SUMMERY

目をつぶらない

滑らかに生きたい。明晰に生きたい。方途を探っています。

私の目に見えるこの頃の囲碁界

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 なんだかいろいろなことで忙しくってなかなか……。以下、仕事のことは置いといて、私生活の話だけするけど、次々に細かな締め切りがやってくる。失敗すると首をとられるというような性質のことではないので気楽は気楽なのだが、それゆえに、どこまで気合を入れてやるべきかよくわからず、ぼうっとしているといつの間にか回らなくなる直前の状態に置かれている。おっとっとと体勢を立て直し、全部整理し、眠れない夜を過ごして乗り切ると、それによって気が抜けてしまい二日くらい腑抜けたような状態になる。そしてまた、どれくらい本気でやるべきか、と自問する数日があって、気づくと締め切り直前。馬鹿だなあ……。

 

 相変わらず囲碁に関心を抱き続けている。最近打つことも増えてきた。思えば囲碁に出会って「しまった」のは昨年の12月。これで一年か。打つのが楽しくなってきたのはここ最近。それまでは全然よくわからなかったし全く勝てなかった。今も、細かな筋や詰碁の勉強は本当にたまにしかする気が起きない(二か月に一回くらい無性にやりたくなって3時間ずつ二日くらいやって飽きて放り出す)ので、すぐにどこかで頭打ちになるのだろうが、それはそれとして対局が割と楽しい。棋力は……8級くらい? この一年で何百戦と観戦をしてきたので、プロが何にこだわって大体何をしているのかがわかるようになってきた。「利かし」「味」なる概念も何となくわかってきた。結局のところは、(1)どこに石を置いたらどんな帰結になるか読む(2)読み切った図でこちらが有利になっているのかを判断する、の繰り返し。(1)は頭の中に碁盤を作れるプロなら大体できるが、短い時間の中でどれだけできるかには個人差あり。(2)は自分の中に明確な判断基準を持たなければならないためなかなか高度。しかし最善の手を打つならどういう風な配置にしかなりえない((1)に関わる)、どんな配置ならどっちが有利になる((2)に関わる)、というのが知見として積み重なっているので、これをひたすら飲み込むことが必要。それにより持ち時間を節約できるし、学習の過程で自分なりの見方を確立することができる……。

 

 というゲームで、観戦していて何が面白いのかというと、相手よりも頭の良い手を打った時の棋士の満足げな表情や手さばき、それがそうではなかったと気づかされた時の狼狽等々、要するに人間のありさまである。それは、死力を尽くし、ぎりぎりのところで戦う人間のドラマが見たい、という気持ちにこたえてくれる。碁自体には正直何も意味はないと思うけれど、それを手段として生み出されるドラマは活力を与えてくれる。ただし、ドラマを生み出す棋士自体に関心がない場合、または、そもそもどんな局面でどっちがどんなピンチを迎えているかわからない場合には楽しめない。ここが要するにプロモーションの腕の見せ所なのだがそもそもが難しいゲームだということもあり、プロ棋士制度を運営する日本棋院は現状なかなかうまく情報発信出来ていない印象。ツイッターYouTubeも正直素人くさくかゆいところに手が届かない。

 ただ、私の中での〈良い情報発信〉の像はおそらく大手広告代理店に相当程度規定されており、そういう代理店を通さずに興行主と熱心な囲碁ファンが互いにキャッチボールしあいながら団体のありようを外に開いていく、ということは当然それはそれでいいことだと思うのでそっちの道を目指してほしい(……なんて言ってるけど、日本棋院もやっぱり広告代理店通しているのかなあ……。通していてこれならまずい。日本棋院が、というよりは広告代理店が)

 今囲碁界は大航海時代ならぬ大YouTube進出時代を迎えていて、様々な囲碁棋士が自分自身のやり方で囲碁ファンを増やそうと種々の企画を行っている。入門動画なんて腐るほどあるし、対局動画、中級くらいの詰碁・手筋の解説、一般の囲碁アプリに一ユーザーとして参加してアマチュアをなぎ倒しまくる動画などもある。正直、誰が見るのこれと思われるようなものも多いが、もとよりYouTubeなんてそんなもの。

 ほほえましいのは、皆結局最後には囲碁に帰結すること。「コロナに打ち勝て!」と言っては囲碁を打ち、「医療従事者に感謝!」と言っては連碁をし。後者の企画は医療従事者への感謝の気持ちをプロ棋士数十人が一人一人表明しつつ一手ずつ打ち、最後にはハートの形の抜き跡(石をとったあとの場所のこと)があらわれるというもの。いや、この動画医療従事者の力にはならないでしょとも思うのだけれど、ともかく囲碁しかできないから囲碁でなにかするしかないんだ、という意志を感じる。それにしても、コロナ下で沈滞する人々を元気にするために公演をします、と言って歌舞伎の特別公演が行われるのならわかる気がするし、災害時にも決して衰えない文化の力!とか思ってしまいそうになるのに、囲碁を打ちます、になると途端に滑稽な気がしてしまうのは、単に私がにわか者だから、というわけでもない気がする。そもそも囲碁は打っている人たちが打っているところを見せるための努力をしているわけではない。歌舞伎や能は公演だからもちろんどう見せるかが重要で、演者は常にそれを考えているが囲碁はそうではない。では見せることを誰が主に考えてきたかというと、プロ棋士の周りにいる人たち、ということになるのではないかと思う。特に棋戦を主催する新聞社など。棋士は要するに、囲碁にだけ集中していればよかった。しかしそうではなくなったのが昨今。もちろん超トップについては事情が別で、最強クラスにいられるのなら自分の碁を誰か偉い人が解説してくれるのでどう見せるのかなど考える必要もないのだが、それ以外は見せ方を考えなければいけなくなった。最近YouTubeで視聴者数を稼いでいるのはプロ棋士が、自分の考えていることを口に出しながら行う早碁で、要するにこれは、まさに見せることを意識した打ち方であると言える。

 プロ棋士としては、碁の見せ方を考えるよりも良い碁を打つことに集中したいというのが本音だろうと思う。わき目もふらず盤面だけをみていられたらどれだけいいことかと特に伸び盛りの、10代後半あたりの棋士たちは思うだろう。実際伸び盛りはそれでいいと思う。が、本当に強くなれない限りはどこかで見せ方を考える方にシフトせざるを得なくなる。

 

 今、私の見る限り、最年少で名人位を獲得した芝野虎丸さん以降突出した人材が出ていない。明らかに周囲より抜きんでている人がいないのだ。もちろん序列づけされる世界だからトップは決まる。芝野さん(+大西さん)以降でトップは現在までのところ広瀬優一さん。しかし広瀬さんは先行世代をばっさばっさとなぎ倒しまくるというほどではない。

 もう少し低年齢で行くと、トップは酒井佑規さん(?)。しかし酒井さんも圧倒的ではない。三浦太郎さんとか福岡航太朗さんとか近い棋力の人はいる。そしてこの三人は、しかしやはり、突出して強いというわけではない。これくらいはままいる、という感じ。一力さん、許さん、芝野さんがデビュー直後から圧倒的な成績を収めていたことを考えると、やはりおよばない。もちろんこつこつ勉強を続けて強くなるとは思う。ただ、それでもうまくいって10~20位なのではないか。プロ棋士が最も伸びるのは10代後半。見ていると、伸びる人は16歳時の順位をその1/4まで詰めることができる(本当にうまくいく人は、さらに詰められるが例外だと思うのでいったん括弧でくくる)。たとえば16歳時に100位の人は25位くらいまで、うまくいくと10代後半で到達できる。

