SUMMERY

目をつぶらない

滑らかに生きたい。明晰に生きたい。方途を探っています。

フィリップ・K・ディック『高い城の男』:偽の歴史と二項対立

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 大学一年生の時、シラバスでふと見つけた船曳ゼミに未だに参加しています。文化人類学者の船曳建夫先生のゼミです

 最近、そのゼミの読書会で、フィリップ・K・ディックの『高い城の男』という作品を読んだので、感想を書いておきます。

高い城の男 (ハヤカワ文庫 SF 568)

高い城の男 (ハヤカワ文庫 SF 568)

 

 

※ちなみに、同じゼミの読書会関連で読んだ本の書評記事としては以下のものがあります。よろしければあわせてどうぞ

summery.hatenablog.com

summery.hatenablog.com

 

 偽の歴史の入れ子構造

 この作品は日本とドイツの勝利というあり得たもう一つの現実=偽史を舞台としています。作中では、アメリカが勝利したという(作中内の観点から見た)偽史が流通しており、作品はその作中内偽史(=読み手にとっての現実)を読む人々のありように中心的に焦点化しています。

 この作品の眼目は偽物の歴史、あり得た世界とそれを読む人々との関係のありようにあります。

 個人は大きな歴史の流れから容易に外に出ることはできないが、それをわかりながらあり得たもう一つの物語を作ってしまう。そして偽にすぎないそれらの物語から力を得て、現実(=『高い城の男』の物語)が駆動されていってしまう。そのような偽史=フィクションと現実との関係性が描かれているのです。

 作中内で扱われるアメリカ側が勝利したという偽史は、終結部でむしろそれこそが真実であったと暴露されるのですが、偽のものが真実であったことがわかってなお、だからといって偽の側に反転してとらえ直される『高い城の男』の世界の人物たちが真実=アメリカの勝利した世界に向けて外に出ることはできず、現実的な戦勝国=ドイツの迫害は身に迫る危機としてあり続けています。

 だとしたら、真実を知ったことにいかなる意味があったのだろうかと思わずにはいられません。ということで、ここで作中内で流通する偽史の作者である「高い城の男」が、占いに助けられてその物語を書いたこと、そのことの意味は何かという問いがわきあがってくるでしょう。

 

書いてしまったものとの距離感の妙味

 『高い城の男』は偽の歴史を読む人々の物語であるとともに、偽の歴史を書く高い城の男=作家の物語であり、危機があちこちに伏在する現実に閉じ込められる人々が、そこから脱出しようとして読むこと、そして書くことの意味を問うた作品と私は受け止めました。

 あらゆるものが善と悪、真と偽の二項対立の図式に還元され得た冷戦期に、この物語は、その図式自体への懐疑を投げかけていた、ととりあえず言える気がします。このように大まかに言ってしまえる作品は多数存在すると思うのですが、この作品も大きくはその一群の中にあると考えられるのです。

 真も偽も作られるものであり、かつまたある事柄が真であるか偽であるかがわかったとして、それとは関係なく危機は迫ってくる。にも関わらず、真なる物語を書くのは何故か、という問いに戻りましょう。

 「高い城の男」は何も真なるものを書こうと言う当為により書いたのではなく、占いに導かれて、それを書いたということでした。つまり、何かしら魔術的な力に駆動され、思いがけず真実にたどり着いてしまった男であるということになります。

 だからこそ、高い城の男はそれの持つ意味を測りかね、真実性の力に取り込まれすぎないように、自分の書いてしまった作品からあえて距離を置いているように見受けられます。

 ウィキペディアによれば、この作品はディックの作品の中で例外的にまとまりのよいものであるとのことですが、それは高い城の男の、自分の書いてしまったものに対する距離感と同様の源から発しているのかもしれません。自己の書くものに過剰に接近しすぎると物語は大抵、過剰さや過度な曖昧さによる自己崩壊を引き起こすなどして、綺麗に終わることのできないものですが、作中内の高い城の男のように、ディック自身も自分の書いてしまった『高い城の男』という作品から、一定の距離をとろうとしているように考えられます。

 

