SUMMERY

目をつぶらない

滑らかに生きたい。明晰に生きたい。方途を探っています。

いずれ好きなことでしか生きられなくなる?:雑記

今日職場が手配してくれた外部研修に行ってきた。色々な事情からその内容には立ち入らないが、他の業種の人たちと話す中で、改めて「一生懸命やったことは無駄にはならない」という言説について考えた。

 

小学校の頃の先生は、こうした言葉そのままではないが、「一生懸命やったことは無駄にはならない」というようなことを色々な局面で私に吹き込んでくれた。「吹き込む」は真であるとは全然限らないのに、繰り返し教え込まれた、というようなマイナスのニュアンスだが、「くれた」はそのことに恩義を感じていることを示す。今から考えると、言葉の真実性とは別に、一生懸命やることを無条件に全肯定してくれるようなその先生の指導は、少なくとも私にとってはとても良かったと思う。もちろん、その言葉が時に過度に子供を追い込むことになりうることは承知している。例えばこうした言明から「結果が出ていないということは、一生懸命やっていない」という呪いの言葉がすぐに導かれる。私の先生はそういう考え方の持ち主ではなく、努力の重要性は歌ってもそれを無理くり押し付けてくることはなかった…が、もちろん発話者の意図とは別にこうしたありうる効果は考慮に入れるべきである。

 

それで努力は必ず実る、というようなことを信じ続け、実際中学の勉強はイージーなのでやった分だけ結果に返ってきたりしてご満悦な中学時代を送ったが、一方で当時の私にも、「どうやら今はうまく行っているけれども、一生懸命やっても無駄になってしまうことはありそうだ」と思われてきたし、中学校の先生が、「一生懸命やってもダメな時はダメなのだ、でも意図せざるところで、その経験は多分生きるだろう」というようなことを何度か言っていて、そんなものかなと思っていた。

 

大学に入ってもう少し視野が広がると、前段の路線の言い換えのようになるが、「一生懸命やったことは、それが無駄にならないような生き方をうまく選択すれば無駄にならない」というふうな形に改めて肯定的にとらえ直した。しかし「生き方をうまく選択的に選びとることなんて、普通できないだろう」と思っていた。

 

今日、一緒に研修を受けた人の中に転職者が複数人含まれていたのだが、彼らの話を聞きながら、少し考えを改めた。「一生懸命やったことは、それが無駄にならないような生き方をうまく選択的に選び取れば無駄にならない」のではなく、ある年齢からは、「それまで一生懸命やってきたことが無駄にならないような形でしか生きられないのだ」と思った。人が、社会がお金を払うのは、基本的にお金を払う対象の人が、他の人ではそうそうできない業務をしているからだ。年をとるにつれ、経験を積み重ねていない分野の業務は露骨にできなくなっていく。まともにできるのは曲がりなりにも、毎日コツコツと呼吸をするように続けてきたことだ。

 

誰もがそのうち、得意なことしかまともにできなくなり、得意なことに関する仕事しかできなくなる。職場でも職場を離れてもそうなのだが、周囲の50代以上くらいの社員が、いずれも割と適所で働いているように見えるのは、そういうことだ。彼らは偶然適所を見つけられたのではない。そうではなく、基本的にもうそこでしかお金になるレベルの業務はできないのだ。

 

ネガティブな意味で言っているのではない。むしろ、私は以上のように見えてきた洞察をポジティブに捉えている。結局は、好きなこと、コツコツ続けてきたことでお金をもらえるようになる。というか、それでお金をもらうしかなくなる。重要なのは、だから、好きなことを関心に沿ってコツコツ続けていくことだろう。それが仕事の場であるか、そうでないかは別として。