 ……これはすなわち、20でタイトルをとろうとすると、16歳時に40位未満くらいまで到達している必要があるということになる。が、上記の人たちはおそらくそこまでいかない。こつこつ勉強を重ね、タイトルに手が届くこともあるかもしれないが、はっきり囲碁界のトップに立つというところまではいかないだろう。

 碁の世界を見ていると数年に一人くらい逸材が出る。次の逸材は誰だろう。まだ出てきていない気がする。一力さんも芝野さんも院生時代からAIを盛んに駆使していたのではないのに、デビュー直後から突出しているのだから、強い人は最初から全然違うということなのだろうそういう人材が出てくると沸き立つなあと思うこの頃。

 

 

ハクの名前が「コハクヌシ」になるまで:『千と千尋の神隠し』における「本当の名」の真実味について

 

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 久しぶりの更新。油断していると日々があっという間に過ぎていく。 

 さて、現在、「一生に一度は、映画館でジブリを。」という標語のもと、スタジオジブリ四作品が映画館で上映されている。

 

www.ghibli.jp

 

 以下に貼り付ける過去記事で書いたように千尋と同じ年に『千と千尋の神隠し』を観たことが私に与えた影響は大きく、「ジブリが好きです」ということに小恥ずかしさを覚えながらもいまだにアニメ映画で自分の最高のお気に入りは同作である。

 

summery.hatenablog.com

 

summery.hatenablog.com

 

 108円払えば家の近くのGEOで借りられるところではあるのだが、1000円以上支払い、かつ池袋まで繰り出して、昨日映画館で同作を観てきた。世の中に素晴らしい映画というのはいくつもあるのだから、可能ならばまだ出会っていない作品たちに食指を伸ばしたい。そのため、いつも「『千と千尋』はこれで最後にしよう」と決意を固めて観始めるのだが、毎回どこかでそれまでに着目してこなかった重要な要素に気づいてしまい、「今度また観よう」と思うに至る。作品に関わって次回もまた新たに自己変容がありうるという明るい感覚を、毎回のように得てしまう。私が作品に固執しているというより作品が私をなかなか放してくれないような気がしている。

 

スクリーンの向こう側に行きたい

 私は気に入った作品にはとことん没入してしまう性格である。特に思春期まではこの傾向が顕著で、惹きつけられる作品を前にするとその後数日から長ければ数週間「どうしてあの映画の中の世界に生きていないで、スクリーンのこちら側で観ているのが私なのだろう」という疑問を抱きながら暮らした。自分の世界を否定しようとする方向性をはらむのでこうした感覚は一面辛くて悲壮なものだった。そうした感覚からある程度距離をとることができるようになってのちも、油断するとスクリーンの向こう側にいない自分を悲嘆する気持ちはたまに湧き上がった。

 しかし最近の私—スクリーンのこちら側のアラサーの私—はいかにも幼いそうした感情から、やっと少しずつ脱却し始めている。どうしてそれが可能になり始めているのかというと、見かけ上のいかにもファンタジカルな世界観を剥ぎ取れば、多くの作品世界は案外と、私の日常生活に当たり前に潜むものの延長上に構成されている気がしてきたから。慎重に耳をすませば何かその世界、ないしその世界を孵卵する想像力のトポスに近づきうる気がしたから。

 どういうことか。それに直接通じるかわからないが、通じることを祈りつつ、今日はまた一つ見いだした『千と千尋』という作品の可能性について書く。

 

名を取り戻すクライマックス

 作品情報についてはwikipediaが充実しているのでそちらに譲る。

千と千尋の神隠し - Wikipedia

 私はこの記事で、リンク先wikipedia記事で述べられているあらすじのうち以下の引用部について、やや突飛と思われるだろう解釈を提案したい。

ハクは、坊を連れ戻してくることを条件に、千尋と両親を解放するよう約束を迫り、帰る手段のなかった千尋を迎えに行く。ハクは銭婆から許され、千尋と共に油屋へ帰る。その途中で、千尋は自分が幼いころに落ちた「川」がハクの正体であることに気づく。幼いころハクの中で溺れそうになったとき、ハクは千尋を浅瀬に運び、助けあげた。千尋がハクの名前に気づくと、ハクも自分の名前を取り戻す。 

 まずはこの部分を皮切りに本作の名という主題について触れる。

 ハクが「名前を取り戻す」に至る場面で千尋は「私が落ちた川は、コハク川。あなたの名前はコハク川」とハクに告げる。その瞬間に魔法が解けるようにして、龍の姿をとっていたハクは人間の姿になる。龍の姿が強いられていた姿というわけではなく、むしろそちらが真の姿であるため、ここは呪縛から逃れたことを示す描写ではない。

 作中で、龍の姿をしている時のハクは、人間の言葉を話さない。その立ち居振る舞いや感情表現についても動物としてのそれそのものである。人間のハクと動物のハクとは少なくとも『千と千尋』においてははっきり描き分けられている。したがって本当の名を思い出した時のハクの変身については、本当の名についてどうしても千尋と話をしたいがため、一旦人間の姿をとったと解するのが妥当だろう。

 この場面で、ハクは自分の名につき、はっきりと「私の本当の名はニギハヤミコハクヌシだ」と述べる。このシーンの重要性は、湯婆婆の魔法との関わりから捉えられる。湯屋の主である湯婆婆は名を奪うことで対象となる存在を自分の従属化におく。名を奪われた存在は本当の名を忘れてしまう。ハクもまた、本当の名を忘れていたが、それを思い出すことができた。そしてそれによって、湯婆婆の支配から逃れ、文字通り死ぬまでこき使われている状況を打開することができる確信を得るのである。

 名を握られることが実際にどのような力を対象となる存在に及ぼすのか、それを取り戻すことはいかなる力を得ることなのか、作中で明示されていない。千は千尋という本当の名を知っているが、それによって何が可能になっているのかはわからない。千が自分の本当の名を釜爺や銭婆に伝える場面では「千尋……良い名だねえ。自分の名を大事にね」(銭婆)などと言葉がけを受けるのみだ。こうした箇所を鑑みるに、本当の名の力とは、どうやら、搾取される労働者としての自分とは別の自分がおり、別の人間同士の関係の中で生きていることそれ自体にかかわっている。「千」は仮の姿で、本当は「千尋」という一個の人間としてあること。もう一人の真の自分=千尋がいて、千が当たり前のように甘受していることを実は許していないし、そうした自分のありようを承認する人々がいること。こうした主体の複数性が一方で辛く苦しい状況にいる自己を支える、抵抗の拠り所なのであろう。

 

ハクの本当の名は本当に「コハクヌシ」だったのか

 さて本題に入るのだが、この場面を今回観て抱いてしまったのは「ハクの「本当の名」は、「コハクヌシ」だったのか?」という疑問である。

 誤解を避けるため先に言っておくが、あきらかに、そうであると解釈するように映画は要請しているようにみえる。それを私は否定するつもりはない。しかし細かく観て行くと、以下の理由から、「コハクヌシ」が本当の名であると言い切れないように描かれていることもまた事実である。

 

①単純な事実として、ハクの本当の名が「コハクヌシ」である証拠がない。これは、千の名が千尋であることが、たまたま現実から持ってきていた友達からの手紙で客観的に証されているのとは対照的。

