目をつぶらない

文学を専門とする大学院生の日記です

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 全く眠れないにも関わらず、本を読むことも物を書くこともできない夜行バスの中で、僕は眠るまでの3時間、色々なことを考えていた。それは目の前に唯一明かりとして見える、座席用の小さな天井灯のスイッチ、その光の感じが秋の夕暮れに似ているといった連想ゲームのようなことから、自分の将来についてまで、様々だった。そもそも僕はなにもせずに時間を過ごすことを嫌って、本当はなにかの物事について考えるべき時までやることを見つけてお茶を濁して過ごすことがよくあったから、完全に自分の頭一つで、視覚的娯楽からも聴覚的娯楽からも切り離されて闇に放り出されるということは、半年ぶり、もしかしたら一年ぶりだったかもしれない。

 そのときに考えたことの一つが、自分は何者になるのだろうということだった。こういった問いはあまりにも学生が問う問いとして一般的であったから、僕はその問いを本当に自分で導きだしたのか、それとも倫理や家庭科の教科書の青年期に関する項から言葉を拾って、自分の心の中の漠然とした不安にとりあえずの名前をつけたのか、正直なところよくわからなかった。

 ともかくそれを考えていく内に、僕は自分の思惑通り何かになれることはないし、もっと言えば広い世界の中で僕が他の人以上に誰かに何かを与えたり、どこかの世界で秀でたり、ということはほとんど不可能なことのように思われた。そもそも「自分は何者になるのか」という問いに一般的に含意される、職業だとか、肩書きだとか、社会の中での具体的な位置だとか、そういったものは、僕にはサイコロを振ってたまたま割り当てられるものでしか無いように、本当にそう感じられた。

 例えば就職活動にしても、僕のような文学部で、しかも院に行きたいかもしれないと言っているような人間に関しては、ほとんど行けるところに行くといった形になるだろう。もしかして研究を非常にうまく進められたら、大学に残ることが可能になるかもしれないが、それだって自分に合った分野の研究を自分に一番いい方法で、自分に世話を焼いてくれる教授のもとで進められるかどうか、ほとんど運の世界だと思う。誰がどうみても秀でている人間は別であろうけど、僕はそうではない。

 「将来何になるか」という問い自体が、突き詰めると、将来の自分の社会でのステータスやパラメータを示しているように思われる。そうだとしたら、僕はもしかしたらこういった問い方以外に問える自分というのが存在するのではないかと思って、それを一時間ほど考えていた。本当に不思議な時間だった。僕は長らく経験したことの無いような、不思議な集中力に包まれていて、ほとんどバスに乗っていることを忘れているようであったのだった。

 将来何になるかという問い以外で将来の自分を記述すること、もっと言えば、自己紹介欄でどこの大学か、どこのサークルでどこのゼミか、ということを書かずに、自己を紹介すること、だけど、それは不可能なようだった。

 100年後のことを考えてみた。いくらなんでも自分という存在はなくなっているだろうし、僕の今居る大学もサークルもゼミも消滅しているかもしれない。そのときに僕がそこに存在しないということ、自分の痕跡を残さずに時代の波間に消えること。もしかしたら僕の生きていた熱がほんの少しだけ、あの広大な海、無限に広がる海の一部を暖めるかもしれない。ただしその熱は一瞬後にはなにかの物理法則に乗っ取って拡散してほとんど消滅してしまう。

 僕はそのときにはもうこの世界に存在しないから、そのときのことについてはわからない。世界にその名を刻む文豪は、このことについてどう考えていたのだろう。芥川龍之介芥川賞という名前と彼の生み出した名作の数々で向こう何百年も、日本が失われて世界が消滅するまで、残り続けるだろうと思う。けれども彼の体温を感じて彼と話をすることができる人はもう絶対にこの世に存在しない。彼の作品は、無限のふくらみをもつはずの1894年の歴史の中から、甲午農民戦争だけが教科書に載るように、時代が進むにつれてその時代を象徴する一つの史料のようになっていく。多くの人々が物を書き、そして多くが誰にも顧みられずに捨てられていく。僕のこの文章もサイバースペースの藻くずとなって消える。そしてあとに残るのはたったいくつかの作品、羅生門であったり坊ちゃんであったりする。今であったらなんなのだろう。村上春樹ということになるのだろうか。

 僕が考えていたのは、なにかになりたいという気持ちの方向性は大事であろうが、それによって未来が決まるということはないということだった。確からしく触ることのできるのは常に今であり、それは夜行バスに乗って、退屈しているこの僕だけだった。その僕は天井灯のスイッチを見て、秋の夕暮れみたいだと思った。あまりに退屈だったから自慰をして無理にでも寝てしまおうかとおもった。今が常に真実で、僕はこの世界において、夜行バスで退屈している人として、この場所を占めている、ということ意外に僕を記述することができないように思われた。「未来にこうしたい」という思いは、その思いを今もっている自分が居るということにおいて、その今の延長により、力を持ってくるのだろう。

 もしか変なことを書いているかもしれないが、こんなブログに真面目に突っ込まなくてもいいと思う。

 小さい頃から僕は自分が何か歴史に名を残す存在としてありたいという希望を持っていた。これもまた、全く以て凡庸な考え方だと思う。しかし、僕が歴史に名を残そうが残すまいが、僕が今、この時代に、この社会で、存在しており、存在するということはある一定の場所を占めており、そして熱を持っており、放出しているということ以上に重要なことはなかった。そこまで考えて、僕はなにか社会に見られている、名付けられているという感覚に一矢報いたような、具体的には僕を見ている相手を見返してやったような気がしたのだった。本当に変な感覚だったと思う。

 僕が僕の尊厳を奪うようなあらゆる言葉やあらゆる暴力で損なわれたとしても、また、焼けるような嫉妬や、どうしても敵わない存在の出現に絶望にくれる感情を抱き、粉々になってしまったとしても、そこには少なくとも一つの抵抗のよりどころ、すなわち、僕という存在が、そこに実際確かな質量を持って存在しており、その物質を無かったことにはできないという、その物質的感覚に根ざすよりどころがあるのだった。それに僕は長いこと気づかずに、頭の中ばかりで物を考えていた気がする。

 殺人事件では死体の処理がもっとも面倒なこととして挙げられる。ある者はそれを海に沈め、ある者は焼き、ある者はばらばらに切って細かくちぎって捨てる。犯人が逮捕される原因のほとんどは死体が犯人を指し示す証拠を持っているからである。ゲームだと死んだ人間は消えるが、これは実は著しくリアリティに欠ける現象だと言わねばならない。

 死体という物質に火葬を施し、丁寧に骨壺に入れ、その上に石を立てて念に一度お参りに行く、ということが一般に行われている。それがその人がかつてこの世に存在し、そして今もその痕跡が残るということの一つの象徴であり、それほどまでに身体という物質は消し去ることが難しい。同様に、繰り返すが、僕がこれからどんな生き方をしようと、僕がこの時代を生きて、ある一定の場所を占めた、それはどんな存在が僕をつぶしにかかろうと、どんな時代の大波が、僕という存在を相対的に卑小なものに見せようと、かけがえのない事実であり、それをなかったことにはできない。

 夜行バスで僕がたどり着いた上記のような考えは、社会学や哲学の分野で近年盛んに論じられていると聞いているが、僕はそれを確かなリアリティとともに感じたのだった。