SUMMERY

目をつぶらない

滑らかに生きたい。明晰に生きたい。方途を探っています。

Sex and Desire in Hong Kong

I read through the book named "Sex and Desire in Hong Kong"(HKU University Press).

 

This is an anthology of papers witten by sociologists. What I am interested in especially is that sexual relationship between westerners and Hong Kongners has been more or less fixed according to the postcolonial situation, though I knew sexual sphere, the very private sphere. can be influenced by the political.

 

 

 

 

先生と生徒は友達になれるか

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中高生の変化を見る楽しみ 

 中学・高校生を教えていると、本当に彼らが日に日に変化していることがわかる。もちろん、気をつけなければわからないのだが、少し気をつければ、そのことは明白になる。身体的な変化はもちろんのこと、考え方や語る言葉も少しずつ変化している。二週間ほど前に話したことが覆されるのはしばしばである。

 

 もちろん、以前はあまり考えに入れていなかったことに関してよく考え、情報を仕入れた末に短期間で考え方を改めるということは、大人でもよくあることだ。しかし、中・高生の場合、そのもととなる価値観自体が変わっていることがある。そして次の週に戻っているということもまた、よくある。つまり、そもそも自分の考え方のもととなる価値観を言語化することができていないため、何を基軸にして考えれば良いかということに関して、揺れが見られるということなのだろう。

 

 一旦言語化を試みては、それを検証し、違和感を感じてもとの曖昧な状態に戻るという繰り返しは、見ていて大変面白い。そうか、このようにして自己というものが固まっていくのか、と思う。

 

コミュニケーションの変化は見えにくい 

 しかし、ある変化に関しては、教師という立場として関わっている以上、それほど明確に見えないことがわかってきた。それは、生徒のコミュニケーションの変化である。ここで「コミュニケーション」という言葉を用い、私が示そうとしているのは、とりわけ人との会話の場合を想定したときの、内容的な側面以外の面である。狭く言えば「ノリ」と言われるものを示そうとしている。

 

 自分自身を振り返ってみた時、特に友人関係の中で、私のコミュニケーションは大きく変化してきた。具体的に、どのような人から影響を受け、どのようなコミュニケーションを移入してきたかということを、私はいくつかの点に関しては明確に想像すらできる。例えば、中学時代、私は相手の発した言葉の含意をあえて極端な方向に広げ、それを相手が含意しているという風に差戻すことによって、おちょくる、煽るということを身につけた。また、第三者の標準から外れた、奇態に見える振る舞いをあげて、その標準からの離れ具合を強調することにより、日常と差異化し、笑いをとるということも中学時代の友人から受け取った笑いの創出の方法であったと思われる。

 

 振り返ると、私が友人と会話をするときのノリは、中学、高校と大変激しく変化している。高校に上がってから半年後に中学時代の友人と会ったとき、その変貌ぶりに驚かれた。「なぜそのように難しいことを言い始めるのか?」ということを正面から問われて困惑したのを覚えている。高校ではより繊細な差異を通貨として、ノリが成立していたのだったから、私としてはそれに自分を合わせて行った。その必然的な収斂として、私は知らないうちに中学時代のコミュニケーションからずれてきていたのである。

  

 話が脱線したが、私が感じたのは、このような生徒のコミュニケーションの変化は、とりわけ教える側として付き合う限り、最も把捉が難しいものであるということである。その理由として、①彼らが様々なコミュニケーションの方法を相手に応じて使い分けること②その使い分けは出会った当時のものからそうそう変化するものでないこと、以上二点が挙げられるように思う。

 

固定する対先生コミュニケーション 

 前者はあまりにも自明であるが、後者に関して私はあまり自分自身意識してこなかった。しかし、そのことに気づいてよく考えてみるに、私自身がそうだったことが、遡行的に思い出された。例えば、中・高と私のコミュニケーションの方法が大きく変化したことは前述の通りだが、一方で、小学校・中学校時代の担任の先生に会いに行くとき、私のコミュニケーションの方法は、当時とほとんど変わらなかった。私はつまり、小学校時代の先生に会うときは、小学校時代の自分に、中学校時代の先生に会うときは中学校時代の自分に戻っていたのである。