千尋がハクの名として「コハク川」を提示するときの根拠は、小さい頃にコハク川という川で溺れそうになった記憶である。しかし直前で千尋は、幼い頃自分が川に落ちたことは忘れていて、あとから母親に聞いてその事実を知ったと述べている。どうやら映画中の描写から、映画内現在時に千尋はそのころのことを思い出しつつあるようだが、少なくともこの記憶が、自分自身の記憶ではなく、母を介して与えられていることには注意が必要。

 

 私が重視したいのは、ハクの本当の名が「コハク川」から導き出された「コハクヌシ」でなかった可能性が捨てきれないように描写されていることの意味である。そしてこれは映画の瑕疵でなく、映画の魅力を高める要素であり、フィクションとしてのこの映画の可能性と関わるのではないかと考える。どういうことか。以下、説明を加えていきたい。

 

そもそも「本当の名」の本当たるゆえんとは

 コハクがハクの本当の名でなかったとしたらどうなるだろうか。それを考えるにあたってまず問うべきは「「本当の名」とは何か?」ということだ。以下、本当の名が本当たるゆえんを「真実味」と呼ぶことにして検討する。

 「本当の名」と言われるとき、通常思い浮かべるのは、生まれた時、親なり他の誰かなりからもらった名だろう。以下、これを「本当の名*」と呼びたい。本当の名*の判断の基準となるのは過去に与えられたはずの名前と合っているか合っていないかという点だ。これは、何らかの証拠があれば白黒はっきりつく形で証明される。そうした形での真実味を「実証的真実味」と呼ぶことにしたい。本当の名*の真実味は実証的真実味ということになる。

 しかし、すぐに、生まれた時に与えられた名であれば、それは本当の名と呼んでよいのかという疑問が浮かぶだろう。たとえば、記憶以前に自分に対して用いられていた名前(本当の名*)があり、それがやはり記憶以前の段階で取り替えられたとしよう。この時、物心つく前に使われていた名前を本当の名と呼んでしまうことには違和感を覚えないだろうか。

 これは、「本当の名」の真実味とは何か、という問いである。元も子もないことであるが、本当の名の真実味は、それが本当の名だとつけられた本人が納得することの中にあるはずだ。これを以下「本人了解的真実味」と呼びたい。

 

千尋による命名の重視

 先に述べたように、ハクの本当の名が「コハクヌシ」であることについて、実証的真実味は担保されていない。あえて言えば、ハク自身が「思い出した」と述べていることが証拠になるかもしれないが、実はこの部分も少し怪しいように描かれている。というのも、ハクは千尋が「その川の名は……その川はね、コハク川」と言った時点では平然としており、何も思い出していないように見受けられるからだ。ハクが何かにはっと気づいたような顔をするのは、その直後の「あなたの本当の名は、コハク川」という千尋による命名である。

 このシーンからは、「コハク川」を本当の名であると千尋指定されたこと自体が重要ととらえられる。もとより湯婆婆の魔法は本当の名を忘れさせてしまうように、記憶の領域に及んでいる。このことを重視するなら、作中での記憶一般は全体として眉唾のものと言わざるを得ない。千尋の両親に至っては人間だったころの記憶すべてを奪われてしまっている。ハクが本当の名を思い出したと言っても、それは本当に信じられるものか疑問符が付く(ように描かれている)。

 しかし、ここで確実なのは、もう一つの真実味。すなわち本人了解的真実味の方だ。こちらは疑う余地がない。ハクは「コハクヌシ」が「本当の名」だとはっきり了解し、宣言している。そして先にみたように、この了解を得るに至るには、千尋によってその名が与えられたという点が重要だったように描かれている。どのようにして本当の名を本当の名と了解するか。その仕方は個々人によって当然異なるが、作品中で重要視されているのは千尋によって命名されたという事実。すなわち、千尋との関係性である。

 

「コハクヌシ」という名が「本当の名」になるまでの過程を描いた物語

 「コハク川」という名前は不確かな記憶から千尋という「愛」(釜爺)を結ぶ関係にある他者が提示してくれた名であった。幼少期にこの川に落ちたものの、辛くも生還した千尋にとって、「コハク川」は、その体験自体をはっきり覚えていなくとも、生死の境からの生還という特別な記憶が刻み付けられた特権的な名詞である。その名をハクに結び付け、川がハクだったとすることは、自分の今ある生を、ハクに負うものとすることで、ハク-千尋関係をかけがえのないものとする役割を果たす。

 ここにははっきり名付ける側の、名付けられる対象との関係性構築に向けた意志・祈りが託されている。ハクが本当に思い出したかは定かではない。それは鑑賞者にはわからないし、前述のように、疑問符がつくところである。しかし、なににまれ、ハクはその名前を「本当の名」として引き受けることにより、(1)自分を、千尋を生かした存在へと変える。と同時に、本当の名を獲得することはハクにとって、死の危険すら伴う湯婆婆への隷属から抜け出すきっかけとなるのだから、そのきっかけを与えてくれた存在として千尋を位置づけることで、(2)千尋を、自分を生かした存在へと変える。(1)と(2)の作用を同時に持つ本当の名の引き受け行為、すなわち、「私の本当の名は…」という宣言は、二人の間に相互にケアしあう、かけがえのない関係性がありえたことを承認し、それをこれからの関係として引き受けることの宣言である。

 このようにもし、「コハク川」が本当の名*でなかったとしても、それゆえにこそむしろ、その真実味の意味—二人の関係構築への意志—は高まる筋書きとなっている。改めて言い換えるのなら、本当の名の本人了解的真実味を構築するのは、ハクが千尋との相互主観的なやり取りの中から、自分にとって本当の名だと思われる名前を掴み取る過程そのものであるのだ。傍にある他者と共有できる自分にとっての本当の名を掴み取ることの持つ力。もしそれが実証的真実味を持たないとしても、そのことが何か本当の名の真実味(=ここでは本人了解的真実味)を大きく毀損するだろうか。

   ハクにとっての本当の名の真実味を、安易に実証的真実味に帰結させずに、本人了解的真実味に求め、そこに千尋との関係性を結びつけること。そこにこの作品の第一級の仕掛けがあると思われる。    

 

千と千尋』のフィクショナリティ

 「コハクヌシ」という名前が真の名前かどうか曖昧に捉えられるように描かれているところに、本当の名の真実味の内実をめぐる物語が読み取れるのではないかと述べてきた。既述のとおり、ハクの本当の名が「コハクヌシ」であるのかという点は実は曖昧に描かれているものの、鑑賞者がそれを本当の名だと納得できるとしたら、それはハクと千尋との関係、すなわち、ハクが了解的真実味を感得し、「私の本当の名は……」と語り始めるまでの過程を観た鑑賞者がハクの了解的真実味を追体験しているからに他ならない。

 そうした鑑賞者にとって、映画は自然次の一連の問いを発していることになるだろう。すなわち、あなたが真実だと信じていることの真実味はどこにあるのか? あなたはどんな過程を踏んで、それを真実だと思うに至ったか? ある時それが真実ではないと証拠とともに突きつけられた時、その自分にとっての真実味を擁護できるか? 

