ハクの名前が「コハクヌシ」になるまで:『千と千尋の神隠し』における「本当の名」の真実味について
久しぶりの更新。油断していると日々があっという間に過ぎていく。
さて、現在、「一生に一度は、映画館でジブリを。」という標語のもと、スタジオジブリ四作品が映画館で上映されている。
以下に貼り付ける過去記事で書いたように千尋と同じ年に『千と千尋の神隠し』を観たことが私に与えた影響は大きく、「ジブリが好きです」ということに小恥ずかしさを覚えながらもいまだにアニメ映画で自分の最高のお気に入りは同作である。
108円払えば家の近くのGEOで借りられるところではあるのだが、1000円以上支払い、かつ池袋まで繰り出して、昨日映画館で同作を観てきた。世の中に素晴らしい映画というのはいくつもあるのだから、可能ならばまだ出会っていない作品たちに食指を伸ばしたい。そのため、いつも「『千と千尋』はこれで最後にしよう」と決意を固めて観始めるのだが、毎回どこかでそれまでに着目してこなかった重要な要素に気づいてしまい、「今度また観よう」と思うに至る。作品に関わって次回もまた新たに自己変容がありうるという明るい感覚を、毎回のように得てしまう。私が作品に固執しているというより作品が私をなかなか放してくれないような気がしている。
スクリーンの向こう側に行きたい
私は気に入った作品にはとことん没入してしまう性格である。特に思春期まではこの傾向が顕著で、惹きつけられる作品を前にするとその後数日から長ければ数週間「どうしてあの映画の中の世界に生きていないで、スクリーンのこちら側で観ているのが私なのだろう」という疑問を抱きながら暮らした。自分の世界を否定しようとする方向性をはらむのでこうした感覚は一面辛くて悲壮なものだった。そうした感覚からある程度距離をとることができるようになってのちも、油断するとスクリーンの向こう側にいない自分を悲嘆する気持ちはたまに湧き上がった。
しかし最近の私—スクリーンのこちら側のアラサーの私—はいかにも幼いそうした感情から、やっと少しずつ脱却し始めている。どうしてそれが可能になり始めているのかというと、見かけ上のいかにもファンタジカルな世界観を剥ぎ取れば、多くの作品世界は案外と、私の日常生活に当たり前に潜むものの延長上に構成されている気がしてきたから。慎重に耳をすませば何かその世界、ないしその世界を孵卵する想像力のトポスに近づきうる気がしたから。
どういうことか。それに直接通じるかわからないが、通じることを祈りつつ、今日はまた一つ見いだした『千と千尋』という作品の可能性について書く。
名を取り戻すクライマックス
作品情報についてはwikipediaが充実しているのでそちらに譲る。
私はこの記事で、リンク先wikipedia記事で述べられているあらすじのうち以下の引用部について、やや突飛と思われるだろう解釈を提案したい。
ハクは、坊を連れ戻してくることを条件に、千尋と両親を解放するよう約束を迫り、帰る手段のなかった千尋を迎えに行く。ハクは銭婆から許され、千尋と共に油屋へ帰る。その途中で、千尋は自分が幼いころに落ちた「川」がハクの正体であることに気づく。幼いころハクの中で溺れそうになったとき、ハクは千尋を浅瀬に運び、助けあげた。千尋がハクの名前に気づくと、ハクも自分の名前を取り戻す。
まずはこの部分を皮切りに本作の名という主題について触れる。
ハクが「名前を取り戻す」に至る場面で千尋は「私が落ちた川は、コハク川。あなたの名前はコハク川」とハクに告げる。その瞬間に魔法が解けるようにして、龍の姿をとっていたハクは人間の姿になる。龍の姿が強いられていた姿というわけではなく、むしろそちらが真の姿であるため、ここは呪縛から逃れたことを示す描写ではない。
作中で、龍の姿をしている時のハクは、人間の言葉を話さない。その立ち居振る舞いや感情表現についても動物としてのそれそのものである。人間のハクと動物のハクとは少なくとも『千と千尋』においてははっきり描き分けられている。したがって本当の名を思い出した時のハクの変身については、本当の名についてどうしても千尋と話をしたいがため、一旦人間の姿をとったと解するのが妥当だろう。
この場面で、ハクは自分の名につき、はっきりと「私の本当の名はニギハヤミコハクヌシだ」と述べる。このシーンの重要性は、湯婆婆の魔法との関わりから捉えられる。湯屋の主である湯婆婆は名を奪うことで対象となる存在を自分の従属化におく。名を奪われた存在は本当の名を忘れてしまう。ハクもまた、本当の名を忘れていたが、それを思い出すことができた。そしてそれによって、湯婆婆の支配から逃れ、文字通り死ぬまでこき使われている状況を打開することができる確信を得るのである。