 もちろん、細かな変化はあったのだろうが、振り返って考えると、私は驚くほど当時の自分に戻っていたと気づかされる。今現在もまた同様に、私は高校時代の教員に会うとき、高校時代の自分に戻っていくように思う。

 それは、単純に感慨としてそうなのではない。コミュニケーションの方法としてそうなのだ。過去の教師と生徒とのコミュニケーションを、そのまま私は再現している。この人と話すときは、これ、というのが型として決まっており、それは容易に変化しない。

 教師の側からみたとき、私のコミュニケーションの変化は、教師とのコミュニケーションの場面だけ考えれば、ほとんどわからないものだと言って良い。表出しないからだ。

 

先生と生徒はどう付き合うべきなのか

 だからこそ、受け持っている生徒が友人に対して行うコミュニケーションをふと見かけると、私は驚かされてしまう。そして、私が見ている彼は本当に彼の一面にすぎないのだ、と当たり前のことを具体的に納得させられる。

 そしてまた同時に、そのことの意味についての問いが生まれる。自己というものが本質的にはない以上、それが多様な現れをするのは当然だ。だとして、先生としての私はそのことをどのように受け止め、どう彼とつきあうべきなのだろうか。

 この問いは、問わなくてもよいことを問うているように思われるかもしれないが、私としては、良き人付き合いとはどのような付き合いなのかということの延長に位置付ける形で、教える側として生徒とよき付き合いをするとはどういうことかということを考えてみたい気持ちでいる。

 

先生と生徒は「親密」になれない

 よき付き合いとは通常、親密度で測られる場合が多い。親密度とは何か。私は、型を意識しないことであると考えている。

 もちろん、どのような人でも、対する相手によって型を必ずつけかえている。つまり、いかに親密な相手だとしても、その相手向けの型を、私たちは作っている。しかしながら、その型を意識して演じるか、そうでないかという点に違いがあると思われる。

  型を意識して演じるということは、型の枠を厳密に定めるということである。つまり、どこまではしてよく、どこまでは悪いかということが明確に意識されている状態だということだ。

 そのような型への意識が緩くなることが、親密であるということだとしてみれば、親密さとはつまりは、型からはみ出る部分に関し、相手に見られてもいいと感じることであると言える、と私は考えている。

 それは許可であるが、許可と厳密に意識しないままにある許可である。この、許可としての厳密さが不在なままある許可、曖昧な許可、そして曖昧な禁止こそが親密さの本質なのではないだろうか。

 

 もし、親密さがそのようなものとして捉えられるのだとしたら、教育者は、生徒と親密になることは難しい。教育者は否応なしに許容と禁止とを明確に区別する存在だからだ。

 ある発達段階を過ぎ、教育者がその人にとって教育者という立場でなくなったとしても、依然としてその人から許可と禁止とを受けた記憶は残り続ける。その視線は自分の振る舞いを許可するか禁止するか、その境を厳密に判断しようとしているように感じられる。

 教師に対して生徒としての私が厳密に型を作り、そしていま現在もそれを反復しているのは、その視線に許可と禁止とを峻別する強度を感じ続けているからであり、それによってこそ、当時の自分が当時の自分として形作られてきたからだ。

 このような状況は、境界設定の強度として異なるとしても、友人関係の場合においても同じはずだ。しかし、友人関係の場合、対等な関係において、お互いの境界を設定しあう。境界設定の闘争がそこに存在するのである。

 必然的に、そこには教師-生徒との関係ではありえ(てはいけ)ないような境界の侵犯・浸透がありうる。闘争に負けたり、また、柔軟に相手を受け入れると決めた場合においては、境界は侵犯してくる相手に合わせて内側に凹むように、形を変える。対等な関係において、反発も接近も教師との関係よりはるかに急進的に行われることが多いのはこのような理由からだと考えられる。

 親密さは、このような境界の押し合いへし合いの中でこそ醸成されるものなのだろう。

 

親密になれなさを生かすこと

 それでは、上に述べた意味での親密さを教師が生徒との関係で得がたいことは不幸なことなのだろうか。

 型への意識の不在が親密さであるとすれば、生徒が教師とリラックスして自然体で付き合うことにはどうしたって限界がある。しかしこれは一方で、ある型に従ったコミュニケーションを厳密に展開する可能性に開けているとも言える。

