目をつぶらない

文学を専門とする大学院生の日記です

働いています。

 今月に入ってから、ほとんど社会人のような生活をしています。起きたらすぐにスーツに着替え、満員電車に揺られて一時間。仕事場にたどり着くと、コートを掛けて朝礼に参加します。その後はひたすらパソコンに向かって企画書を書いたり製品を作ったり。それで気がつくとお昼、というくらい午前中は集中しています。コンビニに行っておにぎりを買い、食べ終わるとお昼休みの終わりまで本を読みます。周囲の人々があんまり本を読まないのに驚かされます。多くの人は基本的にスマホを通して情報を得ており、「知りたい」、もしくは「読みたい」という欲を満足させているのです。もちろん、私も毎日スマホをいじり倒すので、それがいかに有効かよくわかっています。ただ、私が驚かされるのは、私の仕事場に50人ほど人がいるうち、休憩時間に本を広げるような人間が、私一人ほどであるという、その数の少なさに、なのです。私が小学生のとき、盛んに実践された読書教育というのは本を読むことの習慣化という意味ではほとんど残らないものなのだな、と感じました。わざわざ本屋や図書館に行って選書し、カバンに入れて持ち歩き、電車の中では苦労してとりだし、昼休みには浮くことを覚悟で開き、という一つ一つの行為は確かにどう考えてもわずらわしいものなので、よほど習慣化されているか、またはどうしても読みたいものがあるという場合でなければ、読書なんて面倒臭いだろうな、と容易に納得させられます。

 昼が終わると再び作業に取り掛かり、次にホッと息をつくときはもう夜になっています。終礼に参加し、一日のまとめを簡単に書いて、勤務は終了です。

 この生活の驚くべきは変化のなさです。ただし、飽きる変化のなさではない。それは変化がないけれども「退屈」でもないのです。ほどほどに疲れ、ほどほどにストレスがたまり、ほどほどに達成感がある。私がこの約10日間に知ったのは、この「退屈でないけれども単調」という状態の存在です。本当は、最近それを知ったのではなく、前から知っていました。大学にいるここ5年間で忘れていましたが、中学時代も、高校時代も、予備校時代もそれをしてきたように思います。そのことを思い出しました。私は自明視していた自分の被教育者としての経験を、この「就業経験」を通して相対化できるのかもしれない、と少し感じています。本当にしんどいことを考えないで済む日々のために、どうでもいいことに考える力を使う。しかもその「どうでもいいこと」はことあるごとに、いかに自分がどうでもよくないかということを繰り返し主張してきてくれるのですから、本当に便利です。社会の要請に従うことで、私は考えなくて済む気がする。私は考えなくて済む生活を望んでいたのですから、これは望み通りなのです。大学の一年生のときから、長期休暇のたびに考え事ばかりしていて、それはもちろん、楽なことではなかった。自由な生活を送り、好きな本を読んで気ままに暮らしているのだ、と何もない日常の連続を肯定しながら、何の予定もない日々が一週間続いたあとのある朝、部屋の天井を見つめる私の目に、髪の毛がぼさぼさで腫れぼったい目をした私自身が、甲虫の体液のような涙を滲ませているのを見たこともある気がする。それで、今度の長期休暇くらい、私は楽なことをしてもいいのではないか。身体的にはキツイこともあるかもしれないけれども、少なくとも、気持ちは楽な状態に置きたいと思ったのでした。

 それで、私は快楽に弱いから、この楽さは癖になるだろう、と思っていたけれども、案外そうでもなさそうだ、ということを今感じています。みんな何も喋らなければいいのに、ふとした隙に懐に入り込もうとする距離感のコミュニケーションが充満していて、ほっといてくれ、というのが素直な感想です。しょうがないか。私はあまりに、お互いの話をまともに聞き合う環境に身を置きすぎたみたいで、それが本当のところ、そう簡単に達成されないことを忘れてしまっていたようです。そうでなく、相手を対話のモードにひっぱりこむことがむしろ重要だというのに、なんだかイライラばかりが募ります。でも、仕事をしているときは本当に楽です。