名を握られることが実際にどのような力を対象となる存在に及ぼすのか、それを取り戻すことはいかなる力を得ることなのか、作中で明示されていない。千は千尋という本当の名を知っているが、それによって何が可能になっているのかはわからない。千が自分の本当の名を釜爺や銭婆に伝える場面では「千尋……良い名だねえ。自分の名を大事にね」(銭婆)などと言葉がけを受けるのみだ。こうした箇所を鑑みるに、本当の名の力とは、どうやら、搾取される労働者としての自分とは別の自分がおり、別の人間同士の関係の中で生きていることそれ自体にかかわっている。「千」は仮の姿で、本当は「千尋」という一個の人間としてあること。もう一人の真の自分=千尋がいて、千が当たり前のように甘受していることを実は許していないし、そうした自分のありようを承認する人々がいること。こうした主体の複数性が一方で辛く苦しい状況にいる自己を支える、抵抗の拠り所なのであろう。
ハクの本当の名は本当に「コハクヌシ」だったのか
さて本題に入るのだが、この場面を今回観て抱いてしまったのは「ハクの「本当の名」は、「コハクヌシ」だったのか?」という疑問である。
誤解を避けるため先に言っておくが、あきらかに、そうであると解釈するように映画は要請しているようにみえる。それを私は否定するつもりはない。しかし細かく観て行くと、以下の理由から、「コハクヌシ」が本当の名であると言い切れないように描かれていることもまた事実である。
①単純な事実として、ハクの本当の名が「コハクヌシ」である証拠がない。これは、千の名が千尋であることが、たまたま現実から持ってきていた友達からの手紙で客観的に証されているのとは対照的。
②千尋がハクの名として「コハク川」を提示するときの根拠は、小さい頃にコハク川という川で溺れそうになった記憶である。しかし直前で千尋は、幼い頃自分が川に落ちたことは忘れていて、あとから母親に聞いてその事実を知ったと述べている。どうやら映画中の描写から、映画内現在時に千尋はそのころのことを思い出しつつあるようだが、少なくともこの記憶が、自分自身の記憶ではなく、母を介して与えられていることには注意が必要。
私が重視したいのは、ハクの本当の名が「コハク川」から導き出された「コハクヌシ」でなかった可能性が捨てきれないように描写されていることの意味である。そしてこれは映画の瑕疵でなく、映画の魅力を高める要素であり、フィクションとしてのこの映画の可能性と関わるのではないかと考える。どういうことか。以下、説明を加えていきたい。
そもそも「本当の名」の本当たるゆえんとは
コハクがハクの本当の名でなかったとしたらどうなるだろうか。それを考えるにあたってまず問うべきは「「本当の名」とは何か?」ということだ。以下、本当の名が本当たるゆえんを「真実味」と呼ぶことにして検討する。
「本当の名」と言われるとき、通常思い浮かべるのは、生まれた時、親なり他の誰かなりからもらった名だろう。以下、これを「本当の名*」と呼びたい。本当の名*の判断の基準となるのは過去に与えられたはずの名前と合っているか合っていないかという点だ。これは、何らかの証拠があれば白黒はっきりつく形で証明される。そうした形での真実味を「実証的真実味」と呼ぶことにしたい。本当の名*の真実味は実証的真実味ということになる。
しかし、すぐに、生まれた時に与えられた名であれば、それは本当の名と呼んでよいのかという疑問が浮かぶだろう。たとえば、記憶以前に自分に対して用いられていた名前(本当の名*)があり、それがやはり記憶以前の段階で取り替えられたとしよう。この時、物心つく前に使われていた名前を本当の名と呼んでしまうことには違和感を覚えないだろうか。
これは、「本当の名」の真実味とは何か、という問いである。元も子もないことであるが、本当の名の真実味は、それが本当の名だとつけられた本人が納得することの中にあるはずだ。これを以下「本人了解的真実味」と呼びたい。
千尋による命名の重視
先に述べたように、ハクの本当の名が「コハクヌシ」であることについて、実証的真実味は担保されていない。あえて言えば、ハク自身が「思い出した」と述べていることが証拠になるかもしれないが、実はこの部分も少し怪しいように描かれている。というのも、ハクは千尋が「その川の名は……その川はね、コハク川」と言った時点では平然としており、何も思い出していないように見受けられるからだ。ハクが何かにはっと気づいたような顔をするのは、その直後の「あなたの本当の名は、コハク川」という千尋による命名である。
