SUMMERY

目をつぶらない

滑らかに生きたい。明晰に生きたい。方途を探っています。

さても哀しき教育の欲望

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 長い期間本気で求め、行動を積み重ねていると大体のものは手に入るような気がする。そもそも、長く本気で求め続けられるものというのは、手に入りうるものだから。最初は全く手に届かないところにあるかもしれないが、行動を起こすと少し近くなる、その時点で、ある程度の距離は推し測られ、全く無理なら、本気で求め続けることはないだろう。だから、長く本気で求め続けることができるものは、手に入りうる。「本気で求める」も重要だが、求めることを長く続けることも同じくらい重要だ。

 私はこれで教員3年目である。大学院の時に私が求めていたものは、幸い手に入ったと入職直後に思った。入試問題に縛られない教育環境。週に一度の研究日。優秀で、少なくとも授業中は座って静かにしていてくれる、そして全体の1/3程度は熱心に話を聞いてくれる生徒。こちらが荒唐無稽な実験的授業をしても、なんとかついて来てくれ、かつはそれなりのものをそこから学んでくれる一部の生徒たちは、私の側の負担を大いに軽減してくれた。生徒が優秀だと、何をやろうと、それなりに結果らしい結果が出てくるから。いや、出てきてしまうから。冷静に考えるとダメダメだったと振り返られる授業についても、そうなのである。だから私の卑小な承認欲求が毀損されることはあまりなかった。

 これ以上はない、と思っていた環境だ。しかし、最近少し違和感を覚えつつもある。私は長く本気で求めた末、今のような職場を得た。求めるものは大抵得られる。しかし、私の求めていたものは、本当に欲しかったものだったのか。もし、欲しいものが、長い期間本気で努力しなければ得られないものなら、何を求めるか、慎重に決めることは重要なはずだ。

 

 前振りが長くなったが、教育の欲望である。どうやら、以前から私が思い描いていたような「教育」を行い続ける限りにおいては、現在の私の求めるところは満たされないような気がしている

 ということで、一旦私が何を欲望して教育に向かっていったのか、そしていまそれがどう変化しているのか、殴るように描きつけたいと思う。いつか整理するかもしれない。

 

 もともと私は第一義的に勉強がしたかった。気の赴くままに勉強をして、時々は自分の勉強したことを共有する。そういうことをして、お金がもらえるならこれ以上ないことだと思っていた。だから勉強する時間があり、話を聞いてくれる生徒がいて、教育内容について縛りがゆるい職場を選んだ。

 しかしこうした私の「求めるもの」のビジョンにあまり考慮されていなかったのは、そういう私の営みが生徒にどのように裨益するのかという観点である。結果としては、生徒に教える自己を問い直さなければいけない段階がきている。単純に言えば自分のことしか考えていなかった、ということに結局はなるのだろう。それでいいと思っていた。好きな勉強をして、知的好奇心が満たされ、それを生徒に話すことで、自分の頭が整理される。獲得した概念は人に説明することで定着するし、質問を受けることで陥穽が埋まり、より強固な体系となる。そういうことがしたかった。

 けれど、段々、そうして得たものを、結局どうしていくのだろう、と考えはじめている。自分の勉強をやはり社会的に位置付けたい。自己効力感を得たいという気持ちが強くなってきた。そして、教師をやっている以上自己効力感を得られるとしたら、それは第一に生徒にどう役に立ちうるかということを考えることになるはずだ、と思った。

 それでは今私が生徒のためにできることはなにか。彼らにとって価値があると思われる文章を選定して彼らがそれに出会うための手助けをすること。必要なら読むことの支援をすること。それをする理由としては、彼らが今後の生の中で、それら文章から得られる知や認識の深化を必要としていると感じられるから。

 …しかしそもそも私が、それらの知や認識の深化を生活の中でいかにして役立てているかわからない状況で、彼らにそれを手渡したとして、それを受け取ってもらえるのだろうか。

 例えば定番の、西欧近代の矛盾というトピックがある。誰もが知らなければならないと思う。意識して生活を進めていかなければならないと思う。ところで、それを知っている私は、その知によって、何をどう得ているのだろうか。そうした問いに答えられない限りは正直、それを教えるという行為が片手落ちなのではないかと思っている。私自身が、進歩至上主義的な価値観から少し解き放たれて(もちろん完全に、というわけではな全くないが)それゆえに私と、私にそうした価値観を押し付けられずに済むようになる私の周りの人々が少し生きやすくなっている…?近代的主体からこぼれおち、切り捨てられる存在との連帯の重要性を知って、周囲の他者との付き合い方を反省的に省みることができるようになっている…?そうした小さな変容のかけがえのなさがよくわかりつつ、けれどそれを生徒に向けて説得的に語りうるだろうか。

 もしかすると、教師としての私にとって、そうした知の持つ意味は、それを教育するという行為自体なのかもしれない。つまりそれらを知った理由は、そうした考え方を次世代に繋ぐこと…?そのために、それを知ったということ…?