真と偽との往復という主題

 作品は偽の歴史の世界に舞台を置き、舞台内での偽の歴史=現実世界である作家ディックの生きる現実における真の歴史にたどり着くことで幕を閉じます。もちろん、最終的に「真」に位置付けられた作中内作品も細かく見ていけば、作家ディックの生きる現実世界との異動が見受けられ、このような作品内部で「真」の位置付けを与えられた歴史と現実の歴史との間の揺れをひもとかなければ滅多なことはいえないのですが、真実にたどり着くことが二項対立の世界からの脱却=外部への脱出を示すのではなく、むしろまた別の二項対立の世界=もう一つの内部に入り込むというデモーニッシュな反復が印象的でした。

 だからこそ、出発点でも着地点でもなく、ある内部からもう一つの内部への移動、書くことと読むことを通して演じられる移動を描く作家の眼差しこそが、作品の本領と感じられます。

繊細さを失わず、生活を見つめる:津島佑子「水辺」

 昨夜は眠れなかった。築30年を超える私のアパートの窓は、時折激しくガタガタと鳴って、その度にまどろみから覚まされた。そして、このような嵐の夜に、その風雨の影響を受けず曲がりなりにも睡眠をとることができるとはなんということだろう。住むべき家があって本当に良かった、という安心感から再び眠りにつくということを繰り返した。

 

 あとから読み返した時に思い出しやすいように、この度の台風に関するニュースをはっつけておく。

www.tenki.jp

 

 

 明けた今日、台風一過。素晴らしい天気である。部屋が明るくなって風が吹き抜ける。

 

 爽快感に突き動かされるように、津島佑子「水辺」(以下、引用は『光の領分』(昭和54年9月、講談社)より)を読んだ。

 

光の領分 (講談社文芸文庫)

光の領分 (講談社文芸文庫)

 

 

 夫との離別から一人で娘を育てなければ行けなくなった母の、生活へのかすかな期待と不安感とが、相互の葛藤が織りなす繊細さを捨象しない形で丁寧に掬い上げられる。第一に印象に残ったのは次の一節。

 

娘の父親であり、私の夫である男だが、私はすでに一ヶ月以上、その男の知らない、知らせようもない、とりたてて大きな事件は起こらなかったが、その平穏なことに、かえって、これからの日々への恐れを膨らませずにいられないような生活を続けてきてしまっている。安定を保てるはずがないのに、一向に倒れず、それどころか、そのまま根を張り、新しい芽さえ覗かせようとする、歪んだ、こわれやすい、透明なひとつのかたまりを眼の前にしているような心地だった。それが見えるのは、私の二つの眼だけなのだ。藤野と再び、夫婦として、なにげなく顔を合わせるには、私はあまりにも、この新しく自分に手渡された不安定なかたまりに愛着を持ちはじめていた。(43-44頁)

 

 「私の二つの眼だけなのだ」という箇所に、不安定な足場に立ちながら、揺れ動く生活の実相を見つめる覚悟を感じ、はっとする。

 一人暮らしを始めた自分は、自分の二つの眼によって、眼の前に去来する複数の不安定性をしかと見つめられているか、それ以前に、見つめようとしているか、と考え込んだ。

 第二に印象に残ったのは次の一節。

 

藤野から電話が掛かってきたのは、その次の日の夜だった。私には、ますます藤野の気持をこじらせるような応対しかできなかった。藤野の声を聞くたびにどうして足が震えるのか、分からなかった。

 同じ夜、私は自分が銀色の星の形をした器のなかに坐っている夢を見た。器は少しずつ回転を速め、気がつくと遠心力で、私の体は平たくなり、壁に貼り付いていた。許して下さい、と叫ぶと、中学生の頃の同級生が私の星を見上げて言った。

〈あなたは、どうして、そう、だめなの〉

 同級生と言っても親しく口をきいたこともない、ずば抜けた成績の持ち主だった。いつも級長に選ばれていたのはともかく、容姿も整っていたので、男友だちも多かった。それにしても、あの人を今頃、夢に見るとはそのこと自体、馬鹿げている、と思いながら、そんなことを言われたって、だめなものはだめなんだもの、と涙を流しながら弁解をしていた。それに、これでも見捨てずにいてくれる人だっているわ。本当よ。きっと、いるわ。(45-46頁)

 