このシーンからは、「コハク川」を本当の名であると千尋に指定されたこと自体が重要ととらえられる。もとより湯婆婆の魔法は本当の名を忘れさせてしまうように、記憶の領域に及んでいる。このことを重視するなら、作中での記憶一般は全体として眉唾のものと言わざるを得ない。千尋の両親に至っては人間だったころの記憶すべてを奪われてしまっている。ハクが本当の名を思い出したと言っても、それは本当に信じられるものか疑問符が付く(ように描かれている)。
しかし、ここで確実なのは、もう一つの真実味。すなわち本人了解的真実味の方だ。こちらは疑う余地がない。ハクは「コハクヌシ」が「本当の名」だとはっきり了解し、宣言している。そして先にみたように、この了解を得るに至るには、千尋によってその名が与えられたという点が重要だったように描かれている。どのようにして本当の名を本当の名と了解するか。その仕方は個々人によって当然異なるが、作品中で重要視されているのは千尋によって命名されたという事実。すなわち、千尋との関係性である。
「コハクヌシ」という名が「本当の名」になるまでの過程を描いた物語
「コハク川」という名前は不確かな記憶から千尋という「愛」(釜爺)を結ぶ関係にある他者が提示してくれた名であった。幼少期にこの川に落ちたものの、辛くも生還した千尋にとって、「コハク川」は、その体験自体をはっきり覚えていなくとも、生死の境からの生還という特別な記憶が刻み付けられた特権的な名詞である。その名をハクに結び付け、川がハクだったとすることは、自分の今ある生を、ハクに負うものとすることで、ハク-千尋関係をかけがえのないものとする役割を果たす。
ここにははっきり名付ける側の、名付けられる対象との関係性構築に向けた意志・祈りが託されている。ハクが本当に思い出したかは定かではない。それは鑑賞者にはわからないし、前述のように、疑問符がつくところである。しかし、なににまれ、ハクはその名前を「本当の名」として引き受けることにより、(1)自分を、千尋を生かした存在へと変える。と同時に、本当の名を獲得することはハクにとって、死の危険すら伴う湯婆婆への隷属から抜け出すきっかけとなるのだから、そのきっかけを与えてくれた存在として千尋を位置づけることで、(2)千尋を、自分を生かした存在へと変える。(1)と(2)の作用を同時に持つ本当の名の引き受け行為、すなわち、「私の本当の名は…」という宣言は、二人の間に相互にケアしあう、かけがえのない関係性がありえたことを承認し、それをこれからの関係として引き受けることの宣言である。
このようにもし、「コハク川」が本当の名*でなかったとしても、それゆえにこそむしろ、その真実味の意味—二人の関係構築への意志—は高まる筋書きとなっている。改めて言い換えるのなら、本当の名の本人了解的真実味を構築するのは、ハクが千尋との相互主観的なやり取りの中から、自分にとって本当の名だと思われる名前を掴み取る過程そのものであるのだ。傍にある他者と共有できる自分にとっての本当の名を掴み取ることの持つ力。もしそれが実証的真実味を持たないとしても、そのことが何か本当の名の真実味(=ここでは本人了解的真実味)を大きく毀損するだろうか。
ハクにとっての本当の名の真実味を、安易に実証的真実味に帰結させずに、本人了解的真実味に求め、そこに千尋との関係性を結びつけること。そこにこの作品の第一級の仕掛けがあると思われる。
『千と千尋』のフィクショナリティ
「コハクヌシ」という名前が真の名前かどうか曖昧に捉えられるように描かれているところに、本当の名の真実味の内実をめぐる物語が読み取れるのではないかと述べてきた。既述のとおり、ハクの本当の名が「コハクヌシ」であるのかという点は実は曖昧に描かれているものの、鑑賞者がそれを本当の名だと納得できるとしたら、それはハクと千尋との関係、すなわち、ハクが了解的真実味を感得し、「私の本当の名は……」と語り始めるまでの過程を観た鑑賞者がハクの了解的真実味を追体験しているからに他ならない。
そうした鑑賞者にとって、映画は自然次の一連の問いを発していることになるだろう。すなわち、あなたが真実だと信じていることの真実味はどこにあるのか? あなたはどんな過程を踏んで、それを真実だと思うに至ったか? ある時それが真実ではないと証拠とともに突きつけられた時、その自分にとっての真実味を擁護できるか?