 それも一つありうる解だ。大抵のことは短い期間で何とかなったりすることはない。多くの人と漸進的に進めるしかない。知の裾野をコツコツと広げていくしかない。そしてこれは、少し勉強した人なら誰でもできる。地味この上ない。この地味さに、私は正直今、クラクラしている。でも、教員としての自分の役回りを前提として考えるのなら、私が勉強することの意味は、勉強したことを伝えることでしかあり得ない。

 振り返って見ると、私は誰でもできることをしたくなかった

 一年目、本当に校務分掌が嫌だった。授業準備で目の下のクマを日に日に拡大再生産するような日々の中、修学旅行係になって、旅行委員のお世話をしたり、しおりの作成の段取りを決めたりすることが面倒でしようがなく、しかし打ち合わせのために来た旅行会社の人が私より数倍大変そうで、真夏にスーツ、汗だくだくで、40代くらいの明らかに中堅社員なのだが最若手の私にぺこぺこ頭下げてくれて、それを見て始めて、みんな面倒なことに絡め取られて大変だと気づいた経験とか、記憶に新しいのだが、それはおいといて話を進めると、夜の職員室で完成したしおりを各クラスの人数分とりわけて輪ゴムをかけてクラス担任の机におく作業をしていたときに感じたその作業の物質性というか、どうしようもなく地味で、なぜ教科の専門性を持っている(ということになっている)自分のような人がこれをやらなければいけないのかとため息が出るとともに、しかし誰かがやらなければしおりが一人でに各クラスの人数分にわかれてくれることなどないわけで、私がやりたくないのなら、誰かに頭を下げてやってもらわなければならない、物事を動かすというのはこういうことなのだなと思ったこと、それが思い出される。

 何が言いたいのかと言うとそれと同じような地味さを、教育に感じる。あまり教科書を使った教育をしていないが例としてそれを持ち出すなら、正直教科書には重要なことがもうだいたい書いてあって、読めばわかることだが生徒は教科書の重要な記述の場所も、そこに書いてあることの重要性もわからないから、私が大事そうなところの大体の内容をまとめて伝達する。こんなこと教師用指導書でちょこっと勉強した人なら誰でもできることだが、放っておくと誰もやらないのだから、誰かが確実にやらなければいけない。上で述べた通り実際には私は教科書を使わないが、別にそれは高校生が一般に学ぶことをスキップしているわけではない。それが深まる方向にしたいと思っているのであって、むしろ私は高校の一般教育課程の延長の学びができるように相当意識している。で、そうすると教科書を使わない指導でも、生徒の役に立つことは何かとか、多少は入試を意識した方がいいのかとか、学習指導要領的には、とか、そういうことを考えた結果選定する文章は大抵教科書に出てくるような著者のものになったり、トピックも似通ってくる(そういう意味で教科書はよくできている)。交換可能な仕事が嫌だったが、教師は教師で確実に交換可能な役回り

 

読みづらくて本当に申し訳ないのですがこのままもう少し続けます。最初はクリアなつもりだったのに、書くうちにすっかりわからなくなってしまった。

 

交換可能な役回りの交換可能性から自分の頭を引き離すには、それぞれの物事の自分にとっての価値を模索することである。なぜなら「誰でもできそうなことに思えるけど私にとっては固有の価値がある、なぜなら〜」ということは常に言えるから。だから教師として、教えることよりも教えることと不可分な、学ぶことの自分にとっての価値を私は中心的に考えていたのだった。教えることも抽象化に抽象化をかさねればせいぜいどっかの新入社員がゴミ捨てたり机拭いたりすることと交換可能性という意味で対して変わらないのであれば、それぞれの経験が自分にとってどのような意味があるかを考えるべきだ…。でもそれでは空虚だ、自分がどんなニーズを満たしているのかというところを意識しなければ空虚だ、というところから私の違和感は始まっているので、だとすれば、交換可能性を受け入れるところから話を始めなければならない。

「いや、それはおかしい、むしろ他者を意識した地点から、自分の交換不可能性が浮かび上がるはずである」というのはその通りでしょうが、そのためには、まず交換可能性をくぐり抜けなければいけないわけで、交換可能な自己をはっきり意識化してこそ、そこから交換不可能なものが浮かび上がってくるはずなのである。

ということで、私は交換可能な営みとしての教育に自己が参与していること、正直私がやっている教育なんて、大部分誰にでもできるということをはっきりと直視しなければならない。それはつまり、まずニーズに応えることを中心化しなければならない、ということになるのだと思う。誰か特定の人しか答え得ないニーズというのを多方面に人がだだっぴろげて向けるということはないわけで、ニーズに応えるということは、まずもって少なくとも一旦、ニーズに応えうる複数の人の中の一部に自分がなるということでしかあり得ない…のだと思う。その中で、段々ニーズを発する側も、ニーズに応じる人の固有性に合わせたニーズを発するようになる。そこまできてやっと私の交換不可能性のようなものが生きるはず。