 いつか本当の名が「コハクヌシ」でないという事実をもし突きつけられたとしても、ハクは最終的には「いや、それが自分にとっての本当の名だ」と言い返すのではないだろうか? 千尋もまた、同様のことを言うのではないか。 その人が生きてきた過程で他者との間に作り出してきた、その人にとっての真実味(本人了解的真実味)を擁護すること。そのことが世界の理(=湯婆婆の支配)から逃れるほどに大きな力を持つ世界があるとしたら、そこはおそらく、一人一人にとって大事なものが正当に大事なものとして尊重され、それゆえにより多くの人が生きられる世界であるはずだ。

 現実世界では軽視されているにも関わらず、誰もが、より重視され・より力をもってしかるべきものだと考えているもの(ここでは、他者との相互主観的なやりとりの中で紡がれる、その人にとっての名の了解的真実味)が、正当に力を持つこと。それがもし『千と千尋』というフィクションの核心にあるのだとすれば、私たちはそのフィクションに通じるものを容易に現実に見出せると思う。なぜなら周囲の他者が抱える、その人にとっての真実味に支えられた認識が、否定されるかもしれないという恐れとともに、口に出されることは日常生活ではよくあるからだ。「私にとっての真実はこれです」という声に裏打ちされつつ差し出される他人の認識を実証性で裁断するのではなく、それが生まれてくる過程を辿って擁護できた時、スクリーンの中の世界は思いがけず近くにあるのではないか。

 ……ということで、最初に書いた気づき、すなわち、「多くの作品世界は案外と、私の日常生活に当たり前に潜むものの延長上に構成されている気がしてきた」というところに何とかつなげることができて安心した。

 

フィクションの本領

 フィクションの本領とは、その提示する他なる世界が観るものにとって生きられる世界であることを鑑賞者に納得させ、鑑賞者を別の世界へと連れて行くことである。鑑賞者は、千尋とハクとの関係の中で「コハクヌシ」という名が浮かび上がって行く過程にこそ真実味を感得するのであり、その実証的な真実味は二の次だ。というか、それにこだわることはフィクションの役割ではない。フィクションとはそもそも、虚構なのだから。『千と千尋』にみられるのは、そうしたフィクションの役割へのほとんど節操ないと思われるまでの信頼で、この毒気に中てられた私が結局今フィクションを研究したり、書いたりしているのは必然だった気もする……もちろん、これだけがきっかけだったというつもりはないけれど。

 

 以上論じてきたことは突飛な解釈の可能性をスタート地点としているのでアラサー男の懐古趣味に裏打ちされた痛い「妄想」に聞こえるかもしれないが、私としては、作品が鑑賞者である私に必然的に喚起する「想像」なのではないかと考えている。

 妄想と想像の違いについて、柳田国男は、想像には現実に根ざした根拠があると述べている。ここまで述べてきた私の考えは作品という現実の所産に根を持つと言う意味で妄想ではない……はずだと思う。ともかく、まだまだこの作品に私はけりをつけられそうにない。

 

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前の職場を退職して四ヶ月、囲碁について考えたり書いたりし続けた理由:プロ棋士の自己形成・もう一人の自分

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 あっという間の四ヶ月間

 六月になった。前の仕事を辞めたのが一月の終わりだったのであっという間に四ヶ月。最初の職場で新入社員をしていた頃は入社後四ヶ月がなかなか長かったような気もしたけれど、今回はあっという間だった。

 現実からそれほど外さずに、しかし適宜改変して書きますが、まず二月は前の職場の有休消化期間。サラリーマンであることを一時的にでも辞めるというのはこれほど解放感があるのかと驚き、かつ院生時代には当たり前だった、時間を自由に使える日々が愛おしくて仕方がなかった。

 

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 この一ヶ月は机に向かってひたすらに小説を書いていた。お昼頃に起きて三時頃に寝るという生活。その頃は、これが私の真の生活リズムだったんだな、朝起きて昼仕事するなんて無理してたな、と思ったのだけれど、社会人生活がリスタートして三ヶ月経った今では、「真の生活リズム」をどんな調子で維持していたのかすっかり忘れている。二三時くらいから少しずつ眠くなり、朝は六時前に目がさめる。昼寝を前提として、夜寝が短くなっているが会社のお昼休みにはなかなか眠ることはできないのでやや頭がぼんやりする日々。

 

 それから、三月に入社して一ヶ月半は職場で働いたがコロナ禍により四月の半ばから五月終わりまでは大体在宅勤務。ずっと家にいなければならないという状況は辛さもあったけれど、安い材料を使い短時間で栄養バランスの良い食事を作ることができるようになったり、部屋の片付けをある程度習慣化できたりと悪いことばかりでもなかった。Zoomは何度か使ったが本当に嫌い。そんなに相手の顔ばかりまじまじと見たくないし、集団会話もやりづらかった。現実の飲み会だと隣の人とだけ話して盛り上がり、それを皮切りに向こうの人を巻き込んでいく、ということができるが、Zoomだとできないからなあ……。

 

囲碁について考え、かつ書いていた

 この間、書いている小説にも関わって、常に考えてきたのは囲碁のことと囲碁教育のこと。囲碁については一旦調べたこと、考えたことを先日まとめた。すでに「つたないな」と思われる部分が散見される。過去の自分が急速に〈愚かな他者〉化する。

 

 完成した思考のみ世に出そうと思うとブログなどやっていられない。品質の保証された内容を発信することと、垂れ流すことの間くらいでやっていきたい。なので消すつもりはないが、アップデートはするかもしれない。

 

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 ところで、上記二記事を書き終えても自分が囲碁の何に関心を持っているのか実はいまいちわからなかったが少しずつ明らかになってきたことがある。それは、曖昧な心的領野が一つの方向に向かって秩序立てられることで生まれる、ある程度強度を持った形式に関心があるということ。この形式をここでは便宜上「内面」という言葉で示します(ファジーに使います)。

 上の囲碁界についての記事を書いた後、自分が何に関心を持っているのか手探りをするために、以下二つの記事を書いたのですが、そこから少し考えが進んだ結果を「内面」にかかわらせつつ、これから書きます。

 

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囲碁と内面

 たとえば子供が囲碁を習得し、だんだんとそれを真剣に勉強するに至る過程を考えてみる。あちこちに引かれていた注意が盤上の石の動きに集約されるようになる。学びを進めるにつれ、操作的なところのある囲碁については特に、いくつかの手筋やよい石の形が刷り込まれる。自然と重要な部分に目も手もいくようになり、簡単な部分で頭を働かせなくてよくなる。すると、さらに注意を向ける幅が制限され、その分思考は深まる。この繰り返しにより、曖昧だった心的領域が注意を向ける対象と不可分な形で固まって行く。考えることとは、考慮に入れるべき対象が処理可能なくらい十分に絞られており、かつ明確な目標設定(問い)があって初めて可能になる。囲碁の知育具たる所以はこのように、それとの相互作用の中において考えるということを可能にするところにある。

 

 一旦考えることを学ぶと自分で対象を絞って目標を設定してさらに考えるようになる。外からは見えないが、その人の中では何かの考えが進む。自律的に問いを立て、深め、さらに問いを立てるという形で思考の深みにはまりこんでいき、かつそれが時折、石の並びの形で表現されるのであれば、外からは、内面がそこにある、という気がする。棋譜はこの時、内面のメディアとなる。

 

 理論を学べば学ぶほど、棋士の打ち筋のうち、理論(当然の打ち筋=棋理)から逸脱する部分をピックアップできるようになる。その部分は、棋士の固有性の発露ということになる。棋譜はそのように棋士の身体性、感情、時々の判断が織り込まれたテクストとしてある。