 他のようではあり得ない自分に関し、許しを請い、請いながら許しの到来を薄弱な確信とともに待ち続ける。「きっと、いるわ」から受け止めることができるのは、信仰というテーマと思われる。

 屋上における給水塔の漏水といった小さな事件をきっかけにして、語り手が直面する日常生活における問題のその先が見えたり、あくまで解決に至らない部分の堅固さが改めて確認されたりする。その繊細な筆致に感銘を受ける。

 私たちが直面する問題、その困難、その解決の糸口はどこか遠くにあったり、何か大々的な事件の末にやっとその全貌が明らかになるのではない。常にそれらは手の届くところにあり、「二つの眼」で生活の細かな事象を逃すまいとして見るものに明らかになるのだろう。

 

 今日は森鴎外記念館のモリキネカフェに行った。悪くなかった。そのあと、東大の総合図書館に行ったが、入館証を忘れて入れなかった。無念。

「やりがい搾取」の弊害

 今日は顧問をしている部活動の練習試合があったので、1日学校にいた。

 いくら仕事場である学校にいるとはいえ、部活動のための休日出勤である。だから、本来は自分の好きなことをしていていいのだ。実際に同じように休日出勤をしている同僚たちは思い思いのことをしている。大きな声ではいえないが、インターネットゲームをしているものもいる。

 しかしこの辺りは僕の弱いところで、いくら休日とはいえ、職場は職場なのだから、本当に自由にしてはいけないという意識がどこかから顔を出し、結果自由にできない。いや、行為だけ見れば自由にしている(漫画を読んだりツイッターをすることがある)のだが、「このように自由にしていていいのだろうか」という疑いから無縁ではない形でそれらをしているので、結局心のそこから自由を謳歌しているという気分にはとてもなれないのである。

 それに、腰まわりや肩周りの筋肉があまりない僕にとって重要なのは寝転がる動作である。が、学校は、おおっぴらに寝転がれる場所に乏しい。僕はもちろん、保健室を開けようと思えば開けられるのだが、いくら自由にしてよいはずの休日とはいえそこまではできない。いや、できるのか?していいのだろうか、保健室での昼寝を…?だめだ、それは。それくらいは、僕にもわかる。何か緊急の事柄が起きた時、顧問の僕が保健室で寝ていたら首が飛ぶだろう。一応、監督者として来ているのである。

 

 部活の顧問になることに関して、実は僕はやぶさかではなかった。

 部活動の顧問を教員たちがほぼ無給でやっていることが社会問題化し始めたここ二、三年の流れを受け、当然に僕も、そのような労働形態が不当であるということは声を大にして言いたい。

 ただ、それはそれとして、僕自身の中には手当の有無に関わらず、部活動に関わりたいという気持ちが確かにあったのである。そして自分で、それは大変に不純な動機であるとわかっていた。

 なぜ部活に積極的に関わりたいのか?一番は、「生徒の成長を目の前で見守りたいからである」。ほとんどクリシェと化しているこの文言は、おそらく、こう言いかえられる。つまり可塑的で素直で自我が未発達な子供達に自分の影響力を及ぼしたいのだ。そのようにして、人に対する影響力の高まりにより、僕は喜びを感じるたちなのである。

 自分が生徒だった時の頃を思いおこそう。積極的に関わろうとしてくる教員には禄なのがいなかった。当たり前だ。教員を初めてほとほと実感するのだが、身体的・精神的な観点から言えば、生徒はほっといても育つのである。僕たち教員の役割として最も重要なのは、彼らが社会に出たときに必要とされる技術を身につけさせることだ。ことこれに関して、生徒が勝手に身につけることはあまりない。学校の授業でやらず、従ってテストで追い立てられることもなく、入試にも出ない教科を多くの生徒が学ぶことはまずない。

 例えば国語の教師としての僕の1番の役割は、目の前にある文章を書かれてある通りに読む力を身につけさせることである。次に、それを批判的に読ませることがくる。僕の役割は、生徒たちの人生におけるパトロンになることでは全くない。

 これは当たり前のことかもしれないが、学校現場で働き始めて驚かされるのは、生徒に慕われたい、彼らと精神的紐帯を結びたいと、陰に陽に思っているであろう教師が案外多いことだ。先に述べたように、僕もそう思っている。そういう動機から、部活でもやるか、と思っているのだ。