 

私の教育の欲望は、多くの人と同じく、自分自身の交換不可能性を感じたいという欲望から構成されている面がある。しかし交換不可能性は交換可能性の自覚をくぐり抜けることでしかありえない。最初の話に戻るが、私が本当に求めていたのは、「教育を通じて自己の交換不可能性を日々感じること」だった。ところが今、むしろ自己の交換可能性をこそひしひしと感じている。なぜそうなったのかといえば、正確に求めたいものを言語化して求めて来なかったから。教育は教育でも、どんな教育でもよかったわけでは決してなかったから。方向転換をしなければならない。

   これはどのような仕事でも同じはずだが、教員志望の人は特に、交換可能性をくぐり抜けることをスキップしたいと思ってしまうのでは?教壇に立って生徒に向かって50分も話せる。一応、一方的に聞いてもらえる。その環境を求める人というのは、やはり、どこかで他の誰でもない一個の自分を表現したいという欲望を持っているのでは?自分がそうだからそれを一般化してしまうのですが。

   ここまで考察しても、明日から私が劇的に変わることは特になく、校務分掌とか、すでに十分知っている・理解していることを改めて生徒にわかりやすく話すこととか、資料を何百部もコピーすることとか、無限に面倒臭いままなんだろうけれど、教育自体を欲望することでは欲望の明確化が足りていなかったということがわかった。その結果が今の状況ということ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Silent Hill4 と最近読んだ現代小説

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 今週も忙しかったなあ。

 折に触れて観直す動画が上に貼ったもの。Silent Hill4:The Roomというゲームのオープニング動画であるのだが、現れる異形のものたちの表象が見事だと思う。ゲーム内で「ゴースト」と呼ばれる彼らのいずれも、大きな暴力により破壊され、変形された身体を持って現実世界に現れる。

 彼らは生前市民社会では厳重に禁じられてあるはずの(しかし確かに存在してはいる)苛烈な暴力の対象となっており、その傷ついた身体は一般的道徳を著しくはみ出した地点—規範のない場所—を象徴する。通常ではあり得ない動き、いかなる意味も読み取れない声は、彼らと私たちとの間に共有可能なルールの不在を思わせる。

 しかし彼らはあえてプレイヤーである私たちを襲ってくるわけで、それは著しくねじくれ曲がっており、基本的にはいかなる意味でも理解不能なのだろうが、しかし、やはり一種のコミュニケーションの希求なのだろう。ゴーストが生きているものの心の産物なのだとしたら、彼らは規範の埒外に対する私たちの恐れそのものの象徴であるのだろう。

 大江健三郎『水死』を読み直している。作中に現れる思想対立は面白いが、それだけならわざわざ小説として書く意味がない。「森々」(農本主義?)と「淼々」(日想観?)の運動性が交差する「立ったまま水死」を書くことの意味、二つの思想を重ね合わせたまま宙吊りにすることの評価が為されなければならない。が、わからず。11月の学会発表になんとか出せれば良いが…。

 最近、「使わない爪をといでいても仕方がない」というフレーズをよく思い浮かべる。「といでいても仕方がない」と諦めているのではない。人間は使わない爪をといでしまうものだ。それを虚しいものでなくするために、何が必要かということを考えている。私の現任校は、どちらかというと進学校で、教員の学歴も高めなのだが、その中には、コツコツ密かに、最先端の学問的動向を追っている人がいる。彼らの知見は、しかし高校で授業をする分には大して役に立たないだろうし、生徒にも同僚にも理解されないだろう。彼らは何かしら自己の認識を新たにしていく試みに知的快楽を覚えているのだろうが、それが本当に単なる快楽のためなのだったら、そのうちに飽きが来る。勉強をどう日常生活・職業生活に生かしていけるのか、気になっている。

 授業では町屋良平の『しき』(初出:『文藝』2018年夏季号)を読んだ。授業参加者からは割と好評だったし、私も思春期の少年たちの内面はうまく描けていると思ったが、それらを安直なリリシズムに回収しようとする語り手の振る舞いが鼻についた。思春期の少年たちの内面の曖昧さを描き出そうとすることよりも、それらしきものを読者の見たいように加工して見せている気がした。細部の失敗をあげつらうことはあまりしたくないし、実際瑣末な失敗は目をつぶることができる私だが、読者に迎合するかのような語り手の傲慢さ(あえてやっているのなら良いが、そうでないもの)が見える作品については話は別で、看過できない。