 

囲碁はプロ棋士の一部

 彼らは物心つく前から囲碁を打っており、彼らの思考力は如上のとおり、その形成からし囲碁と切り離せない。とすれば、棋譜には彼ら自身の内面が凝縮されて現れている。彼らにとって囲碁を打つことは、従って、考えることであり、内面を持った一人の主体としての自己を感じ取ることである。私が文章を書き、かつ読むのをやめられないのと同じで、打たない期間が長くなると実存が危ぶまれる。そのように囲碁と絶対に離れられないようになってしまった存在が棋士なのではないかと考えている(もちろん極端な物言いではあるけれど)。

 

 囲碁というのが第一級のヒューマンドラマたる所以がここにある。みっともない碁を打つことは、彼らにとっては彼ら自身の存在が否定されるようなことに通じうる。逆に思いがけない打ち筋は棋理という伝統の上に、現在時を生きる自己が付け加ええた発見で、今自分が生きて碁を打つことの意味の証明に似ている。

 

勝利とプロ棋士の実存的ロマンティシズム

 ところで、文章とは違い、囲碁は勝ち・負けという明確な判断基準がある。いつまでたっても、どこまでいっても勝ち・負けで測られる。それを軽やかに無視してかかることは、無論囲碁に人生をかけた時期のない外野の人間にはいとも簡単なことである。しかし囲碁が自己の形成と分かち難く結びついてしまっているプロ棋士には、それはなかなか難しいのではないか。強い人こそが、多くの金銭を得られ、社会的承認を得られるという限定された環境の中に彼らは生きているからである。夢のある新しい布石は日々研究されているが、常に、「それで勝てるのか?」という問いかけはつきまとってくる

 

 ここからは書く私の願望を少し前に押し出すが、外野にいる身としては、どこまでも貪欲に勝ちを求めるプロの姿を見たい。何歳になっても勝利に恋々として盤外戦にも熱心な、自分こそが一番だと思っているプロの姿を見たい。誰と言わないが、そういう棋士はいる。解説などにおける言葉の端々から自意識過剰さとコンプレックスが垣間見える高齢の棋士はいる。見ていて嫌な気持ちになる。カメラの前だから、それでも相当抑制しているはずなのだ。このような高齢棋士と対局しなければいけないのだから若手は難儀だなと思う。ひたすらに勝ちかと負けか、強いか弱いかで測られてきてしまったから、そうした価値観で人を測ることに何のためらいもない。それが彼らにとって自己を表現する手段なのだし、自己を守る手段でもあるからだ。

 

 自己形成と分かち難く結びついたゲームで勝ちを求めるというのは自分は強い、自分には価値がある、自分が考えることは他の人より深い、という主張と重なる点があるのではないか。別に現実にそうである必要はない。自分というものの相対化を嫌い、世界に対して己を押し出して行くこと。自分には価値がある・意義があると飽くまで抗弁し続けること。その執念と、裏面にある決定的な弱さ(より強い人は必ずいるので、簡単に、誰の目にも明らかな形で弱い側に回りうる)。それは確かにコンテンツになりうると思う。

 

囲碁教育の暴力

 まだ自我が固まっていない子供が、こうした一元的な価値観の律する方向に即応した内面を形成しなければいけないこと。それを考えると、外野の身としては少し身構える。むろんプロ棋士になろうと思うくらいだから抜きんでた才能があり、学び初めはそれを通じて自己の卓越性を世間に示せることが楽しくて楽しくてしようがないだろうし、考える喜びはそれとしてある。間違いなく本人たちは楽しんでそれをやるのだろうし、頻繁に測られるということは、自分の能力に見切りをつける機会が多いということでもある。

 

 囲碁の教育体制だけが暴力的というつもりはなく、私が身構える理由はより一般的に教育の暴力といってしまってもいいかもしれないが、囲碁や将棋の場合極めて低年齢時から、その他の勉強を半ば切り捨てる形で囲碁だけに特化しなければそれなりの実力のあるプロになれないという前提条件があるため、一旦囲碁向けに形成してしまった自己を脱ぎ捨てにくい(そこには社会的・経済的事情も絡む)という意味で他の教育活動と比べて程度の差がありそうな気はする。十五歳までにプロになるのが理想で、プロになるには、平均的に言えば二万時間の勉強が必要(ならしても意味がないかもしれないが一応ならすと、六歳の時から毎日たゆまず六時間以上)という説を耳にすると犠牲にするものの大きさがよくわかる。

 

プロにならなかった場合にありえた自己との関係

 それで、私の関心事はどこにあるのかと言えば、そういった囲碁向けに自己を形式化することから、どうしても漏れ出てしまうプロ棋士の、プロ棋士である前に人間である彼らが持つ固有性との向き合い方。囲碁をもしやらなかったとしてありえた別の可能性と彼らがどのように出会うのかということ。実はすぐそばに居るのに、そう簡単には出会えない、囲碁をやらなかったらありえた自分との直面。そこにはカタルシスがあり、したがってドラマがあるのではないかと考えている。人生の選択肢が最初から限られているからこそ、ちらりちらりと見える、そうでなかった可能性との出会いに強度が生まれる。

 

 たいていの棋士が、囲碁にそれほど熱中していなかったら、プロを目指さなかったら、ありえた自分のことを折に触れて意識するだろう、などというつもりはない。単に、私の想像力がそういうところに伸びてしまうというだけ。しかし、これは別に特異な想像力ではないのではないか。『ヒカルの碁』を例にとるなら、同作中にはプロ棋士になって以降も所属していた部活に顔を出してしまうヒカルの姿が描かれる場面がある。読み手としては、中学の友人たち同士のコミュニティの中で仲良く強くなろうとした時期のヒカルと、プロになり、すっかりそうしたレベルを凌駕して、アマの人たちとして彼らを見るヒカルとの間の視差を意識することになる。

 

 部活動篇を読む中ではドキドキもワクワクもあったはずなのに、自分が過去に抱いたそうした興奮を外から冷静に見てしまう、プロになったヒカルに寄り添う自分を読み手は発見するのではないか。少なくとも私はそうだった。結構面白く部活動篇を読んでいたはずなのに、プロ棋士篇に突入してから部活動篇を振り返ると、どんぐりの背比べみたいなアマ同士の棋力の差を一つの元手とした、院生編に比してずいぶん甘々な戦いをよくもまあ楽しんでいたな、などと感じてしまう。こうした叙述上の仕掛けはそのまま部活に残り続けたらあり得たであろうヒカルの生活と、プロになり学校一般から離れたヒカルとを二重写しにする。そこに、読み手が想像的に参与しうる魅力的な空白が生まれている。フィクションの本領は読み手が想像力を働かせることを通じ、別の世界に参与することを励ますところにあるのではないか。だとすれば、書かれていない事柄こそが重要だと言えよう。

 

 そこで、私が外野から読み手としてかかわり、何らか囲碁について書く際に、囲碁について、プロ棋士という人々について、想像的に参与しうるとっかかりは、囲碁をしなかったならあり得ただろう彼らの姿、ないし囲碁に形式化されきっていない彼らの姿と、プロ棋士としての彼らの姿のずれにある、ということになる。

 

