目をつぶらない

文学を専門とする大学院生の日記です

学びとは何かについて改めて考えてみる

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 日々努力を継続し、自己研鑽に努めている人の中に、驚くほど狭量な価値観しか有していない人がいる。なぜだろう。なぜこうなってしまうのだろう。多くのことを学んだ結果がこれなら、学ぶことにいかほどの意味があるのだろう、と絶望的な思いにかられる経験を幾度もしてきた。今回は、学びとは何かということについて考えたことを書いてみたいと思う。

学びの2種

 それについて考えて行くことの中で、学びには二つの類型があると考えればよいのではないかと思うに至った。一つ目は、異質なもの・理解の難しいものに目を向けることを通して、自己の価値観を批判的に省み、自己変容を志向する学び。二つ目は、ある目的を設定し、そこに向かって努力し、自己研鑽を積むという意味での学び。前者を自己変容型の学び=変容型、後者を自己研鑽型の学び=研鑽型としよう。

 大学に入るまでの私にとって、「学び」とは第一義的には研鑽型であった。変容型の学びは、研鑽型の学びの上にあるものだったのである。研鑽型の学びの末に、自己変容がある。つまり、「学び」という言葉に研鑽型も変容型も含まれていた。

 このような考え方は、それほど間違ったものではない。二つはそれほど簡単に切り分けられるものではないし、研鑽型の学びの末に自己変容型の学びに至ることはままある。しかしながら、研鑽型の学びの上に必然的に自己変容型があると考えることは、間違いであると思われる。というのも、研鑽型の学びの特徴は、すでに設定された目的に向かうことであるからだ。

研鑽型の学びの特徴

 研鑽型の学びからは、目的そのものへの疑いは生まれてこない。したがって、目的の裏にある前提、そしてその前提の背景にある価値観は疑われることがないのである。研鑽型の学びは必然的に、ある決まったルールの中で、何かを人よりうまく行うことに収斂する。例えば、ある分野の知識を蓄え技術を磨いたり、特定の処理を人より早く、正確に行うこと、つまり、専門知はここに入る。さらにまた、ある体系の中で、人との競争に打ち勝つこと、つまり、利益の創出、ビジネス上の成功もここに入る。

研鑽型の学びでは、努力の前提となる価値観や、努力の目的自体が問われにくい

 専門知と、ビジネス上の成功を同列に扱ってよいのか、という疑問は当然あるだろう。確かに、研鑽型の学びの中に、さらに下位カテゴリーを設けるべきである。しかしここでいいたいのは、専門知も、ビジネス上の成功も、「人よりも早く・正確に」もしくは「人よりも多くの利益を」というように、何かの枠組みを設定し、その中で、競争を行なっていく際に必要とされる学びであるということだ。そこでは、すでにある枠組みへの疑いは重要とされない。「なぜ人よりも早いことが良いのか」、「なぜ正確さが必要とされるのか」、「なぜ利益が高いと良いのか」という疑問は真面目に検討されないのである。

 もちろん、こういった疑問が研鑽型の学びの枠内で決して生まれてこないわけではない。むしろ、目的に向かう途上において、その目的が本当に目的なのかという疑問を抱くことはとても自然なことである。

 しかし、研鑽型の学びにおいては、そのような素直な疑問を突き詰めて考えるということは起きにくい。研鑽型の学びが競争の枠組みの中に入って行われる以上、競争の目的を疑うことは、時間の無駄だからだ。

 よく、幼い頃不遇な境遇にいた人が、自己の努力だけを頼りに、大きな企業の経営者へと上り詰める物語がある。私にはとてもできないようなことを軽々と行い、リスクを取り、自己実現を果たしていく彼らの話に、素直に敬意を払う。とても私にはできない。システムの中で避難できる場所、自分を守ってくれる場所を見つけようとする私とは違い、システムの中で揉まれる中で、イニシアチブを獲得しようと奮闘する彼らの姿には、私にはない力強さを感じる。