 もう一つ北条裕子の『美しい顔』(初出:『群像』2018年6月号)も読んだ。これは読んでいる途中にいたたまれなさを覚えるものだったが今から振り返ると、町屋良平の語り手に感じるような傲慢さはなかった。うまくいっていない部分に関しても、作者は真摯な努力の上に表現を行っているという感があった。ただし、母親のお友達の女性に説教される場面など、端的に浅はかだと思った。そうした教条的な説教はわざわざ文学でしか書けないのかと強く疑問に思った。ラストは「あーはいはいそうまとめるのね」と言いたくなるような、安直なトラウマ乗り越え物語で、私にもわからないので偉そうなことは言えないが、被災者の物語とはこのように単純なものたりうるのかとこれについても疑問に思った。

 両作品とこの間感想を書いた高橋弘希送り火』(初出:『文学界』2018年5月号)に共通するのはどの小説も思春期の少年少女、それも田舎の少年少女(『しき』にも田舎から越してきた少年が重要人物として現れる)に内面化していること。なぜなのだろう?若者の心理は現代ではそれほど多くの人が取り組まなければいけないほどわけのわからないものなのだろうか。にしては彼らの大半がどっぷりつかってしまっているSNSは、まだ現代文学にとってのトポスたり得ていないような気がする。

 芥川賞はあくまで新人賞で、その候補作および受賞作が瑕瑾のない作品である必要はない。しかし読み手としては何か見所のある新しさを感じさせるデビュー作を期待してしまうもので、私がこれまでいくつかの受賞作や候補作の中で、これはすごいと思ったのは…沼田真佑『影裏』かなあ。それ以前だと、円城塔川上未映子目取真俊がよかった。錚々たるメンツ。今年や去年に受賞した作家がこうしたビッグネーム並みの活躍をするようになるのかなあ。期待。少なくとも次の芥川賞の候補には高山羽根子・今村夏子・古川真人が名を連ねており、今村さんは正直私にはよくわからないが友人が強烈に押しているし、他の二人は実力があると思えるし、楽しみである。

雑記:学校現場におけるマネジメントスキルの育成はどうすればいいのか

 

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 さてさて、雑記に行くが、なんでしょうね、最近疲れることが増えて来てしまって、授業準備と授業の繰り返しだけやっていれば楽なものを現実にはそうはいかないのが辛いところね。担任業務、はまだ生徒相手だから楽だが、保護者対応に行事・部活関係は本当に体力をごりごり削ってくる。授業・生徒対応とは全く異なる頭と身体の使い方をしなければならないのが辛い。教育現場は教師になんでもできることを求めて来ていて、他方私は、残念だけど何でもできるようになることに魅力を感じてはいないのである。それはひょっとして何も満足にはできないことと紙一重なのではないかと感じてしまって。

 一つの職場しか経験していないのに何だが、よく日本企業について語る際に、「日本企業はスペシャリストを育成する力に欠ける」と言われる。例えば「あの人は経理処理が苦手だから、できるようになってもらおう。」みたいな思考が叩かれる。得意な人にやらせればその人のスキルはもっと上がるだろうし、苦手な人は自分の得意な分野にさくことのできる時間が多くなる。全体の効率はそっちの方があがるはずなのに、そうしないのはなぜかと。

 やはりこの問いへの解は、日本企業が終身雇用・年功序列を基本に据えており、誰もがいつか管理職になることを想定した人材育成をしているから、ということになるのだろう。これから課長になる人が、経理処理を全くやったことがなく、知らない・経理処理のセクションと全くなんのコネもない、では確かに話にならない。こうした育成システムが、つまりは労働者個々人がスキルを上げ、それを元に複数の会社を渡り歩くような現在出現しつつある社会のシステムと矛盾しているということなのだろう。

 学校現場にもある程度まで同じことが言える。副校長や校長にならんとする人が保護者対応をしたことがなく、行事運営の方法やその際の危機管理をできないというのでは話にならない。それが、どんな教員も色々できた方がいい、という考えにつながる。

 解決策は、管理職と教員とをきっぱりわけてしまうことなのだが、これには教員から反発が出る。次の策は管理職になることを見越した育成パスとそうでないパスをわける、という手。しかしこれだと管理職パスの人が転職してしまった場合その人にかけたコストは無駄になる。すると、ともかくどの教員にも手広くやってもらっておいた方が、結果誰が残ることになってもその人に経験がある程度蓄積されているので、問題が少ないということになる。

 …と、せっかくの休日なのに仕事の話を書いてしまったが、専門性を身に付けたいのに雑多な仕事で疲弊させられるのが嫌だ、というのはどこかに勤める現代的労働者共通の悩みな気がするので書こうかと思ったのだった。

高橋弘希『送り火』の語り手に対する違和感

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 毎日疲れる。心地よい疲れと、身体が重くなるような倦怠と、その狭間にある。これ以上忙しくなると疲弊していきそうな、そんなギリギリなところにいる気がする。この生活の破綻もそう遠くないかもしれない。

 

 高橋弘希の『送り火』を読んだ。第159回芥川賞受賞作である。

 高橋の作品については話題になった『指の骨』を読んだことがあり、その時は濃密な筆致から立ち上がってくる「リアルな戦場」という虚構(高橋はもちろん戦争経験者ではない)に圧倒されたものだった。しかし読後感は良かったものの、それほど評価する気にはならなかった。簡単に言えば、高橋の戦争描写は、これまでの作品にその多くを依存している気がしたからだ。