ある人を知りたいと思う時何を欲しているのか

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 またまた雑記。

 ところでここに貼った写真は香港の写真なのだけど、今香港は大変なことになっている。多少北京政府の支配が強まったところで一般市民に影響ないだろうけど、今香港の未来のために戦っている学生たちが今後デモに参加したことを後ろ暗い過去として抱え、いつか難癖つけられ検挙されるのではないかという不安から逃れられずに生きていかなければならないとしたら、なんと難儀なのだろうと思う。

 

 標題の件についてふと考えていた。気になった人についてもっと知りたいと思うことがある。インターネットで調べたりその人のSNSを見たりして、とにかくその人の情報を集めるのだが、結局それではちっとも満足感がない。知るべき事柄がどんどん増えて、落ち着かない感覚が募る。だったら結局どんな状態になれば満足なのか。それを改めて考えた。

 これがこの人です、と提示できるようなある人間の本質というものはない。ある人というのは環境や周りの人との相互関係の中で形作られて来ており、大抵複数存在する。だからある人を知りたいと思う時、その人の側面のすべてをみようとすれば得るべき情報は限りなくなる。

 ある人について知りたいと思う時、私は、知った、把握した、という感覚を得ることができるような、大まかなその人のその人性、性向を掴みたいと思っている。これが第一である。ある人というものが多様な現れ方をするにせよ、大まかな傾向というのは確かにある。体は一つなので、一つの体を使うゆえの癖などもある。

 しかしそんな大まかなものでは大抵満足できない。やはりその人の内面のようなものを把握しているという幻想を得られてこそ、知っている、という満足感が得られると思う。

 では何がわかればいいのか。

 ということで出した結論は結局、相手が作る私向けの内面がある程度わかればいいのではないかと思った。前述のようにある人は、周囲の人との関係の中で生まれてくる。私との関係で生まれてくるその人([その人]と示す)は、[その人]以上のものではない。しかし、一旦[その人]が生じてしまえば、私はその人の複雑性が縮減された[その人]を理解することで、その人の理解にとってかえることができる。しかも[その人]の内面は私との関係で成立しているので、私にとってある程度理解可能なものであるはずではないか。

 ということで、ある人を知りたいというのは私との関係から生まれる[その人]の内面を知りたい、ということなのではないかと思う。つまりその人と関係を結ばないと不可能なわけで、凡庸な結論ですが、インターネットやSNSから離れて普通に直接話すのがいい。何度か付き合っていればその人が[その人]を作り出すので、理解できる感も増すと思われる。やっぱりなんとなく一緒にいるとか、そういうことは結構大事なんだなと思う、

 当然すぎる。うーん。でもよくよく考えた結果が当然すぎるということ自体、結構よくあることな気がする。

 

 

 

 

 

 

 

スポーツ・囲碁の快楽について【雑記】

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 とても大きなタイトルを掲げたのですが、「雑記」とある通り思考の垂れ流しです。

 

 スポーツについて考えたのは、囲碁から回り回って。なぜ人は囲碁を打つんだろう、と問うてみた時に、囲碁ボードゲームであり、遊戯であるので、その意味ではなぜスポーツをするのか、という問いとも重なるのかなと思いました。ちなみに囲碁はマインドスポーツ とも呼ばれているようです。スポーツに結びつけて考えようと思ったのはなぜかというと、単純にスポーツの場合の方が知見が蓄積されているだろうと思われたのと、私自身が中学の頃運動部に所属していたからです。

 バドミントン部。本当に、本当によくやった。そもそも息が切れることが嫌な私が週四回くらい、それもうち二回はコーチがみっちりつくような練習を続けられ、かつ年に三回ほどは、一ヶ月くらい連続で土日を潰して試合に出る、というようなことを続けられたのはなぜか、ということを改めて考えました。

 その理由は、快楽があったからです。

 試合中の、世界が飛ぶシャトルにだけ還元されてしまうような集中の感覚。一瞬の攻防なので考えた瞬間に体を動かさなければならないのですが、それによって生まれる、思考と身体が一体に近づいているような感覚。あるべき動きを、考えることなく、あるべきように行えた時、自分が違和感なくその世界の一部になったような、というか、世界と切り離されて自分個人がいるということを忘れてしまう忘我状態がありました。そうした濃密な集中の時空間に入っていくのが面白かった。そこでは、悩む必要がなく、全ては基本的にクリアに答えが出ます。あるべきかそうでないか。良いか悪いか。勝ちか負けか。勝ちの方向に向けて、力を振り絞ればいいのです。

 囲碁も近いところがあるのではないかと思いました。ともかく世界が碁盤の上だけになり、次の一手を読むことの中だけに回収されていくような感覚。そういう、つまりは快楽ベースで打っているところが、棋士にはあるのかなと思います。脳で分泌される快楽物質のようなものが関係している、のかはわかりませんが、ともかく行為に体が付き合うことによって連れて行かれてしまう場所。そこがいいのかな、と。

 ただ、自分も少し囲碁を打ってみて思うのは、バドミントンの場合体を動かすので、とにかく打ち始めてしまえば体の側が打つモードに入り、それに引っ張られるように頭もゾーンに入っていきますが、囲碁の場合、また違った手続き、入り口が必要とされるだろう、ということです。

 

 

 緊急事態宣言があけそう。行きつけのサンマルクは昨日から開店しています。明後日あたりから出社かなあ。また忙しい日々が始まる。忙しいというより、神経を使う日々。

 

 

囲碁について半年間調べる中で考えたこと(2) 仲邑菫さん、上野梨紗さん、福岡航太朗さんら年少プロ三氏の入段に着目して

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あまりに長くなったので二つにわけました。前回の記事からの続き。

 

summery.hatenablog.com

 

ちなみに本記事では年少プロのアイデンティティ問題について論じていますが、その関心は『ヒカルの碁』を読んだ時から共通しています。

 

summery.hatenablog.com

 

囲碁界とプロ棋士の今後について

 それでは、彼らを取り巻く囲碁界はどのような状況なのでしょうか。囲碁界の未来はどんより暗いといわざるを得ません。

・囲碁人口は減り続けている。

・プロ制度を運用する日本棋院・関西棋院は赤字。

・現段階ですでにプロ棋士約450人中食えるだけの収入を得られるのは一握りと言われる。

・多くの公式棋戦のスポンサーとして名を連ねる新聞社も業界的に厳しく、今後賞金・対局料が減ることが予想される。

・世界棋戦では日本のトップ選手でもなかなか上位に上がって行けない現状がある(かけている予算、囲碁教育者・学習者の熱量と投下する時間が全然違うので当たり前)

・以上の状況が改善する兆しが見えない。

プロ棋士の悲哀(?)