 というか、無給なのに部活の顧問がやりたいと積極的に思うなんて、それは生徒と関わりたいからに決まっているじゃないか。

 ということで思うのだが、部活のための手当がほとんど出ない現状における被害者は、何も教員だけでなく、自分の実存を満たすために顧問になる教員と接しなければいけない生徒全般だと思う。

飲酒事故で亡くなった東大生の高原くんに関する記事を書いた

 前回の記事で、僕は次に2012年に飲酒事故でなくなった東大生の高原くんに関して書くと述べた。

 

summery.hatenablog.com

 

 その記事を、僕は今参加している別のブログに書いた。

queerweather.hatenablog.com

 昨日サイゼリヤで一人ワインを飲み、若干酔い始めていた時、ふと「書こう」と思って一気に書いた記事である。もう少し書けるとは思ったが、現時点で書けるものを全て書きつくすのが、ことこのような事柄に関して、よいこととは限らない。

 この記事の末尾で書いたように、今僕にとってなにより重要なのは、彼を失ったことの悲しみを、僕の中で静かに深めていくことだろう。

 

 今日は気怠い真夏の休日であった。引っ越すための荷造りと称し、実のところは部屋でごろごろしていた。

 仕事は面白いこともあれば、つまらなくてたまらないこともある。そのように波があるということが、救いである。全てつまらなくてたまらないことだらけになれば、僕は転職をするだろう。今は、一応毎月新しい風景が拓けているという感覚があるので、この感覚が持続するうちは続けようと思う。

 

 

物語の力/創作の力とは何か

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 最近、twitterで自分と同じように、中高の教員をしている人をフォローするようになった。そうしてフォローした中の一人がつぶやいた以下のようなつぶやきが、昨日私のタイムラインに投稿された。二つの企業に内定した卒業生に対して、教員をしているツイッタラー、「あすこま」氏が投げかけた言葉に関するものである。

  

進路相談してきた彼に言ったのは「どっちを選んでも楽しいよ」ということ。人間の、「自分の人生もなかなか捨てたもんじゃないな」と信じたがる「物語創作」のパワーを僕は信じてる。まして言葉の力のある彼なら、どっちを選んでも、きっと満足する物語を作り出せると思う。

— あすこま (@askoma) 2017年6月30日

  

 上記のつぶやきに関し、僕は違和感を覚えたのである。

 

「「物語創作」のパワー」とは

 違和感を述べる前に断っておけば、僕は上のあすこま氏の、生徒の背中を押すような指導のあり方と、生徒がどのような選択をしようが「自分の人生もなかなか捨てたもんじゃない」と思うことができるようにあれかしと願う気持ちには好感を覚える。教師はそうあるべきだと、無責任な同意を送りたくなる。

 

 しかし一方で、「「物語創作」のパワー」を自分の人生を肯定することに結びつける氏の議論には首をかしげてしまう。

 何か語ろうとする事柄があり、それを語りたいという欲望があり、そしてそれを仔細に語りつくそうとすること。それを徹底的に行おうとすれば、多くの場合、当初自分の想定したものと異なるような結末に至るものではないだろうか。もしくは、何ということのないはずの細部や断片が思わぬ意味を持ち始めて、物語が単一的な線を逸脱し、自己瓦解に導かれるものではないだろうか。

 「「物語創作」のパワー」は、自分の生き方を、自分にとって肯定的なものとして認識するための、単なる技術に還元されるものではない。そう僕には思われるのだ。

 

 創作は必ずしも人を幸せにしない

 おそらく、あすこま氏は、物語創作を授業に取り入れることで、生徒たちが「自分の人生もなかなか捨てたもんじゃない」と思うことができるような技術を生徒たちに授けたいと思っているのだろう。氏の教育実践との関わりから、上のつぶやきは読まれるべきであると考えられる。

 もちろん、それができるのは一つの力だ。いかなる状況にあっても、「「物語創作」のパワー」により、「捨てたもんじゃない」と思えるのなら、その人は大丈夫だろう。国語科の目的に「生きる力」の養成を置くのであれば、あすこま氏の主張は一定の正当性がある。

 