 もちろん小説という文化的装置は、それまでの積み重ねの上に立つものだから、あからさまな剽窃は排されるべきだが、時代とともに蓄積されてきた戦争の描写を借りることは自由にしてよいと私は考えている。しかし私には、高橋がこれまでに蓄積されてきたものを組み合わせる、その編集の上手さは感じられても、彼がそれらの上に何か独自のものを積み重ね得ているようには思えなかった。

 ただ、作家はそれぞれ独自のものを持っており、高橋も例外ではないのだから、その独自のものが感じられないのは妙で、はて、これは何故なのだろう(読み手の私に問題がある?)と考えていた。

 

 今回、『送り火』を読んでその理由がわかった気がする。『送り火』は例によって非常によく書けているし、面白く読めたが、積み重ねられる一つ一つのエピソードの収め方が妙に技巧的で、〈挿話を安直なリリシズムに回収することに巧みな作家〉という印象を途中で持ってしまったのだが、するともうあまり作品内世界に没入することができなくなった。

 問題だと思ったのは、語り手が、本来複雑であるはずの問題について語らねばならない時は主人公の中学三年生に内面化することで回避し、そうでない風景描写などについては顔を出して繊細な言葉で塗り込める、この往復関係である。一言で言ってしまえば、そこにあざとさと狡猾さを感じた。

 もちろん、小説という場において、通常語り手は適宜必要な場所に顔を出し、小説を小説として立ち上げるための大立ち回りを密かに行なっている。だから、それ自体を糾弾することは反-小説的なのであって、さすがにそんなことをいうつもりはない。しかし、高橋がなぜ「送り火」を書かなければならなかったのかが伝わってこなかった。肝心な問題に踏み込んでいないように感じた。最後に描かれる送り火の場面も、それ以前に描かれたエピソードとテーマ的にうまく結びついていない。薄っぺらいと思う。

 選考委員の高樹のぶ子はこの作品について以下のように述べている。

「「送り火」の一五歳の少年は、ひたすら理不尽な暴力の被害者でしかない。この少年の肉体的心理的な血祭りが、作者によって、どんな位置づけと意味を持っているのだろう。それが見いだせなくて、私は受賞に反対した。」

「読み終わり、目をそむけながら、それで何? と呟いた。それで何? の答えが無ければ、この暴力は文学ではなく警察に任せれば良いことになる。」

(以上、『文藝春秋』2018年9月号 )

 私はこれに同意したいと思う。近いうちにこの作品について授業で扱われるので、他の人たちの感想を聴きながら再考したい。

 

 

 

 

Prime会員をやめます/自己愛の強い人

 

 標題の通りamazonのプライム会員をやめることになった。長らく学生でい続けているので、ずっと学生料金だったが、ついにStudentの会員年限に達してしまったので、これを機会にやめることにした。正規会員料金が確か毎月500円で、まあ、それほどの価値はないかなと思ったのが理由である。私にとってのPrime特典の価値は以下のとおり。

・新刊本送料無料:私は新刊本をほとんど買わないので使わなかった

・Prime Video:一時期は結構使ったが、めぼしいものを見終えてしまったので使わなくなった。一時期は無料映画以外もよく見ていたが、近くのGEOで100円の旧作も400円だったりするので、割高に感じていた。正直近くにTSUTAYAやGEOがあって、定期的に行くことを厭わないのなら、そっちの方がPrimeよりずっと安くつくと思う。

・Prime Music:地味に一番使った、が、ないならないなりになんとかなると思う。

 正直、Prime Videoの無料Videoに満足できるかどうかが分かれ目だと思う。私はもう、月に二本以上無料映画をPrimeを介してみることはないだろうと思われたので、やめるに至った。

 ということで今日は代替案にこれからなるGEOに行きカードを作った。そういえば18を超えてからこの方、ビデオ屋のアダルトコーナーに入ったことがなかったので入った。ほとんど「新作」というラベルが貼られていて、そういうマーケティングなのかもしれないが、そうでなく本当にあれだけの作品が新作で作り続けられているのだとしたら、それは大したことである。このご時世、女性向けのビデオもゲイ・レズビアン向けビデオも皆無なのが印象的だった。順当にエヴァ(旧劇)とまどマギの劇場版(叛逆)を借りた。どっちもprime videoでは300円以上だったか見られなかったかそんな感じだったと思う。

 