 例えば、教師と話し合う中で、新たな思考に自己を開いていくことができる場面は多い。それは、そのままでは拡散し、曖昧になりがちな自己を導くことが、教師の境界設定によって可能になるからだ。

 道がないところで、ある方向に一直線に進むことは大変難しい。一人一人のからだに内在する癖や傾向があるからだ。

 どこかで自己の傾向に従い、ずれ、斜めになり、結果、予期せぬ場所についてしまう。それを規制するのが、生徒にとっては教師である。

 また、生徒という立場を抜け出した場合、それを規制するのは規範であり、学問で言えば、論文を書く際に必要とされる手続きがこれにあたる。

 もちろん、教師の側は生徒とのやり取りの中で、自分が設定する境界自体が、やはり全くもってまっすぐなものではないこと、また、自明視している方向以外への方向の可能性に気づかされる。

 以上を考えれば、教師が生徒に親密さという観点から近づきがたいことは悲しむべきことではない。

 

 一方、人間は常に規範を意識し続けたまま生活することはできない。それは大変疲れる行為であるし、規範ばかりを意識すれば、その規範の起源の意味は忘れられ、それらはただの壁にしか見えなくなる。また、壁を自己に合わせて再設定し、与えられた壁を自分のものとして再領有することは不可能になる。

 自己を規範から自由にすること、そのためには親密な友人は必須である。親密な友人の意義は他に数え切れないほどさまざまにあるだろうが、ここでは論旨との関わりから規範からの自由をとりあえずのところ主張しておきたい。

 

規範と自由との往還を支援する先生

 以上論じてきたことを踏まえた上で、私は教師の役割として、規範の側に立つ以上のことが存在すると考えている。

 一方に規範(対先生コミュニケーションにおいて設定されるもの)、他方に自由(対親密な友人コミュニケーションにおいて可能になるもの)を置いた時、ある意味で最も不透明で、同時に重要でもあるように思われるのは、規範からの自由、自由からの規範といった、移行それ自体ではないだろうか。

 規範も自由も、先に述べたように社会生活を営む上で必要不可欠だ。それが自明であるにしても、では、その二つをいかに架橋するのかということは大変難しい問いとして残る。

 教師は、この架橋をささえることを通して、単なる規範設定ではない存在として生徒に現れうる、もしくは現れるべきなのではないかと私は考えている。

 

 どういうことか。

 教師として生徒に関わる時、自分は規範の側におり、それを規定すればよいと考えるだけでは不十分だろう。これが、要するに、教師の悪しき権威主義につながりうる。

 一方で、だからといって、生徒との親密さを築こうとすればいいということでもない。教師は生徒の対等の友人たりえない。無理して親密さを仮構しようとする教師の振る舞いは、それはそれで欺瞞である。

 

 それでは、教師と生徒とのよき関係は、どこに求められるのだろうか。それは、生徒が、規範と自由とを十全に行き来するように後押しする中に求められる。

 

 規範を設定すると同時に、その規範から自由へと向かう生徒の方向性を励ますこと、そして、自由な状態にいる生徒を規範の側に迎え入れること、その絶えざる移行を受け入れて、見守ることが、教師ができ、またすべきことだと思われる

 

 こう述べると、結局教師は承認する側であり続ける、つまり、教師は移行を手助けするフェイズに置いてもまた同様に移行を手助けする「規範」であり続けるように思われるかもしれない。その通りである。

 しかし、一方で、移行を励ます教師は、自由の領域へと送り出した後の生徒から見つめ返されるという意味で、他者性を呼び込む存在にもなりうると考えられないだろうか。

 

 生徒の自由の領域を本当の意味で認める時、教師もまた、自己が生徒の評価に本当の意味でさらされていることを意識せざるを得ない。教師の手を離れたところにいる生徒の存在を認めれば、教師である自分の権威は、そのような場にいる生徒の前には瓦解することになるからだ。

