SUMMERY

目をつぶらない

滑らかに生きたい。明晰に生きたい。方途を探っています。

テッド・チャンにおける〈愛への信仰〉の主題―「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」(2010)から

f:id:Summery:20191125124729j:plain

 大学一年生の時、シラバスでふと見つけた船曳ゼミに未だに参加しています。その読書会関連で標題に掲げた作品を読んだので、今日はそれについて考えたことを書きます。

※この読書会の関連で読んだ作品について考えたことをまとめた記事として、他に以下のものがあるので、よろしければこれらもご笑覧ください。 

summery.hatenablog.com 

summery.hatenablog.com

 

テッドチャンとは誰

 テッド・チャンとはアメリカ在住のSF作家です。代表作は『あなたの人生の物語』という短篇集で、原書は2002年、訳書は2003年に早川書房から出版されました。

あなたの人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)

あなたの人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)

 

 

 そして17年の時を経て、2019年にチャンの第二の短篇集『息吹』の原書および邦訳(早川書房)が出ました。

息吹

息吹

 

 

テッド・チャン作品を貫く主題

 邦訳『息吹』の訳者あとがきで訳者はこの作家について、『ニューヨーカー』にジョイス・キャロル・オーツが寄稿した長文の書評「SFが描く未来はディストピアとはかぎらない」から引きつつ以下のように紹介しています。

『息吹』では、生命倫理、仮想現実、自由意志と決定論、タイムトラベル、ロボットに搭載されたAIなどに関する現代的な問題が、飾らないストレートな文体で語られ、技術的な発想から倫理的な葛藤が生まれる。[中略]『息吹』に収められた短篇群は、答えのない謎かけのようにいつまでも心に残り、読者を焦らし、悩ませ、啓発し、ぞくぞくさせるだろう―と、オーツは書評を結んでいる。*1

 私は正直SFというジャンルが得意ではありません。SFでは現代に萌芽がある科学技術が進歩したのちにありえる世界が、作者の科学に関する知見をもとに一定の厳密さで堅固に形作られている印象があるのですが、私はそうした学的厳密さに息苦しさを覚えるタイプで、端的に読んでいて疲れてしまいます。それでも頑張ればフォローすることは出来るのですが、なかなかその気にはなりません。したがって、早川文庫などにはほとんど食指が伸びず、伸びたときでも読み切らずに終わってしまうことがしばしばです。

 ところでテッド・チャンあなたの人生の物語』に関しては何よりもまず短篇であることや、高校時代の友人が強烈に勧めてきてくれたことから、何とか読み切ることができました(しかし今改めて読むと、当時その内容の大部分を理解していなかったことがわかります)。

 テッド・チャン作品はジャンル的にはSFであるものの、その重要な主題はと問われた場合熱心な読者の多くが〈自由意志の可能性〉と並べて〈愛〉と答えるのではないでしょうか。科学技術の発展は人間の認識のありようや生のスタイルを変えてしまいますが、その中で都度新たな角度から試される、人間性―人間が人間である限り捨て去ることができないもの―の一つの核心としてチャンの作品では〈愛〉が掲げられているように読めます。もちろん短篇それぞれに〈愛〉の主題の現れには濃淡があるのですが、今回の記事の題に掲げた「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」については、親子愛に近いものが主題です。以下筋を大まかにまとめてみます。作品中でディテールは詰められていますが、到底すべては理解がおよばず、一つ一つについてここで説明しきることも難しいのでその辺りは割り引いてお読みください。

 

「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」(2010)の概略

 物語はデジタル生物である「ディジェント」というAIを一から育てるブリーダー役の女性・アナと、同じようにディジェントを育てるデレクという男性に焦点化した語りで構成されています。ディジェントのブリードには人間や動物と同じくらいの時間がかかることになっており、アナはそれを自分の実の子のように愛します。しかし、ディジェントとそれが稼働するプラットフォームのプログラムは急速なIT技術の進展の中にあって徐々に古びていき、セキュリティ上の問題が生じたり、サイバースペース上でできる活動の範囲が狭くなっていったりするなど、育成したディジェントが一個の人格として人間が通常持つような権利が事実上保証された上で自由にのびのびと生きていけるような環境を整えるだけでも大変な労力がかかるようになってきます。

 アナとデレクは、育てたディジェントの今後を考え、彼らのプログラムをアップデートするための資金を調達するとともに、彼らが自力で資金を調達することができるように雇用先を探すことを試みますがどちらも奏功しません。最終的に彼らに資金提供を提案してきたのはディジェントを性的消費の対象として用いようとする会社でした。

 もともとディジェントはソフトウェアで、身体を有しておらず、生殖行為をしないので性欲もなければ性的快楽を感じもしません。資金提供を申し出た会社はディジェントのプログラムを書き換えて性的な回路を確保したうえで、人間と同じような感じ方・考え方をするディジェントの経験を操作し、対象顧客との間に幸福な性愛関係を涵養しようとします。彼らの目的は、両思いの人間同士がもつ性愛の体験と同じものを提供することができる娼婦を作ることです。ディジェントの経験を操作できれば、対象顧客に自然な形で惚れ込んだ人間と同じプログラム上の人格が生まれるため、それを利用して所期の目的を達成しようとするわけです。