 職場に入ってきた3歳くらい年下の新入社員、受け持ちは英語。ピカピカの時計をして、スーツもオーダーのようなぴったりさ。しかし、自分がいかに、世間とずれた環境で育ってきたかということを強調するありように、鼻白んだ。それはあなたの言葉ですか?と聴きたくなる。京都大の学生のごく一部が、自分たちのことを「変人」とアピールするような、そんな感じ。しかし至極当たり前のことながら、自己の「変」さをアピールすることそれ自体は、別に変ではない。特別な存在で居たい、というあまりにも普通の欲望で、まあ病的なほど自分が変であることを強調するのなら、確かにそれはかなり変、というかやばいのだが、そうでなければまあ、話す人自身の凡庸さの証明。私も小学生の時だか中学生の時だか、一時期自分がいかに変かをそれほどあからさまにではないが、周囲に喧伝しようとした時期はあった。大抵の、ちょっと自分に自信のない人は身に覚えがあるのではないか。ただそれを会社で表にだすというのは、当然気づいているべきことをその時まで気づいてこなかったということで、幼い感じはいなめない。幼いというより、そういうことが許されてきた同質的な集団にずっといたのだろうし、そうした馴れ合いの、湿った若い体臭が立ち込めていそうな微温的共同体、そんなに羨ましくはない。

 

 

先輩教員の転職と教員に求められる「専門性」について

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 良いことなのか悪いことなのかわからないが、筆が進むのは大抵自分の中に違和感が渦巻いている時である。もちろん、自分の力で変えることができたり、にぎりつぶすことができる程度の違和感であれば、わざわざ筆をとることもない。自分の力で容易に変えることのできないような、周囲の人間に対する決定的な違和感。それが出来した時には、その内実を確かめるためにも筆をとる。不満が渦を巻き、それほど楽しいと言えなかった時期に、後から振り返ると結構長い小説を書いていたり、示唆に富んだ洞察を含む日記が大量生産されている。今の日常が、特に言うことない日々の繰り返しであるにも関わらずというか、そうであるがゆえに書き物が捗らないので、昔の書き物を振り返って、過去の自分はなかなか色々考えていたなあ、などと感慨にふけったりする。

 

「専門性」重視の勤務先

 この四月より職場の中堅教員が転職した。同じ現代文の担当だった。私の勤め先は学力レベルとしては高めの客観的事実として付け加えるなら、偏差値は相当高めの学生が集まる高校だ。それ故に受験勉強の指導はあまり求められていないし、学習指導要領を逸脱する内容を扱っても、また、実験的授業形態を取り入れても誰からも文句は言われない。そもそも生徒が優秀なので、何をやっても大抵、「成果」らしきものは出てくる。それが生徒のためになっているのか、ということを真面目に考えるのなら、もちろんどこの高校でどんな授業をやろうと難しいだろう。しかし、自己の行う授業の価値を対外的に説明しようとするのなら、とりあえず生徒の反応の良さや成果物があればなんとか格好はつく。その意味で、私の学校はやりやすいのだ。

 

 こういう学校にどのような教員が集まるのかというと、高い学力を持つ生徒の知的好奇心を満たすことができる教員だ。生徒らの多くは、情動については一般的な高校生の域を出ないので、教員の知的能力が自分よりも低いとみなすや否や、授業を聞かなくなるなどの態度にでる。優等生達であるから、授業を抜け出したりするようなことはないが酷い場合には教室の8割が授業を聞かず、塾の宿題をやるというようなことが起こり得る。そうした状況の中で授業を続けるのは教員にとっては辛いことであるから、そうならないためにも、受け持ちの教科について一般の教員よりも深い専門性をもつ教員が集められる。

 

 こうした、専門分野に関する知識が生徒の方からも、教員間でも重視される校風の中、やめてしまった先輩の中堅教員仮に「岩下先生」とするは、自分に専門性がないことに苦しんでいた。「中高教員の教科に関する専門性は高がしれている」というようなことも言っていたが、これは自分に専門性がない、という意識の裏返しだろう。

 

 岩下先生は私と同じ現代文を持っていたのだが、現代文の教員になったことが岩下先生にとってよかったことなのか、私はわからない。現代文というのは専門性が見えにくい教科だ。学ぶ内容が現代の文章の読み書きという汎用性が高く、基礎的なものであるため、重要であることは誰もが疑わないものの、現代文の「専門性」とはなにかと言われると多くの人は首をかしげるのではないか。ある体系の中に組み入れられた知識をある程度決まった順番通りに一つ一つ理解し、覚え、それらを駆使してさらに応用的な内容を積み上げて行く、というのが私の中での大まかな「専門性」のイメージである。このイメージに現代文という科目で学ぶことが沿っているとは言い難い気がする(言えないこともない気がするが)。

 

 岩下先生の中には専門性への憧れと、それへの反発との両方があったのだと思う。その岩下先生が現代文という、専門性が規定しにくい教科の教員になったのは幸福でも不幸でもあったと思う。幸福だったのは、専門性とつかずはなれずの態度を維持し続けることができること。不幸だったのは、つかずはなれずの態度を維持し続ける運命にあったこと。両者は裏返しだ。

 