 そして、その状況にいる生徒から「規範」以外の存在として受け入れられることができれば、教師と生徒との関係は、より対等な関係に近づくと思われる。

 教師として生徒と関わることを厳密に捉えることの延長上に、逆説的にも、二者が対等に付き合う可能性が開けるように思われるのだ。

 

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 上のような記事を書きつつ、しかし結局教師の仕事を少しだけはしたのでした。

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学校の先生という選択肢を捨てた理由②

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(前の記事からのつづき)

 

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プロの先生の関心

 

 そんなことを考え、また実行に移した矢先、たまたま母校の先生とお話しする機会があった。先生は、今どのような授業をしようとしているか、それがこれまでと比べてどのように新しい試みとしてあるのか、困難は何か、ということを中心にお話しくださった。

 

 その際、私が感じたのは、プロの先生と私との決定的な関心の所在の差異だった。

 

 一言で言えば、私は生徒との交流に関心があった。彼らが何をどう考えるかということを考えるのが面白かった。また、彼らに関わってあることに喜びを感じた。もちろん、私自身の欺瞞がたたり、彼らにむしろ迷惑をかけることは、明示的に問題化しなかったが、実は何度もあったことと思う。ありがた迷惑、干渉のしすぎ、または無関心すぎ、などバイトに行くたびに私はそのようなことを自分はしていないか、してしまった場合にはどうリカバーしていくか考えて実行に移していた。

 

 先に述べたこととも通ずるが、最初はそのようなことを考え、行うのが楽しかった。のちに、それは面倒なものになった。だから辞めた。

 

 対して先生は、何を教えるか、いかに教えるかということを中心的に考えていた。そもそもこの科目を教える目的は何か。その目的は本当にそれでよいか。その目的のために今どのような手段がとられているのか、それは本当に有効か。それを変えていくためにはどうすればよいか。そのような教科の指導に関わることが、先生の関心の中心だった。そして、それは私が教える際に関心を持つこととは異なっていた。

 

 この関心の相違は案外重要かもしれないと私には考えられた。ふと想像してみるだけでも、私の関わった先生の中に、私のような生徒との交流に力点を置く先生と、指導法の研究に力点を置く先生の二種がいた。そして、私の場合は、後者に力点を置く先生に、育てられたことが多かったように思われる。それは、私がたまたまそのようなタイプだったということであろう。また、出会う時期によってどのようなタイプの教員が私にとってよいかということが変わってくるということもあるだろう。

 

 とにかく、私は、そのような、先生と自分との教えるということに対する関心の差異に気付いたのだった。

 

教師はいかにして成長するか

 

 そのような気づきを先生に伝えると、先生は、その差異は教師としての成熟に結び付けられるのではないかとおっしゃった。つまり、多くの教師が、まずは生徒との人間関係の構築や交流に楽しみ、苦しみ、のちに優れた指導法の研究に移行していくということだ。

 

 そうなのか、と目が開かされる思いだった。つまり、私は教師が教師の枠内においてどのように経験を積み、変容していくかということがイメージ出来ていなかったのであった。

 

 同時に気付かされたことがある。それは、私は指導法を工夫することそれ自体にはあまり興味がないということだ。もちろん、これまでわかりやすい授業をしようと心がけてきたし、それを実際にすることも、ある程度はできてきた。しかしそれは、単に生徒とのコミュニケーションの一部として行ってきたのであって、指導法の向上を目指してのことではなかったのである。

 

 私は、どこまでも個別指導という形態に特殊具体的な状況の中で教えることに関わってきたのであり、集団塾で授業をしたことはなかった。そういえば、集団塾で働く友人はより指導法を研究していた気がする。板書の案を練ったり、ある解説にかける時間を厳密に予定したり。

 

 そのことを考えると、私はそのようなことに興味が持てるのだろうかと思われてきた。私の関心は、教職とは異なるのかもしれないと思考が進み始める。

 

 私が何度も教師という選択肢を考えては自分の中で潰してきた理由はこのあたりにあった。

 

中・高生と付き合うこと

 

