SUMMERY

目をつぶらない

滑らかに生きたい。明晰に生きたい。方途を探っています。

近況報告:茗荷谷のサンマルク、コンテンツの記憶

f:id:Summery:20210221164049j:plain

 

たまに近況報告をするだけのブログになっている。引きこもり生活の引き起こすコミュニケーション不足で若干やられ気味。だけれどもコミュニケーションがそこら中にある生活もすごく嫌。どのくらいがいいバランスなのかよくわからないままお母さん私は半年経たずに30歳になります。

 

茶店から公園へ

ここ二か月ほどは喫茶店がどこも20時頃にしまってしまうということもあり、家で読書なり勉強なりがはかどらない私にとってはなかなか辛い期間だった。暖かければ公園で本を読むなりどうにでもできるのだが、こう寒いと難しい。

それでも、夜半に家でだらだらしてしまう自分に苛立ち本を持って家を出て、公園のベンチで読み始め30分後芯まで冷え切った体で憮然として戻ってくる、というようなことは何度かやった。不如意であった。

やっと暖かくなってきて嬉しい。まだ寒い日もあるけれど、週に二回でも三回でも、夕方から夜にかけて公園で本を読めるようになってきた。こんなに暖かくなるのを待望したのはこの人生で初めてかもしれない。暖かい日を迎えるたびに春が来ると言うのは嬉しいねぇ……と素朴に何度も感じてしまう。梅の花が咲いたのを目にしたのは先週くらいかな。気持ちが明るくなった。

 

茗荷谷サンマルクがつぶれた

幸い私も私の家族も健康そのもので、コロナによる被害と言って身に迫る形ではないに等しい。しかしそれは客観的に見た時の話。何千人も亡くなり、医療現場はひっ迫し……というのを聞くと私が受けた「被害」はあんまり小さいもので言うもはばかられるけれど一応ここに記録しておくと、身に迫る形で私が受けたコロナによる「被害」は茗荷谷と春日のサンマルクが閉店になったことでした。

これは本当にショックだった。三年半前一人暮らしを始めた直後に見つけ、それぞれ毎週必ず二回以上は通っていた。特に茗荷谷サンマルクは思い出深く、教育の森公園を散歩したり文京総合スポーツセンターでプールに入った後にコーヒーを飲みながら日記を書く、などということは完全に私のルーティンの一部になっていて、最近ブログの更新が滞りがちになってしまった原因の一つがこれだった。気づまりな部屋でも喧騒に包まれたファストフードやファミレスでもなく、静かで広いサンマルクは私にとって貴重な、考えごとがはかどる場だった。きらきらした筑波大附属小学校生のママさんたちや受験勉強をする周辺のおそらく非常に聡明な中高生、放送大やお茶の水女子大の学生たちや小ぎれいだけれど実態は半分ニートだろうと思われる20-30代の文庫本をいくつか持った男性(私もここに入る)、このあたりにはこういう人たちが住んでるんだなと知るきっかけになった。基本的に職場と大学にしか居つくことのない私にとって貴重な地域を知る場でもあった。

茗荷谷駅出口の真ん前にあり、「静か」ではあったもののお客さんは多かったし、まさかつぶれると思ってなかった。跡地に新しい喫茶店ができるかな、と淡い期待を抱いてつぶれたあとも何度か前を通り過ぎてしまった。その後セブンイレブンが入ることがわかりがっかり。久々に脱力した。

 

ある時期の記憶とその時期によく聞いた音楽が結びつくことがある。サンマルクのBGMで、私の移動ド唱法(はじめてこの言葉をテスト以外でつかった)では「ドーレーミソ― ミミミーレードミ― ドーレーミソーラソシーラーソーファーミファー」となる曲がそれで、最近たまにコロナでも潰れなかった巣鴨サンマルクに行くのだが、そこでこの曲が流れると夏休みプールの帰りに茗荷谷サンマルクで日記を書いてた日々が一気によみがえる。

 

 

コンテンツを消費した記憶の共同性について

アニメからは最近ずいぶん離れていたがアニメに関する以下の記事を読んで思わず何度もうなずいてしまったので少し書く

 

realsound.jp

 

記事では最近アニメーションの世界でリバイバル作品が増えていることについて、分析がなされる。リバイバル作品の増加は広く共有される経験や記憶が希薄な現在において、あるコンテンツを消費した記憶を媒介に共同性を担保しようとする試みとして捉えられる。またそこには、ある時期ある作品を観たという集合的記憶を、その後どのように再召喚するか、という問いも付随している、と。これは非常に納得感があった。

引き合いに出されているのはデジモンアドベンチャーの後日譚Last Evolutionやおジャ魔女どれみの後日譚『魔女見習いを探して』といった作品。また、後日譚ではないが、過去に上映されたジブリ作品の再上映企画。おジャ魔女は残念ながら観ていないが、千と千尋はもう一回映画館で観ようと観に行ったし、デジモンLast evolutionはトレイラー観る限りでは駄作っぽかった……のに観に行ってしまった。その理由にそうしたコンテンツを消費した記憶を再召喚し同じように当時観た人たちとの共同性を構築しようとする方向性があったのでは? と言われると、言い当てられたような気分になる。なるほどね、と思う。

 