 しかし一方で、僕自身は、それをどうしても行うことができない生徒の立場に立ちたいと思っている。

 そもそも、それができない生徒らは、「「物語創作」のパワー」を持たない故に、そのような状態に陥っているのだろうか。むしろ、事態は逆であろう。

 「捨てたもんじゃない」と言い切ってしまうことに違和感を禁じ得ず、常に「本当は自分の生などどうしようもないものなのではないか」という不安と戦う生徒の、その不安もまた、「「物語創作」のパワー」により生じてきている。なぜなら、彼らは、「捨てたもんじゃない」で語りを終えることができず、さらにまた、語るべきことがらを見つけてしまうからだ。彼らは創作のパワーを有するが故に、創作が終わってもなお創作を続けるのである。

 自己の人生を肯定的にとらえたいという自分の中の欲望や、「お前は自分が幸せでないとでも言うつもりか?」という周囲の無言の圧力。それらから不可避に生まれてくる、「「捨てたもんじゃない」人生」という名の支配的な物語は、都合のいいところで終わることに争い、終わってなおも創作しようとする強靭な語りの力の前では往々にして、掘り崩されてしまう。

 

 物語の創作を、徹底的に行おうとすること。それは必ずしも人を幸せにしない。それはむしろ、幸せと自認していた生活が思いがけず抑圧していたものを暴露することになりかねない。結局、創作の力の極北には、創作が創作でなくなってしまう地点がある。 

 

創作を破壊する創作の力

 そこまでいかない段階で、自分にとって都合の良い物語を作れるような技術を学び取り、人生を幸せに生きていこう、という主張はよくわかる。と同時に、物語る力の欠如ではなく、むしろ物語る力の過剰によって、それがどうしてもできない人たちがいることが、繰り返しになるが、僕には気になってしまう。

 そして、僕自身の中には、そのような物語る力の過剰さとともにある生徒らに対する願いがある。

 それは、「本当のところ自分の人生はどうしようもないもの(捨てたもの)かもしれない」という不安を持ちながら、「しかしそれがなんだというのだ、それでも僕は生きる」といきりたって生きていってほしい、という願いだ。「なかなか捨てたもんじゃない」というような脆弱な物語でかろうじて生きながらえるのではなく、否定性の中でも立ち上がって欲しい。どうか語るのをやめないで欲しい。

 

 物語る力の過剰さの中で、いくつもの物語を最終的に完結させずに終わる子らは、綺麗にまとまった物語のうさんくささを知るだろう。そうして、自分を究極的な局面で生かすのが、いま自分を支配している物語の枠組みの論理から考えた時、むしろ違和感を感じさせるような言葉だということがわかるはずだ。

 どういうことか。

 例えば、物語があなたを破滅に導こうとする際に「それでも僕は生きる」と生を引き受けるときの、「それでも」という言葉は「どうしようもない生」という不安を抱えた時の「なら死んだ方がマシ」という自然な帰結における「なら」に比べて、順当な接続ではないという意味で、物語内論理に従わない接続をもたらしている。しかし、そこで「それでも」と言ってしまうことで、私たちはその地点から、また別の物語を立ち上げることができる。

 

 支配的な物語から逃れ、新たな物語、自分自身の物語を開始することは、支配的な物語のストーリーラインから見れば奇妙に思われるような接続、または文法の破格によってもたらされる。それは、既存の物語の枠組みから見た時、むしろ話者の創作の力の欠如・瓦解を意味する言葉の使用だろう。

 しかし僕は、それもまた創作の力に他ならないと思う。それは、すでに創作されたものに対する破壊の一撃を加える。体裁の良い物語、耳障りのよい物語を生産することとは少し異なるところにある、物語の破壊と表裏一体の物語る力。それを僕は、幸せな物語に容易に安住できない子らに、身につけていって欲しいと思うのである。

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 本記事で述べた考えを一つの背景にしつつ、村上春樹の作品についてまとめた記事があるので、よろしければどうぞ

summery.hatenablog.com

summery.hatenablog.com

お知らせ:別のブログに参加していることについて

別のブログに参加しています。

 最近このブログの更新頻度が低くなっているのですが、書くこと自体をやめたというわけではなく、大学時代の友人たちと、別のブログをやっていて、そっちで書いているのです。