 中・高生を見ると、「想像以上に子供だな」と思う。「想像以上に子供だな」と思いながら見ていると、「意外に大人かもしれない」と思う点もある。中・高生は私にとって自分がかつてそうあったにもかかわらず、自分とは全く異なるものとして現れるのであって、「教師に向いているかもしれない」という私の予感は、要はその異なるものとの遭遇・交流という新鮮な体験の持続を願ってのことだったのかもしれない。

 

 上述の通り、私は教える仕事を楽しんできた。しかしそれは「教師になりたい」とは違うのかもしれない。そのように考え、私は結局留年して教職をとることはなかった。

 

 ただし、自分もそこにかつてあったはずの場所に感じる異なるものの感覚とそれへの興味、それ自体は持ってしかるべきであると振り返って思う。

 

 先生になることはやめたが、教える経験自体は大変良いものだった。

学校の先生という選択肢を捨てた理由 ①

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私は教師の方が向いているかもしれない

 

 去年の暮れからぼちぼち、就職活動をしていた。その中で何度も浮かんできたのは、「私は教師の方が向いているかもしれない」という予感だった。

 

 しかし、私は教職課程をあまりまじめに履修していなかった。教育実習にも行っていない。教師を目指すのであれば、留年することになる。それでも悪くはないが、どうせ留年するのなら、とりあえず少し就職活動をしてみるべきだろう。そのような考えから、並みいる就活生に混ざり、慣れないスーツを着て就職活動をしていた。

 

 幸いな結果に終わったため、教師になることはなくなったが、その過程において何度も去来した「教師の方が向いているかもしれない」という予感がなんだったのかということに関しては少し書いておこうと思う。

 

教えるアルバイトの疲れ

 

 考えてみると、就職活動を始める前から私は教師という選択肢を何度も考えていた。不真面目ながら教職の科目もおそらく半分ほどはとったのである。それも、当時教職の講義は私にとってそれなりに面白かった。あれほど多くの学生が内職したり、居眠りしたりしている講義もなかなかないだろうが、それは私にとってそれなりに面白かったのであったから、確かに、振り返ってみても私は教職をとり、教師になりえたと思う。向いているかはわからないが、それをしたいと思う自分が、その気持ちを実行に移す可能性は十分にあった。それでは、なぜそうしなかったのだろう。

 

 振り返って当時の日記を読むと、やはり当時の私は、教職をこのままとり続けるかどうかで迷っている。そして、とりつづけないという選択をするにいたったあたりをみると、私は教えるという仕事に疲れていたのだとわかる。

 

 私は大学入学後、一年ほど休んでいた期間はあるものの、基本的に教えるアルバイトに携わってきた。大変幸いなことに、私が持つ生徒は皆真面目でよく勉強をした。また、私自身が、教える仕事に向いていたようであり、彼らをサポートすることはできたし、職場や保護者とは基本的に良い関係を築くことができた。もちろん、多くの場合、結果も出せた。

 

 それでも、私は疲れてしまっていたのである。理由は、私の狭い経験から言わせて貰えば、教える仕事が基本的に繰り返す仕事だからだ。私は個別指導塾で働いており、大学受験生を持つことが多かった。最初の一年は試行錯誤の連続だった。生徒と一緒に徐々に成績を伸ばしていったり、最初はびくびくしていた生徒とだんだん打ち解けていくのは喜ばしい体験だった。二年目は、最初の一年で得た教訓を生かし、さらに良い指導を行うにはどうすればよいかと考え、実行していくことにやりがいがみいだせた。

 

またやるのか・・・

 

 しかし三年目の最初、受験生を送り出した直後に、新たな受験生を受け持つことになったとき、「またやるのか・・・」という気分になったのを覚えている。小テストのリズムに慣れてもらう、計画を立てることができるようになってもらう、間違いノートを作れるようになってもらう・・・。それぞれのステップが具体的に浮かんできて、それまでの二年で直面してきた苦労が目に浮かんだ。

 

 最初は、そのような苦労も楽しかった。どう言えば私が必要と思うことを具体的に納得してもらえるかということに工夫をこらすことは、日常行っているコミュニケーションと全く異なるコミュニケーションを実践することであり、新鮮だったのだ。

 