以前ブログに書いたけれど、デジモンはひどかった。不満たらたらだった。素直でまっすぐで感受性もそれなりに高そうなタケルとヤマトが頭空っぽな大学生になっており、全然信じられない世界だなと思った。他方上の記事との関連で言えば、過去の記憶の召喚はたしかに行われていた、というかそのものの話だった。簡単にあらすじをまとめると、デジタルモンスターが到来するのは〈選ばれし子供たち〉と呼ばれる子供たちで、彼らが大人になるとデジモンは消えてしまうのだが、そうした制約を破りデジモンとの幸せな時間を永続化させようと、異世界に特異な時間性のトポスを作って、デジモンとそのパートナーたちを誘拐し、そこに閉じ込めようとするメサイアコンプレックス気味な人が現れる……。

 

ストーリーは糞of糞なのに私は泣きそうになってしまったのだがそれはやっぱり、デジモンを見て、私もこういう、傍らでいつも一緒に居て、一緒に遊んで一緒に戦える存在が欲しいなとぼんやり思いながら過ごした一時期があったからで、そういう時間やその時期の身体が再召喚されるわけ。映画館の人たちの、特に大人は多くがたぶんそうだったと思う。上の問いに戻れば、それが単に一人ひとりが自分とデジモンという作品との関りを思い出すことにとどまらず、何らかの鑑賞者の側でのコンテンツとかかわった記憶の交流が行われるところまでいけば、ただ受動的に消費する映画ではなしに、むしろ映画を一つのきっかけにした何かが生じ得たのだろうけど。上述のとおり映画自体の点数は著しく低い。ごめんなさい。

おジャ魔女の方は観てないから何とも言えないし、上映されることは知っていてもほとんど興味を持たずスルーしたのだが、こういう風に分析されてみると観たくなる。実は私はおジャ魔女、リアルタイムでほぼすべて観たのでした。それほど真面目には見ていなかったし、どう終わったのかも残念ながら覚えていない。デジモンの映画と同時上映されていたカエルが出てくる映画を観て特典として魔法の種なるものをもらったのを覚えているがなにが発芽したのか覚えていない。しかしずいぶん長い期間やっていた気がするし、したがってずいぶん長い期間、おジャ魔女が私の日常の1/10000くらいでも占めていた気がする、ので、再召喚される記憶もあるはず。上の記事にもあったけれど、記憶喪失の時代。自分のものであるはずの記憶を呼び戻すのに苦労する時代。それにお金を払うことは私もやぶさかではない。

 

記憶と『スカイ・クロラ

スカイ・クロラ』については前項目とのかかわりで言えば明らかに記憶喪失の話ではあるが、喪失された記憶は前世の記憶であり、普通は喪失したものとみなされないものが作中で喪失とされているところが面白い。

普通「あなたの前世はアメリカ人でした」と言われても、「あーそのころの記憶、なくしちゃったな」と切実に思ったりすることはない。前提としての所有感覚がないのでそれは喪失とは呼べない気がするけれど『スカイ・クロラ』がそうした記憶を喪失として描けているのは、戦闘用の人間兵器として何度も繰り返し生まれては死ぬ子供=キルドレを主人公にしているからで、周囲の人々により、記憶が保持されているからだ。

ここには単一の主体に保持されることのない(むしろ渦中の存在はそれに気づくことのない)、ある人間の連続性についての、共同的な記憶というテーマが現れている。それを引き受けないという選択肢もあるけれど「いつも通る道でも……」と函南が言うように、函南は結局引き受けるわけで、あの映画の感動ポイントは、一見いかなる社会性にも開けていないような函南が、そうした自分を死に追いやる社会の共同性構築にくみし、かつシステムの理を破壊しようとする身振り。内気で社会性ゼロに見える函南の成長物語としての側面が胸を打つ。

本当は栗田人狼なんて、自分と全く関係ない人間として扱ってもいいのにね。本当は栗田人狼の生まれ変わりだ、という周囲の規定自体が嘘かもしれないのにね。「まっすぐすぎてここがぶつかっちゃっている感じ」とされた草薙と同じ位、函南もぶつかってしまっている。しかしそれが観客として全く他人事だと思えない。函南の一々の感じ方や選択に納得できる。これが映画の最も優れている点で、とてもそんなところで生きたくないような苦しい世界の話なのに、観終えたあとは他人事ではない、その世界に対する当事者性を感じてしまう。生きられる、と思う。

 

千と千尋の神隠し』は事実かわからない記憶を事実とすることにより共同性を構築する物語だったけれど(※普通そうは解釈されていないが、私はそう解釈する。過去記事参照)、『スカイ・クロラ』もまた、自分にとってはその真実性がわからない、所有ならざる所有物を所有していた過去があり、現在それが失われたとあえて言い張ることにより、共同体の責任を引き受けようとする話だった。記憶喪失の時代と上の記事にあったが、むしろ今は喪失した実感を引き受けるところからすでに難しくなっているのではないか。何かを喪失したことが過剰にアイデンティティ化される一方で、本当に何かを喪失したと言えるほどの強度を持った感情的体験はむしろ減っているのではないか。

……そもそも、あることを忘れた時、忘れているのにそれを覚えていたことがあったことは、なんで覚えているんでしょうね。