いつか本当の名が「コハクヌシ」でないという事実をもし突きつけられたとしても、ハクは最終的には「いや、それが自分にとっての本当の名だ」と言い返すのではないだろうか? 千尋もまた、同様のことを言うのではないか。 その人が生きてきた過程で他者との間に作り出してきた、その人にとっての真実味(本人了解的真実味)を擁護すること。そのことが世界の理(=湯婆婆の支配)から逃れるほどに大きな力を持つ世界があるとしたら、そこはおそらく、一人一人にとって大事なものが正当に大事なものとして尊重され、それゆえにより多くの人が生きられる世界であるはずだ。
現実世界では軽視されているにも関わらず、誰もが、より重視され・より力をもってしかるべきものだと考えているもの(ここでは、他者との相互主観的なやりとりの中で紡がれる、その人にとっての名の了解的真実味)が、正当に力を持つこと。それがもし『千と千尋』というフィクションの核心にあるのだとすれば、私たちはそのフィクションに通じるものを容易に現実に見出せると思う。なぜなら周囲の他者が抱える、その人にとっての真実味に支えられた認識が、否定されるかもしれないという恐れとともに、口に出されることは日常生活ではよくあるからだ。「私にとっての真実はこれです」という声に裏打ちされつつ差し出される他人の認識を実証性で裁断するのではなく、それが生まれてくる過程を辿って擁護できた時、スクリーンの中の世界は思いがけず近くにあるのではないか。
……ということで、最初に書いた気づき、すなわち、「多くの作品世界は案外と、私の日常生活に当たり前に潜むものの延長上に構成されている気がしてきた」というところに何とかつなげることができて安心した。
フィクションの本領
フィクションの本領とは、その提示する他なる世界が観るものにとって生きられる世界であることを鑑賞者に納得させ、鑑賞者を別の世界へと連れて行くことである。鑑賞者は、千尋とハクとの関係の中で「コハクヌシ」という名が浮かび上がって行く過程にこそ真実味を感得するのであり、その実証的な真実味は二の次だ。というか、それにこだわることはフィクションの役割ではない。フィクションとはそもそも、虚構なのだから。『千と千尋』にみられるのは、そうしたフィクションの役割へのほとんど節操ないと思われるまでの信頼で、この毒気に中てられた私が結局今フィクションを研究したり、書いたりしているのは必然だった気もする……もちろん、これだけがきっかけだったというつもりはないけれど。
以上論じてきたことは突飛な解釈の可能性をスタート地点としているのでアラサー男の懐古趣味に裏打ちされた痛い「妄想」に聞こえるかもしれないが、私としては、作品が鑑賞者である私に必然的に喚起する「想像」なのではないかと考えている。
妄想と想像の違いについて、柳田国男は、想像には現実に根ざした根拠があると述べている。ここまで述べてきた私の考えは作品という現実の所産に根を持つと言う意味で妄想ではない……はずだと思う。ともかく、まだまだこの作品に私はけりをつけられそうにない。
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