 当然娼婦にするためにディジェントを育ててきたわけでないオーナーたちは反発しますが、自分から進んで快楽へと開かれていこうとするディジェントが現れたこともあり、一部はこの提案を受け入れることになります。

 

〈愛〉をめぐる物語

 この作品のはらみ持つ主題はいくつもありますが、私が面白いなと思ったのは以下の二つの主題の関係です。まず作品中で私が注目する二つの主題がどのように現れていたかを示します。

 ①愛が犠牲にするものの大きさ

 アナは自分のディジェントであるジャックスを気遣い始めてから人生のほとんどの時間をジャックスの教育に費やすことになります。現実世界でアナは結婚しもするのですが、夫との関係はわずかにしか語られません。

 手をかける相手が実の子であれば社会的承認は得られ、法制度上も守られますが、対象がソフトウェアなだけに、周囲からアナは折に触れて理解不能なふるまいをする人物として扱われてしまいます。それでもジャックスのことを愛し続け、彼らの擬似的な親を自認するアナの様子から、愛というものが犠牲にするものの大きさが納得されます。 

 ②性愛が構築されたものとしてありうること

 作中では子供を性的存在にするかしないか、ブリーダーやディジェント自身の判断に委ねられています。ディジェントを娼婦にしようとする会社が登場したことで彼らがその選択を迫られていることから、ディジェントを性に目覚めさせることが、彼らが性的搾取の構造が組み込まれることとイコールになっていてなかなかに過酷な状況です。しかしこれは案外現実のアナロジーとしてもとらえられます。たとえば自分の子を性的存在としての「女の子」として育てることは彼女を社会で主流の性規範に組み込むことを意味しています。大分レベルは違うことを承知の上でいえば、現実において子が性的搾取の構造に組み込まれて行く際、親が、子を娼婦として売り飛ばす、というようなわかりやすいことをしない場合でも、言説実践のレベルにおいては相応の責任があることになります。

 作品中ではディジェントを娼婦として扱おうとする会社の社員が子供のころは男性とキスしたい、付き合いたいとは思わなかったけれど、教育の結果もあり、男性とのお付き合いを楽しむようになった、というようなことを語ります。この社員の語りは性愛が多かれ少なかれある主体に外から植えつけられたものによって駆動されることもある現実に言及することで、ディジェントの経験を操作して、本来彼らが好きにならなかったであろう人を好きにさせるのも注意深くやれば必ずしも彼らの権利の侵害とは言えないことを示唆し、彼らの会社の行おうとしていることを倫理的に正当化する役割を果たしていました。

 

〈愛〉に固有の価値とは何か?

 ①だけ見るとやはり科学技術が進展する中にあって〈愛〉というものの価値を改めて強調しようとしているのかなと思われますが、②まで来ると、そうした〈愛〉自体が教育により構築されたものであるということが強調され、翻って①で見られたアナのジャックスに対する外から見ると「狂信的」とされうる〈愛〉が一瞬脱神秘化されるような印象を受けます。しかし、チャンの力点は、そのように〈愛〉が構築されたものであるという前提を引き受けるにしても、その上でなお、ある主体が抱く〈愛〉には固有の価値があるというところなのではないかと考えられます。

 チャンの思考実験的世界は様々な側面からある主体がある対象に全く偶然かつ運命的な形で内発的に抱いてしまう感情としての〈愛〉の価値を掘り崩そうとしていますが、だからこそ、ジャックスのために死力を尽くし、ジャックスを娼婦として差し出すことを拒絶してソフトウェアの内面の自由を守ろうとするアナの姿は際立ちます。そして、ジャックスを娼婦として差し出さないアナの振る舞いは、ジャックスが操作されることのない自由な恋愛をしうる可能性を担保することともイコールで、それは自分自身がジャックスに抱くような愛の内発性を擁護しようとする行いともとれます。

 〈愛〉固有の価値とは何か。その答えが小説内でわかりやすい形で提示されているようには思われません。しかしそれはこの小説の瑕疵ではなく、むしろ小説を小説足らしめる魅力的な空白となっていると考えられます。というのも読み手としての私は、この流れでどう〈愛〉の価値を主張するのだろう、と問うことによってこそ、小説と最後まで付き合うことができたからです。あえていえば〈愛〉固有の価値があるのかないのかはっきりわからない状況下で、しかしその固有の価値を信じ、守ろうと奮闘を続けるアナの姿こそが、チャンの差し出した回答なのだと考えられます。

 

〈愛への信仰〉の主題?

 以上を前提として言うのなら、私はテッド・チャンの小説の主題として〈愛〉、〈自由意志〉よりも、〈「愛」や「自由意志」と呼ばれているものの持つ価値がありうることへの信仰〉が挙げられるのではないかと考えられます。その存在が自明ではないそれらがありうるということを信仰する人間のありようを描くことを通じて、チャンは科学技術の進展の中で磨耗することのない人間性を描き出そうとしているのではないでしょうか。

 

 

*1:テッド・チャン大森望訳)『息吹』、早川書房、2019年、417頁。