 しかし、三年目ともなると、そのステップもルーティン化してくる。私にとっては三度目でも生徒にとってははじめてのことなのだから、ルーティン化した説明をとるとしても、相手の反応に対する臨機応変さは保持しなければならない。しかし、それが面倒だった。成果を求められる職場であったことも起因してか、どうすれば大抵成績が伸びるかわかっているので、それを画一的に適用する方が成果に対しては効率がよく、圧倒的に楽なのである。

 

 最初は新鮮に感じられた高校生の物の見方も、三度目となると、それほどに面白いものとして感じなくなった。むしろ、それ以上に彼らの自分と比した時の視野の狭さが気になることが多くなった。

 

 もちろん、彼らが三つも四つも年下なのだから、それは当たり前のことなのである。それに合わせていくのも仕事のはずだし、そもそも一般的に、他者と建設的で豊かな人間関係を築くには、時間も労力もかかるのだ。

 

 問題は、それが蓄積されないことだった。毎年新たな関係を一から築いていかなければならない。それには喜びも苛立ちもある。教える側に立つ以上、私から合わせていき、良好な関係を保たねばならない。それが面倒になった。

 

教職科目の履修をやめる

 

 四年生になる前に、私は教職をやめてしまった。教えるアルバイトも一時的に辞めた。辞めてしまうと、また何とはなしにやりたくなり、大学院生になって再び始めた。しかし、その時に教職をとろうという気持ちまでは復活しなかった。

 

 むしろ、私は教えるバイトと決別するために、最後の一手として始めたのだ。教える職業につかないとしたら、今後、中学生や高校生と話す機会は、大人になってからほぼないだろう。今、アルバイトを通して簡単に関わることができる彼らとの交流は、社会に出てから皆無になる。そのことを十全に意識しながら、これまで何年も関わる中で身につけたことを振り返り、場合によってはそこについやされた努力や気概を鎮魂しようと考えた。その中で、再びやりたいと思ったのなら、留年して教職をとればよいと思われたのだ。

 

つづき:

 

summery.hatenablog.com

 

カウンセリングについて

 恥ずかしい、ことではないと思うが、ご多分に漏れないことではある。その意味で、多くの人と同様の挙動をとる自分のミーハーさへの恥の感覚はある。

 私は、カウンセリングに関わる本に関心を持ってきた。ここ一年ほどのことだ。とりわけ好んで消費したのは、現場で長年働いてきたカウンセラーが書く本だ。以下、これをカウンセラー本と呼ぶことにする。とりわけ、塾講師をしていた時の経験がどこかで共鳴したのか、カウンセラー本の中でもスクールカウンセリングや、ケーススタディとして紹介される体験談の中に児童・生徒・学生が出現する本を進んで消費した。そして、時に胸が締め付けられるような気持ちになった。つまり、自分自身のことが書かれているような気持ちになったのだ。そして、心当たりのあることについてラップトップに延々書き連ねたりしていた。ある種のカタルシスが、そこにあった。同時に、容易に言語化できない、疑問をどこかに抱いてもいた。それがなんだったのかを少し書こうと思う。

 学生以下の年齢を対象とするカウンセラーの本で紹介されるのは、多くが、クライアントと問題について話し合う中で、クライアントによって曖昧な言葉で語られるそれが少しずつ明確化してくると同時に、その根が子供時代の体験にあると気づかれる事例だ。

 このような体験をもととしているのだろう、カウンセラーが書く本はしばしば、親子関係のあるべき姿について焦点を当てるものが多い。例えば親による子供への過干渉、親が子供のためを思ってしていることが多くの場合親による子供への微弱で曖昧な、しかし一種の支配となっている構造の指摘、など。そこでは、理想的とされる親子像が見方を変えればいかにいびつなものでありうるかが紹介される。

 同様に、親がこれをしてはいけない、というインストラクションも、そのような本で頻繁に紹介される。これは、厳しく叱ってはいけない、かといって、褒めすぎるのもよくない。子供の前でもう片方の親の悪口を言ってはいけない、子供のためと思ってあれこれやってあげてはいけない、結果を責めてはいけない、云々。。。