 一方で、冒頭で述べたようにそうして上り詰めた彼らの視野の狭さ、価値観の狭量さに驚くこともある。一つの目的を求め、そのために他人との競争を繰り返すと、生きる上での習慣として、無意識にその目的をもとに人を測るようになったり、自分に見えていないもの、自分と異なるものに関して想像力をおよぼすことが難しくなるのだろう。そして、自分が自明視している価値を疑わなくなる。正確に言えば、疑う時間もなければ、疑うことに意味を見出せなくなる。

変容型の学びの特徴

 変容型の学びは、一方で、すでに存在する価値観自体を疑い、自己の視野を広げて行く学びである。そこでは、出発地点と全く異なる地点に導かれて行くことがしばしばだ。

 誤解のないように言えば、変容型の学びにおいても、もちろん、目的を設定している。しかし、往々にして、その目的はあまりに漠然としている。例えば、上で述べたように、それは、「視野を広げる」「多様な価値観を学ぶ」などといったことである。いうまでもなく「どの視野をどう広げるの?」「それで何が得られるの?」「どんな価値観を学ぶの?」と言われても答えようがない。

 「視野を広げる」といった言辞は確固とした目的たり得ないと思う。それは方向性である。言い換えれば、「それが何かはわからないけれども、何かが得られそうです」ということの表明である。だから、「何が?」と聞かれると、答えられない。学んだ後ですら、「何を学んだの?」と言われると、「何か」としか言えないこともある。

そもそも明確な目標が設定されない変容型の学び

 明確な目的を設定する、研鑽型の学びに慣れた人々にとっては、もどかしく聞こえるだろう。おそらく、変容型の学びをする人々自身にとっても、これはもどかしいはずだ。それが何かはわからないけれども、「何か重要な物がある気がする」という予感により、学びを始める。そして、「何か重要な物を学んだ気がする」といって学びを終える。そもそも、目的を設定していない以上、そこが終わりなのかわからないし、そこで一旦終わりとして区切りをつけてよいのかもわからない(変容型の学びには終わりがない。本来「青春の墓標」は立てられない)。しかし、自分の責任において、一旦区切りをつけるのである。

 これは、研鑽型の学びに慣れた人々にとって、怠慢に聞こえるかもしれない。私は、この指摘は正しくないと思う。自己変容型の学びは、何を学んだか、言葉にするのが難しいからだ。だから、本人がその努力を行なっていると見受けられる限りにおいては、それを怠慢ということはできない。変容型の学びを真摯に行なった上で、必死に言葉を紡ごうとして、うまくいかない人々の言い澱みを、私は歓迎する。一方で、真摯な学びを全く行わず、怠慢に日々を過ごした上で、「私がしている勉強は、何を学んだとかそういうことを言うのは難しいのだよね」と言辞を弄する人々は、確かに問題外だ。

 しかし、いうまでもなく、だから自己変容型の学び自体に意味がないということにはならない。

対話を可能にするには

 自己変容型の学びの眼目は、あらかじめ設定された価値基準の中で優位をとることではなく、多くの価値基準があることを知り、それぞれに多様な人間のありようを知ることで、自分にとって異質に見える人々を理解し、彼らと対話し、究極的には共生を行う力を身につけて行くことである。他者を同じ人間として思いやり、助け合うこと。簡単に言えばそうなるが、これがいかに難しいか、ということはニュースを少しでも読めば明らかである。

 とりわけ、昨今、世の中で問題になっていることの大半は、自己の所属する体系の中に内閉することにより、異なる立場の人に想像力を及ぼすことができなくなること。そして、その結果として、自己利益の追求に邁進することにあると思われる。

 自分で書いていて、なんだか70年代くらいの雑誌『世界』の記事の劣化版を再生産しているような気分になる。題名をつけるとしたら「今こそ学びの再定義を」とでもなろうか。書いていてニヤニヤしてくる。すごくありそう。

 しかし、偽らざる感想として、そう思うのである。おそらく、領域横断的な学びが提唱され、広まってきた背景にはそのようなことがあるのだろう。その精神に薫陶を受けた学生たちが、すでに社会の枢要な部分に食い込んでいるはずだ。それでは現実はどうか?うーん。暗澹たる。