 そんな状況下で彼らが囲碁を打ち続けるのはなぜでしょうか。単に囲碁にはまってしまったから、よくできたから、成り行きで、というのが実相でしょう。しかしライフステージが上がるにつれて、どこかで「なぜ自分は人生を囲碁に費やしているのか」といった実存的な悩みに当たるときは来るのではないでしょうか。答えが見つけられないのなら、ただただ無限に出てくる「勝ちたいという欲望」「より効率的な打ち筋を見つけたいという欲望」「進歩したいという欲望」を消化するだけになります。実は内心、そういうことに徒労感を感じているプロもいるのではないでしょうか。それとも、そういうことを考えない人がプロになるのでしょうか。外から見ると如上の欲望を喚起する囲碁というゲームのシステムにむしろ、人間の方が遊ばれているのではないか、と感じたりします。

 しかしシステムというのはそういうものです。人間から生まれたはずなのにいつの間にか人間を支配する野蛮性を持つもの。今はAIが台頭して日が浅く、これまでの囲碁の常識が次々に覆る状況が新鮮で、面白いと感じる人が一般の碁打ちにもプロにも多いと思います。しかし日進月歩の情報技術の進展で、AIがどんどん進化し、「AI流」として多くの人が身につけ、大量の解説本が出た打ち筋が二、三年と経たずに更新される、などということが繰り返されたりすると流石に眉をひそめたくなる棋士もいるのではないでしょうか。

プロ棋士の役割の再定義

 これまでのプロ棋士は求道者として神秘化された存在で、常人にはおよびもつかない知を内面に宿しているということになっていましたが、AI台頭後は人間のどんな打ち込みにもAIが応手を提示してしまうのでその存在は一定程度脱神秘化されてしまいます。スポーツと異なり身体性に訴えかけられず、かつ凄みを理解するのに時間がかかる囲碁が商業的に成立し続けるためお活路は①厳しい勝負の世界で生きていく棋士たち個々人を巡るヒューマンドラマ②人間が人間の限界ぎりぎりの部分で戦う際にのみ現れる感情の機微や心的葛藤のコンテンツ化、ということになるでしょうか。プロ棋士が身にまとっている物語、彼らの人間性がこれからより重要になっていくことは少なくとも確実だと考えられます。こうしたプロ棋士の社会的役割の変化に囲碁の世界がどのように対応していくのかも気になります。

 

プロ棋士アイデンティティ問題と囲碁をやることの意味

 ここで年少プロというトピックに戻ると、何かの勢いで囲碁界に入ってしまった低年齢プロたちが迎えうるアイデンティティ上の葛藤は、私にとっては気になります。なりたかった自分と現在の自分との間のずれ、培ってきたものと必要とされるものとの間のずれ。このずれはいうまでもなく多くの物語を生み出してきました。

 傍目にはやらなくたって別に構いはしないような囲碁について、「別にやらなくてもいい」と一般大衆に迎合するようなことを言うことはいとも容易だし、実際最近史上最年少で名人となった棋士の芝野虎丸さんは何かのドキュメンタリーだか記者会見だかで「囲碁はいつやめてもいい」(大意)というようなことを言っていた記憶があります。芝野さん自身が、上述三氏に比べると少し遅くはあったのですが、中学生のうちにプロになった(入段時14歳)ので、興味深くその発言を受け取りました。

 芝野さんの発言は本当にそのとおりで、無意味性無根拠性がボードゲームという「遊び」の本質的な部分だと思います。そこに意味を見出すと途端に遊びは遊びでなくなる。しかし、プロ棋士というのは遊びからお金を得ている存在で、ただの遊びをただの遊びでないようなものに見せる魔術師としての役割を持っていると思います。ということであえて言いますが「いつやめてもいい」ならなぜプロ棋士はみんな朝から晩まで囲碁の勉強をするのか、あなた方なりの意味があるのではないか。多くの人に納得されるか、普遍性があるかどうかということは別にして、自分自身にとっての囲碁を打つ意味をなんとか言葉にしてほしいです。囲碁なんて打っても打たなくてもどうでもいいことは誰でもよくわかっています。だからこそ、「囲碁を打つことには意味がある」「囲碁を打たなければならない」と言うことこそ、囲碁という共同体において名人に期待されていることなのではないでしょうか。もちろん、そんな期待に乗る義務などないのですが、私個人としてはそこに関心があります。

 偶然かもしれないし成り行きかもしれませんが、ある対象に惹きつけられ、長い時間をかけてきたというのは間違いなくその人の固有性と不可分な経験であり、そうした語る主体と不可分な物語こそ、多くの人が求めている強度のある物語だと感じます。そこに、「どうでもいい」との間のかけがえのないずれが生じ、囲碁に関わる言説、フィクションが生まれてくる場が開かれるのではないでしょうか。容易に無意味に転じうる「意味」を語ることにこそ「抗弁」というモードの力が見えるような気がする。

 特に、半分わけもわからぬままプロになってしまう嫌いの強い年少プロが、棋士としてのアイデンティティ問題にどう向き合っていくか、注目したいと思っています。ただ、それをうかがうための情報がどれだけ外に出てくるかはわからないところですが。この四月から新聞記者との兼業棋士になった一力さん(入段時13歳)とか、情報を集めて発信する職に就いたのだし、今後こうした点に関するご自身の経験を踏まえた発信をしてくれないだろうか、などと期待しています。

おわりに

 ということでつらつら書いてきたのですが、私は今後も折に触れてちまちま勉強しつつ、気になっている年少プロについてフォローして行くつもりです。あわせて囲碁界がどうなっていくのかも外から見て行きます。このブログで囲碁について言及することもあるかもしれません。

 

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 年少プロ棋士のどこに興味を持っているのか。もう少し深掘りした記事をのちに書きました。よろしければあわせてどうぞ。

 

summery.hatenablog.com

囲碁について半年間調べる中で考えたこと(1) 仲邑菫さん、上野梨紗さん、福岡航太朗さんら年少プロ三氏の入段に着目して

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囲碁にはまっています

 半分近況報告なのですが、囲碁にはまっています。

 12月からなので、まだやっと半年のにわかもにわかだし、囲碁にはまっていると言ってもゲームとしての囲碁自体というよりはプロ棋士の生態系や囲碁という興行の運用ならびにそれらを含み込んだ社会と囲碁との関わりを調べることに夢中になっています。とはいえそうした話をフォローする中でゲームとしての囲碁を知りたいという気持ちを持たなくもないのでルールや打ち方についてかすかに勉強をしていますが、現在はルールを知っているプラスアルファで、棋力でいうと15~12級くらい。

 自分ではほとんど打たないので観る時の感覚で言うと、観戦しているとなんとなく、どの辺が黒になりそうか、白になりそうかがわかるようになってきました。一応ある程度の根拠とともに「勝っているのは黒/白」と予想をたてて、10回に7回は当たるようにはなってきました。

 そのようにゲームとしての囲碁の勉強をしていて思うのですが、このゲーム、練習するにも打つにも観戦するにも非常な時間を要しますね。昨日、日本棋院(プロ制度を運用する公益財団法人)が運営するオンライン上の囲碁プラットフォーム「幽玄の間」で国際棋戦に勝つことを目標に立ち上げられたプロ棋士の特訓チームの対局をつらつら観ていたのですが気づいたら2時間くらい経っていました。

u-gen.nihonkiin.or.jp

囲碁ナショナルチーム | 棋士 | 囲碁の日本棋院 

打とうとすると勉強すべきことは無限

 細かな部分を有利に進める手筋や死活を学ぼうとすると身につけるべき技能もそのために解くべき問題も大量に出て来て尻込みしてしまいます。何事もそうですが、大体俯瞰するのと一から全部自分でできるようにするのとではかかる労力が全く違います。後者については時間がかかるので、本当にそれをしたいか慎重に考えるべき。ということでちょっと囲碁以外にやりたいことがなくもないので、まあゲームとしての囲碁については引き続き観戦がある程度楽しめるようになればいいかなと思っています。

 ただ、言葉には長らく関心を持ってきた私なので、囲碁に関する語彙を増やすことには手筋や死活よりももう少し興味があります。抽象的な石の並びや連結を示すために、囲碁には専門的な用語がいくつもあり、しかもそれは現代の日常生活における言葉にもちょくちょく紛れ込んでいます。この用語体系を頭に入れれば、それに張り付いた囲碁の論理が少しわかるかもしれません……。