 それらを親のもとで暮らす、庇護者として読む分には良い。しかし、私もある程度の歳を経てきて、親になりうる年齢となった。その観点から見ると、違和感を感じなくもない。親はある時、突然親になるのであって、プロの親というものはない。だから、彼らが何もかもうまくやれるとは思えない。

 カウンセラーが親を告発する意図を持ってそれらを書いているわけではないだろう。しかし、書かれたものを読む限り、それは十分に一種の告発として受け取れる。それも、容易に償いはできない形での告発。なぜなら、それが現実に、子供のある種の歪みとして現前してしまっていることが、それらの話の前提をなすのだから・・・。

 親は子供に対して相当に強い位置にいる。この権力関係を無視して家族という制度を見ようとすることは、確かに、今日、もはや一種の時代錯誤である。その意味では、何をどのようにしようが、親は子供に対して親として君臨するだけで、なんらかの力を及ぼし、何かを押し付けている。そして、それに自覚的な親が少ないのもまた事実だろう。しかし、だからといって、無条件にある親の振る舞いが良くないということが言えるのだろうか?もっと人間関係というのは微妙ではないだろうか。もしくは、それによって子供に問題が生じてしまうというとき、それは何を意味するのだろうか。理想的な人格を持った人間というこの世のどこにも存在しないフィクションを措定したことにより、反作用として生じてしまった、それ自体高度なフィクションこそが、「問題」の内実ではないだろうか。

  最初に戻る。私はカウンセラー本にはまっていた。過去形である。ある程度読んだので満足した、というところはある。しかし、それ以外の理由でも、もういいだろうと思うに至った。

 その原因は、カウンセラー本が、しばしば、良きビジョンを提示してしまっているからだ。とりわけ、使命感に駆られて自己の体験談と共に現代の家族関係・人間関係の諸問題をカウンセラー個人が語る本にその傾向が強い。

 学問的色彩の強い、もしくは単純にカウンセリングの技術を扱った本に良き親子関係の形、良き青年のあり方、そのようなビジョンは決して提示されていない。これがカウンセリングが学問の一部として立つ際に必要な倫理性を供給しているのだろう。何が良きことなのかということを提示することで、多くのことが排除され、不可視化される。そのことに自覚的にならなければ、研究が研究として存在する意味は失われる。

 私にとり違和感として残るのは、カウンセラーが個々で述べる体験談においては、多くの場合、カウンセラー主体に固有の偏見やそのカウンセラーの中にしかない理想の家族関係、人間関係がありありと浮かび上がってしまっていることなのである。

 先の話に通ずるが、私は、カウンセラーは何が良きものなのか、何が悪しきかということを前提にしないところにこそ価値があると思っている。だからこそ、クライアントに寄り添うことができると考えるからだ。したがって、カウンセラーが個人的な体験談を出版しどのような家族がよいのか、どうすべきでないのか、ということを提示するのは、相当な注意書きと共にでなければ、もしくは、それを読む読み方の規定なしには、害しかないと思われる。

 カウンセリングのプロセスでは時間も体力も大変多く必要とされる。しかも、クライアントが結果として良くなったのか、悪くなったのかということはほとんどの場合、明確に言えないだろう。だからこそ、カウンセラーの本に〈治癒(=良くなった)〉と思しき体験談が多くなってしまう事情は十分に理解できる。あえて医学的色彩の強い〈治癒〉という言葉を用いたのは、多くの場合、クライアントが問題を解決するに至ったということで話を終わりにしようとする欲望を、カウンセラー本の臨床的な体験談に感じてしまうからだ。

 治癒したのか、そこに至らなかったのかが明確でないような人の心の問題に関わるカウンセラーの苦悩は察するにあまりある。だからこそ逆に、あるカウンセラーの実存に付き合い、あるカウンセラーの頭の中にしかない良きビジョンを滔々と語られても、鼻白んでしまう。外科ほど〈治癒〉がはっきりしないのはカウンセラーの大変な部分だと思う。だからこそ、安易に〈治癒〉も、そして〈予防〉も語らないでほしい。

 

 

 

 

ひどく疲れた

ひどく疲れたよ。私のようなコミュニケーションとは、異なるコミュニケーションの方式をとる人々が多くいる国で、一ヶ月間暮らしてきた。毎日違和感があり、身体的にも辛いタイミングがあった。けれど、なんとか乗り切りました。よくやったと思う。その中でこそ可能な自己分析があった気がする。