 そっちでは名前を変えてやっており、また、開示している個人情報の範囲も異なるので、こちらと紐づけるべきか迷ったのですが、僕が日常過ごす中でふと感じた諸々のことを記録するというこのブログの趣旨にてらして、こちらでもリンクの形で紹介していこうと思います。

 具体的には、On the Homefrontというブログに参加しているのです。

 

queerweather.hatenablog.com

 

 この中で、僕は「江藤」という名前でやっています。なぜこのブログをはじめたのかということに関しては、僕が最初に書いた

queerweather.hatenablog.com

 を参照してください。

 今後も折に触れて、向こうで書いた記事に関し、こちらで紹介します。それによって、こっちの更新に変えようという魂胆です。ある程度中身のあるものを書こうとすると、週に一本程度が限界かな、と思われたので。

 

 よろしくお願いします。

 

高校演劇という不幸/高校時代の同窓会に参加してきた

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 昨日、高校の友人たちとの小規模な同窓会に参加して来た。かつて皆で作った演劇を放映し、会は盛り上がりを見せた。

 会を通して、当時はどうしようもないと思い、それを作ったという経験を思い起こすたびに自己嫌悪に陥っていた劇が、案外面白かったという嬉しい発見をした。それとともに、未熟な高校生に未熟な演劇を作らせることの教育的意味に関して、考えたことがあった。

 

 唾棄すべき「未熟さ」を伴う劇

 高校生があまり観客のことも気にせずに作る劇なのだから、当然だがつっこむべきところは限りなくある。当時はそれが気になって仕方がなかった。

 もちろん、演劇は誰か特定のものの占有物ではない。未熟な高校生こそが作るべき演劇というものがあるはずだ。だから当時の僕も、何もその未熟さから、自分たちの作り得た演劇に否定的評価を下していたのではなかった。「未熟さ」が唾棄すべき「未熟さ」としてしか現れないことに苛立っていたのだ。

 どういうことか。

「未熟さ」を生かす枠組み

 例えば、テレビに出るような俳優が出演する、一般的な舞台芸術、オペラ、劇団四季のような舞台を想像されたい。

 そのような舞台の上である役者の体の動きが、役者にふさわしくないような動線を描いたり、妙に左右に傾いていたりすれば、観るものは「役者としての身体」の「未熟さ」を感じるだろう。そして、その原因として、練習不足などを想起するだろう。

 しかし、前提とする舞台が変わればそこで要求される「身体」の規範も変わる。むしろ「役者としての身体」から逸脱する余剰など、「未熟さ」と名指されていたものこそが、通貨となる舞台を想定することは可能だ。実際、チェルフィッチュのように本来正統的な劇の舞台から切り捨てられて来た身体の動きをむしろ前景化させる劇を想像すれば、そこで要求される身体が、劇団四季のような身体と大きく異なることがわかるはずである。

 話を戻そう。

 だから、演劇を生業としていない高校生−−−どうあがいてもプロほどの練習時間をとることができないし、それほど技巧を凝らした脚本を作ることができないという意味で「未熟さ」を抱えた高校生の、その「未熟さ」が、むしろ強みとなるようなあり方は可能であると当時の僕は考えていた。

 それには、その「未熟さ」が生きるような枠組みの転換が必要だ。完成した「役者としての身体」を持つ役者らが、よく通る声できびきびと動くような、規範的な演劇像から脱却した劇の枠組みを設定できなければ、僕たちの劇はどこまでも「プロの作る演劇の劣化版」、悪い意味での「未熟さ」を抱えたものになるだろう。

新しい演劇は生まれず…

 そして、端的に言えば、僕たちは高校生なりの未熟さを武器へと変えることができるような劇の新たな枠組みを設定することができなかった。「僕たち」と書くのは不適当かもしれない。この問題意識がそもそも共有されたとは言えないからだ。どちらにせよ、僕たちの劇は凡庸で未熟な高校演劇に終わってしまった。それが、僕の後悔だった。

 そうしてまた、劇団などではよくあることかもしれないが、作劇の過程で一人が離反してしまった。全員でゴールを切るにはいたらなかったのだ。これも、それなりに辛かった。