろうとした時期のヒカルと、プロになり、すっかりそうしたレベルを凌駕して、アマの人たちとして彼らを見るヒカルとの間の視差を意識することになる。

 

 部活動篇を読む中ではドキドキもワクワクもあったはずなのに、自分が過去に抱いたそうした興奮を外から冷静に見てしまう、プロになったヒカルに寄り添う自分を読み手は発見するのではないか。少なくとも私はそうだった。結構面白く部活動篇を読んでいたはずなのに、プロ棋士篇に突入してから部活動篇を振り返ると、どんぐりの背比べみたいなアマ同士の棋力の差を一つの元手とした、院生編に比してずいぶん甘々な戦いをよくもまあ楽しんでいたな、などと感じてしまう。こうした叙述上の仕掛けはそのまま部活に残り続けたらあり得たであろうヒカルの生活と、プロになり学校一般から離れたヒカルとを二重写しにする。そこに、読み手が想像的に参与しうる魅力的な空白が生まれている。フィクションの本領は読み手が想像力を働かせることを通じ、別の世界に参与することを励ますところにあるのではないか。だとすれば、書かれていない事柄こそが重要だと言えよう。

 

 そこで、私が外野から読み手としてかかわり、何らか囲碁について書く際に、囲碁について、プロ棋士という人々について、想像的に参与しうるとっかかりは、囲碁をしなかったならあり得ただろう彼らの姿、ないし囲碁に形式化されきっていない彼らの姿と、プロ棋士としての彼らの姿のずれにある、ということになる。