 専門性の希求。体系だった知識を自分のものにし、他の人にできないような高度な知的操作を素早く時間は有限なので、大抵の場合、速度が重要行うことへの憧れ。誰しも多かれ少なかれ、そうした憧れを抱くのではないか。いや、私がその憧れを共有しているから、「誰しも」とか勝手に思い込んでいるだけなのか、わからないが。とにかく一現代文教員として私は岩下先生に共感するところはあったのだが、私は仮にも国文系の研究をしていた(+いる)ので、一応現代文を教えながらでも「専門性」の片鱗は見せられたのである。岩下先生は国文科出身でも、国語学出身でもなかった。現代文教員だけれども、文学史に精通しているわけでも、日本語という言葉に精通しているわけでもない、ということが、岩下先生の気になっているポイントらしかった。

 

先生の転職

 それで、話を続けるが、結果的に、岩下先生はやめることになった。中高一貫校で主に高校教員だった彼は、高校生に対する教育からは手を引くことになった。詳しい事情を聞いたわけではないが、これまでの彼の言行からどうしてこのようなことになったか推測すると以下の通りだ。

 

 前述の通り、私の学校で教員はほとんど何をしてもいい。大学のような雰囲気を持っている。しかし、大学が専門知を持った大学教員の住処であることを大前提としているように、何をしてもいい私の勤務先でも大前提がある。それは「教員に(一般的な教員に比して秀でた)専門性(=教科の内容への幅広い知識・深い理解)があること」「教員が専門について勉強を続けること」だ。別に専門性がなかったら、誰かから論難されるわけではない。それでもやっていける。しかし確実に居づらくはなる。自分は場違いである、求められていないと隠微な形で知ることになる。これは辛い。

 

 岩下先生はこうした辛さと戦っていたのだと思う。戦いながら、なんとか教科の内容についての専門性とは別の方向性において勝負しようとした。指導における専門性を追求しようとしたと言い換えてもいい。岩下先生の戦いは決して間違っていなかったと思う。今では私も、教師にとって教科の専門性は重要だが、それは教師がもつべき重要な力の中の一つに過ぎないと思っている。さらに言うならば、それは確かにあればあるほどいいけれど、教員採用試験にいつでも合格できる程度の「専門性」を維持していれば、当面教師として問題ない程度であると思う。少なくとも、通常の学校では。

 

 私は教師にとってそれ以上に重要なことはいくつもあると思う。一つあげるとするなら、生徒が何をできるようになったのか、ということをキャッチし、それを、それまでの生徒の学習や、その生徒が向かうだろう(向かいたいと思われる)方向との関係から位置付けてあげることだ。例えば一つ漢字が書けるようになったという達成があったとしても、その位置付けは個人によって異なるはずである。努力の末なのか、一目見ただけで書けてしまったのか、その漢字が書けることはその子にとってどう重要なのか、など。ある程度知識が深くなければ位置付けなどできないから、もちろん教科の専門性は必要なのだが。

 

 岩下先生はこうした点に力をそそいでいたな、と同僚として思う。無味乾燥な校内実力テストの、それも漢字の採点で、岩下先生がコメントをつけていて驚いたことがある。漢字の丸つけで何を書くのかと思い、いない隙に見てみると、「おしい!」などと書いてある。私はこれに感心した。確かに何も書かない生徒と、とにかく何か書こうとしている生徒は、同じペケでもその子にとっての意味合いが異なる。努力の跡を読み取ってもらえるのなら、その子の学習は次に繋がるだろう。校内実力テストは通常業務に割り込んでくるから大抵てんてこ舞いの中で採点することになるのだが、その中でこうした細かなコメント付けをできるというのは、要はこういうことが好きなのだと思う。そしてそれは教師に向いているということでもある。

 

 岩下先生にとっては専門性を重んじる私の学校は環境として合っていなかった。彼が失意のうちに辞めていったとは言わないけれど、残らなかったこともまた事実だ。そして、高校教育からも手を引く彼は、しかし次の職場ではうまくやるだろうと思う。やっと確立した自我を必死で守らなければならない高校生くらいの時期は、自己の価値観を括弧にくくることが難しい時期でもある。周囲の大人による学習の後押しがとんでもなく鬱陶しく感じたりもする。岩下先生の「おしい」というコメントも「鬱陶しい」と感じる生徒は正直いただろう。特に、「漢字問題は0か1かで、半分書けていようが白紙だろうが0は0」というような二元論が支配していそうな本校では(見方が適当すぎるかもしれないが)。しかし、もっと年齢が下で、学力層も多様な生徒からなる学校であれば話は別と思う。本当に、頑張って欲しい。

 

