目をつぶらない

文学を専門とする大学院生の日記です

人が年をとるということ。その中で文学的課題を発見していくということ。黒井千次さんのインタヴューに参加してきました

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 先日書いた通り、飯田橋文学会の文学インタヴューに参加してきました。大変良かったです。一人の作家が、時に応じてどのように自己の文学的な課題を発見していくか。それにいかに向き合っていくか、という過程をありありとお話くださいました。

new.lib.u-tokyo.ac.jp

 このインタヴューに関する、文学会側の方のツイートとしては、例えば平野啓一郎さんの、以下のようなものが挙げられます。

  私は平野さんとは異なるところに刺激を受けたので、そのような部分を中心に、簡単に振り返りたいと思います。

あまり書かなかった大学時代

 まず印象に残ったのは、最初の作品を発表するまでの経緯。1932年生まれの黒井さんが、主に作品を書き始めたのは、高校生のとき。何が語りたいかわからないけれども、何か語りたいという気持ちから、戦後の混乱の中で創作意欲に燃えたと言います。今から振り返って読むと、別にその時の作品がとりわけよいということではない。けれども、ひたすらに書いた経験が本当に重要だった、というお話をされました。

 逆に大学においては、当時盛んだった労働運動に一般の学生並みに接し、友人たちと観念的な議論を繰り広げる中で、頭でっかちとなり、創作活動に気持ちが向かなくなっていたとのこと。書いた作品を批評する目を過度に内在化すると、書くことが難しくなる、というお話でした。

 以上のお話は、私にとっては覚えがある、というか現在進行形の課題。私もまた、小学校の頃に夢中になって小説を書いていました。当時は、書くこと自体が楽しかったので、それが完成するのか、完成したら、どう評価されるのか、ということを考えてはいませんでした。

 今も、小説を書こうと思う時はありますし、実際に書きます。しかし、書いていると「これは完成するのか」「これでは先行作品に比べて新しいとは言えないのではないか」というような批評家的視座が鎌首をもたげてきて、頓挫してしまうのです。つまり、書くことの愉楽が第一に来るのではない状況に陥っています。どうにかならないかなぁ。自由になるために大学・大学院で勉強して、実際に自由になった側面は多いのだけれど、不自由になったところも実はそれなりにあるような…。しかしどうしたらここから抜け出せるのか、それも、逆戻りではない形で?そのようなことをぼんやりと考えながら、お話を聞いていました。

企業内労働というテーマ

 大学生活の終わりとともに、黒井さんは就職します。黒井さんの就職に関して、詳しくは『働くということ』(講談社現代新書、1982年)という本にまとめられています。ちなみに、これ、その場で購入しサインをもらいました。もうすぐ就職するので、これは買うしかない、という気分でした。

 

働くということ -実社会との出会い- (講談社現代新書)

働くということ -実社会との出会い- (講談社現代新書)

 

 大学時代に接した労働運動の影響もあり、ものをつくる労働者の実態をみることに興味を持っていた黒井さん。その興味もまた一つのきっかけとなり、メーカーに就職されたとのことです。そこで、黒井さんは企業とその中で働く個々人の主体との関係を問うような小説群を発表していきます。今回の文学インタヴューで中心的に言及されたのは、先日私がブログで紹介した『時間』という作品です。

時間 (講談社文芸文庫)

時間 (講談社文芸文庫)

 

  この作品、私は漠然と、高度経済成長期、企業という巨大で非人間的なシステムがその力を増す中で、そこに翻弄される主体の像を描くことにより、当時の社会を批判的に書き出すことに作家としての企図があるのだと思っていました。

 しかし、昨日のインタヴューを聞く中で、その考えは微妙に違ったと感じられました。インタヴューの中で、黒井さんは、システムの中で企業戦士化した主体もまた、子供を持ち、家庭を持つ人間であるという気づきを得たエピソードを紹介します。いわく、企業の中では、「課長」はもう「課長」として動かし難く存在している。けれど、地元の祭りなどで会うと、課長も子供と一緒に常人並みに市民生活を営んでいるのだよね…。

 こういった語り口から、企業の中の人間を書くことの力点が、文明批判というよりは、人間個人を問い直すことの方にあったのだなあと感じられました。別に企業を批判したいわけではない。巨大なシステムの中でがんじがらめになっているはずの個々人から、しかしどうしようもなく滲み出てくる人間性に黒井さんは関心をもっている。その関心の向けかた、そこに気づくまでの経緯の語りかたが、理路整然としていて、穏やかで、真摯な方なのだなと強く思われました。

生活の中で文学的な主題を見つけるということ

 富士重工を退社した後は、本格的に作家活動に入り、家で執筆をするのが黒井さんの生活の中心になります。それにより、今度は黒井さんの中で、家とは何か、家族とは何か、という主題が現れてきたと言います。

 近日インタヴューの映像が公開されるので、細かくはそちらに譲りますが、このようなお話を聞くことで、作家が周囲の生活の中から文学的な主題を発見していくプロセスに素直に感心しました。それとともに自分が専門としている大江健三郎さんとの共通点を見つけることもできました。

 黒井さんの作品自体は大江さんの作品と接点が多いわけではなく、お二人がとりわけ文壇の中で関わりが深いというわけでもないと思います。しかし、人生におけるいくつかの転機や日常生活を送る上で出会われる細かな事件・気づきなどを、創作活動の原動力として、長期間にわたりその都度新たな作品を世に送り出していくという姿勢に関しては、共通する点をいくつも見つけられると感じられます。

 研究すればするほど、文学はわからない、とらえられない、実体がない、と思われてきた。そのような思いを書く方の作家もまた同じように抱えているのだろうなと思います。

 自己が変化していくこと。それが「変化」と捉えられるかはわからない。もともと何があったのか、ということが定かではないし、変化ののちに何があるのかということもわからない。しかし、そのようによくわからないものに狙いを定め、追い詰めてとらえ、それに新たな形を与えていくこと*1。それを一つの「人生の習慣」として、ごまかさずに行っていくこと。そのような作家としての生と向き合う態度にしみじみと感心させられたのでした。

 

 ということで、今回は素直な感想をまじえた紹介記事でした。次に、黒井千次さんの文学に即して、気になったことを院生としての立場を意識しながら書きます。

 

*1:この表現には(そのままの形ではありませんが)典拠があります。

http://www.u-tokyo.ac.jp/gen01/b_message23_03_j.html