13歳以下の年少プロが3人入段した平成31年

 話を戻すと、関心はゲームとしての囲碁ではなく、なぜ囲碁というゲームはそれほど人を惹きつけるのか、どうしてひっきりなしにプロになるほど研鑽を積みたいと思う人が現れ、どうしてそれが興行として成立するほど、囲碁に関わってお金が動くのかという点にあります。そうした関心を持つきっかけとなったのは本当に偶然、平成31年度新たに囲碁のプロ棋士となった人の中に13歳以下が3人(タイトルにお名前を挙げましたが、仲邑菫さん、上野梨紗さん、福岡航太朗さんの三氏)もいたことを知ったから。リンク先の写真を見てもわかるとおり、この3人、とにかく幼い……。

平成31年度 棋士採用試験結果 | 棋士 | 囲碁の日本棋院

www.nikkansports.com

 

特別な才能を持った子供の物語に関心がありました

 私は小さな頃から特別な力を発揮する子供が現れる物語の類型に強い関心を持っています。

 児童文学、少年漫画、アニメ、を読んで・観て育ったのですがそれらのうちの多くはそういった物語を持っているし、そうしたものに全く触れずに大人になる人はいないと思うので関心を持つのは当たり前……と思っていたのですが、大人になるまで関心を保持し続ける人は案外いないようだ、と最近気づきました。感情移入できなくなるからでしょうか。

 ただ、私は今だに関心を持っています。このブログでこれまで書いてきたことに引きつけていうなら『ヒカルの碁』『スカイ・クロラ』『千と千尋の神隠し』等に興味があるのは、根本はそういうこと。

 

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 何らかのドラマを描くためには、物語の中心人物と社会との間の相互交渉・葛藤を物語に組み込むことが必要だと思うのですが、子供に内在的な視点で物語を書くという制約があるとそれができません。子供が子供のまま社会に対して何らかの主体的な働きかけをする、というプロットは明らかに無理があるからです。ということで、その子供が、何らかの特別な能力を持っている、という設定にするのは創作の技法上、当然であると思います。

 また、そうした、ドラマを生み出す都合を離れても、社会化される以前の子供に既存の社会や平凡な日常を内破させる何らかの可能性が含まれている、とする想像力ははるか昔からあります(日本民俗学でいうならば、各地にある「童子」に対する信仰など)。

 低年齢プロが複数人生まれる囲碁界は、まさに私が関心を持ってきた、特別な力を発揮する子供が現れる物語の類型がリアルな形で生まれようとしているように思われました。囲碁というのは何やら難しそうな知的ゲームで、そのプロというのは扇子を持った老獪なおじさん……という風なイメージを、『ヒカルの碁』を何度も読んでいた私が持っていたわけではありませんが、それでもプロ入段時のヒカルよりも若い子らが複数人入段している、というのは驚きでした。

 

抱いた疑問と調べてみたこと

 上の新聞記事に出会い、少し調べて抱いた疑問はシンプルで「なんでこの子たち囲碁やろうと思ったんだろう。そしてなぜ、プロになるための勉強を何年もしてきたんだろう」というもの。それから本格的に情報収拾を始め、知ったことは本当に多かったのですが、それをつらつら書いてみると本当に文字数が多くなったので、まずはいくつか簡単な疑問にわけてそれぞれに対する答えの概略だけ述べ、のちに気が向いた時に、詳細を述べたいと思います。ちなみに認識がまだまだ浅いので、間違いだらけかもしれません。コメントをください。

▷人はなぜ囲碁にはまるのか

 囲碁が以下三つの欲望を刺激するから。

  1. 囲碁は謎の発見、分析、解明、新たな謎の発見、というサイクルを生み出し続ける一つのシステム。わからないものをわかるようになりたい、よりよいものを見つけたいという欲望
  2. 勝ち負けがはっきりし、相手をどれだけ上回っているのか数値化されるため、自分が他人より優れていることを証明したいという欲望
  3. スモールステップにわかれた教材の大量な蓄積があり、それらを毎日ほんの少し勉強しているだけでも、何かを積み上げているという実感があるため、成長し、何かをよりよくできるようになりたいという欲望
▷なぜ低年齢プロが増えているのか

 現在、主に以下の点で囲碁技術・教育上の変革期にあるから。

  1. 中国・韓国由来の大量の反復練習を中心に据えた上達メソッドの普及により、時間を投下して意欲的に練習を繰り返すことができれば低年齢でもめきめき上達できるようになった
  2. オンラインで碁を打つ環境の整備で、誰でもいつでも格上の相手と打てるようになった
  3. 囲碁AIの台頭で人間が知らなかった新筋がいくつもあることが明らかになり、それらを知っていればAIの打ち筋に追いついていけないプロに対してある程度の優位性が保てるようになった。(※囲碁は打つところが多い割には超微妙な勝負にもつれこむことが多々あり、一箇所で明らかに優位に進められると、全局的にも相当有利)
▷子供でもプロになれるのか。

 子供がプロになることへの驚き・意外性を、「囲碁の複雑さを子供が処理しきることができてしまっている」ことへの驚きととらえ、それが可能な理由を以下考察する。

  1. 囲碁は言葉で説明しようとすると複雑になるが、何となく良さそうなところに石を置いてみて、出てきた局面を眺めてみる、というように、実際に並べて試すことで複雑さを縮減して思考することができる*1。脳内碁盤ができてしまえば、相当程度、思考の負荷を減らせると思われる。
  2. 囲碁の技術上の蓄積は膨大で、もちろんいつでも応用できる銀の弾丸的な手筋はないが、「こういう局面ではこうしておけば悪くはならない」程度の打ち方は大量にある。また、細かい部分で得をするすべも大量にあり、それらを押さえることは決定的に重要で、知っているのと知らないのとでは結果が大きく変わる。基本技術を早く・効率よく詰め込むことができれば、低年齢でも入段に必要な実力がつく。そこで、平成31年度に入段した福岡航太朗さんのように、小4から小6まで韓国の道場で朝から晩まで囲碁漬けの生活をおくったりする(下記リンク先参照)と、学校に行かない分勉強時間が長くなるという点だけをとっても有利*2。同期入段の仲村さんも韓国の道場で修行経験があるという。
  3. また、AIの示す新筋の吸収力については「タブラ・ラサ」な子供の方が有利。最近の新規入段者は高段プロ*3を楽々なぎ倒したりする。
  4. とりわけ高度に思われるのは、全局的な状況を見て、次の着手点を決めるという操作(大局観)だが、自分の陣地を大きくするというゴールが決まっているので、これも基本技術を身に着けある程度先が読めるようになり、かつ細かな計算ができるようになれば予想できるようになりそうな気がする。

number.bunshun.jp

  

 あまりに長くなりそうなので、続きは次の記事で

summery.hatenablog.com

 

*1:小学生のころ特に熱心にそろばんの練習をしているわけでも成績がいいわけでもない友人が頭の中にそろばんをいれており、複雑な計算も脳内そろばんでなんとかしていたが、彼は脳内ワーキングメモリが他の人よりも大きいわけでなく、それを抽象的で記憶しやすいモデル(珠を上下させた図だけ頭に描く)に落とし込む術を心得ていた

*2:義務教育は代償

*3:高段だから強いとは限らないのだが、その事情については今回は省略