話を聞いているふりがうまい人/責任を逃れるのがうまい人

 話を聞いているふりがうまい人がいる。こちらの目を見てうなずいてくれる。しかし相槌とともにはさむ「共感の言葉」がずれている。こちらが喜び半分、不安半分で話している時も、「本当によかったね。幸せだね」や、「すごい!優秀ですね」といってまとめる。こうした人にとって「よかったね」「優秀ですね」というのは明らかに、ネガティブな話題を除く大半の話題を無難に収めるための切り札のようなものだ。「よかったね」と言われて「いや、よくなかった」と答える人はそうそういない。「優秀ですね」と言われて否定する人はいるだろうが、嫌な気持ちになる人はほとんどいない。大抵の話にはよかったことが含まれているし、話者特有の認識や判断の鋭さをうかがわせる部分がある。本心としてどう思っているかは別として、「よかったね。本当によかったね。」「すごいですね」と言えば、言われた側はとりあえずそうかなという気分になり、つかのま嬉しくなる。言った側は自分の言葉が発揮した効き目を目の当たりにして陶酔的になる。

しかし、多少なりとも冷静さがあれば、こうした共感の言葉をあまりにもすぐに、また繰り返して発する人の、当該の言葉が空虚であることに気づくはずだ。その人は自分の何も見ていない、と思うだろう。その人にとって重要なのは、話題が何であれ(あきらかにネガティブな場合は除く。そういうときに「よかったね」と言ったらやばいことくらいはさすがに彼らでもよくわかる)とにかく「よかった」「すごい」というラベルを話者の話にべったりとくっつけて、話者を気持ちよくし、それによって自分自身も気持ちよくなることなのだ。

そうしたコミュニケーションは、端的に寂しいと思う。そこには交感はない。真の意味での共感もない。全部うわべだけのことで、社交なんてそんなものかもしれないが、寂しい。もちろん、本人が一番寂しさを感じていると思う。「よかった」「すごい」を明るい顔で言わないことはなかなかないから、そうした人は一見、割とニコニコしているように見える。けれどもそれは、自分の中の観念にくすぐられてそうしているわけで、そうしたところからくる笑みは想像以上に空虚だ。でも、それでうまくやってこれてしまったのだからしょうがない、のだろうか。

 

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責任を逃れるのがうまい人がいる。誰でもできるような瑣末な仕事を積極的に引き受けるその人は、一見物腰柔らかで優しく親切。しかし、その人が優しく親切なのは、自分が優しく親切にできる領域の中でだけの話だ。例えばペンを貸して欲しいと言えば、そうした人は喜んで、しかも最速で貸してくれる。遠く離れた席にも喜んで小走りで貸しに来てくれる。それは彼らにとってあまりにも容易なことで、なおかつまた、どうまちがえようと決して後ろ指を指されることがないからだ。途上で転んだり、結局ペンが出なかったということになれば、おおげさに謝る。貸す時点で文字通り「貸し」を作っているのはわかっているから、その上で謙虚に謝ればますます、相手が恐縮し「ありがとう」の言葉をかけてくれるということをわかっている。

細かいところでやや過剰と思われるくらいの親切心を発揮する人には注意が必要だ。まず第一に、そうした人はそれ以外に自分の価値を発揮することができないから、そこに力を入れている可能性が高い。それは一つの免罪札なのだ。こういうことを丁寧にやる。すると、周囲の人からの印象はよくなる。細々とした仕事も率先して引き受けるので、皆がそうした仕事をその人に期待する。結果的に、本当はその人の年齢やポジションにふさわしいような他人との(大抵の場合面倒な)交渉事を伴う仕事を回避できる。というか、そうした重い仕事を引き受けられないし、避けたいのでそうでない、あまりにも簡単な部分に過剰に時間と心を傾けて、周囲の機嫌をそこなわないようにする…。

これは不幸なことなのだろうか。

人とぶつかるのは基本的に大変なことである。それをせずにすむのなら、誰だってしたくない。その面から言えば、人とぶつかる大変な仕事を避けるのは合理的な戦略だろう。しかし、結局人とぶつかりうる交渉事を自力でなんとかできなければ生活が、もっと言えば生が、新たな局面を迎えることは決してないように私には思われる。もちろん、それは相手に「勝つ」ことができなければ、ということではない。そうではなく、相手と話し合って落とし所を探す、ということだ。

 

私も人とぶつかるのは正直クソめんどくさい。そうした仕事は人に嫌われた挙句、思ったような成果が上がらなかったりする。

一方で、花瓶に水を入れたり、お茶を汲んだり、ゴミを捨てたりといった雑用は、みんなやりたがらない汚れ仕事で、だからこそみんなから感謝される。感謝だけされて気持ちよく生きていきたいなら、くだらない雑用だけするのが一番だ。

でもなぜだろう。お茶汲みで一生終えたくないと強く思う。それは空虚だと思う。お茶汲みにプライドを持っている人を馬鹿にしているのではない。そうではなく、簡単な仕事に逃げ込む人でありたくないと思う。面倒臭いが、人と対立しうる現場で協働の道を探していくことにしか、自分の生の開かれはないような気がする。多分この感覚は正しいので、そうしていくが、とはいえ、ほんっとうに面倒くさいんだよね。交渉・調整は。