働いています。

 今月に入ってから、ほとんど社会人のような生活をしています。起きたらすぐにスーツに着替え、満員電車に揺られて一時間。仕事場にたどり着くと、コートを掛けて朝礼に参加します。その後はひたすらパソコンに向かって企画書を書いたり製品を作ったり。それで気がつくとお昼、というくらい午前中は集中しています。コンビニに行っておにぎりを買い、食べ終わるとお昼休みの終わりまで本を読みます。周囲の人々があんまり本を読まないのに驚かされます。多くの人は基本的にスマホを通して情報を得ており、「知りたい」、もしくは「読みたい」という欲を満足させているのです。もちろん、私も毎日スマホをいじり倒すので、それがいかに有効かよくわかっています。ただ、私が驚かされるのは、私の仕事場に50人ほど人がいるうち、休憩時間に本を広げるような人間が、私一人ほどであるという、その数の少なさに、なのです。私が小学生のとき、盛んに実践された読書教育というのは本を読むことの習慣化という意味ではほとんど残らないものなのだな、と感じました。わざわざ本屋や図書館に行って選書し、カバンに入れて持ち歩き、電車の中では苦労してとりだし、昼休みには浮くことを覚悟で開き、という一つ一つの行為は確かにどう考えてもわずらわしいものなので、よほど習慣化されているか、またはどうしても読みたいものがあるという場合でなければ、読書なんて面倒臭いだろうな、と容易に納得させられます。

 昼が終わると再び作業に取り掛かり、次にホッと息をつくときはもう夜になっています。終礼に参加し、一日のまとめを簡単に書いて、勤務は終了です。

 この生活の驚くべきは変化のなさです。ただし、飽きる変化のなさではない。それは変化がないけれども「退屈」でもないのです。ほどほどに疲れ、ほどほどにストレスがたまり、ほどほどに達成感がある。私がこの約10日間に知ったのは、この「退屈でないけれども単調」という状態の存在です。本当は、最近それを知ったのではなく、前から知っていました。大学にいるここ5年間で忘れていましたが、中学時代も、高校時代も、予備校時代もそれをしてきたように思います。そのことを思い出しました。私は自明視していた自分の被教育者としての経験を、この「就業経験」を通して相対化できるのかもしれない、と少し感じています。本当にしんどいことを考えないで済む日々のために、どうでもいいことに考える力を使う。しかもその「どうでもいいこと」はことあるごとに、いかに自分がどうでもよくないかということを繰り返し主張してきてくれるのですから、本当に便利です。社会の要請に従うことで、私は考えなくて済む気がする。私は考えなくて済む生活を望んでいたのですから、これは望み通りなのです。大学の一年生のときから、長期休暇のたびに考え事ばかりしていて、それはもちろん、楽なことではなかった。自由な生活を送り、好きな本を読んで気ままに暮らしているのだ、と何もない日常の連続を肯定しながら、何の予定もない日々が一週間続いたあとのある朝、部屋の天井を見つめる私の目に、髪の毛がぼさぼさで腫れぼったい目をした私自身が、甲虫の体液のような涙を滲ませているのを見たこともある気がする。それで、今度の長期休暇くらい、私は楽なことをしてもいいのではないか。身体的にはキツイこともあるかもしれないけれども、少なくとも、気持ちは楽な状態に置きたいと思ったのでした。

 それで、私は快楽に弱いから、この楽さは癖になるだろう、と思っていたけれども、案外そうでもなさそうだ、ということを今感じています。みんな何も喋らなければいいのに、ふとした隙に懐に入り込もうとする距離感のコミュニケーションが充満していて、ほっといてくれ、というのが素直な感想です。しょうがないか。私はあまりに、お互いの話をまともに聞き合う環境に身を置きすぎたみたいで、それが本当のところ、そう簡単に達成されないことを忘れてしまっていたようです。そうでなく、相手を対話のモードにひっぱりこむことがむしろ重要だというのに、なんだかイライラばかりが募ります。でも、仕事をしているときは本当に楽です。