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目をつぶらない

文学を専門とする大学院生の日記です

子供の教育を語ることを通して、自分の欲望を語ること。学習相談にのってきた。

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学習相談をする中で、驚かされること

 大学生活を通して塾講師や家庭教師をやってきた。成功も失敗もあった。そのような経験を話すと、少し相談に乗ってくれないか、という話を受けることがある。先日もそうだった。

 子を持つ親は、「先生」ということになっている人にどのように接するのか。そのことに対する単純な好奇心から、一回きりのちょっとした相談を受けることはこれまでもままあった。この春から就職するため、これが最後であろうと思われるから、学習相談をする際に毎回直面してきた驚きと、そこから考えたことを、書き留めておきたいと思う。

▽自分の子供はできる

 毎回驚くことの一つは、自分から率先して家庭教師に相談を依頼するような親のほとんどが、「自分の子供はできる」と信じている、もしくは、「できる」と信じたいと思っているということだ。

 「信じる」というような言葉を使い、このように記述すると、親を馬鹿にしているように聞こえるかもしれない。実際は、違う。というか、その親たちのあまりの切実さに馬鹿にすることなどとんでもないと思ってしまうのである。なぜなら、その切実さ、その想いの強さは、逆説的にも、そうでないかもしれない可能性に彼らが十分に思い当たっていることを示しているからだ。

▽子供を褒められて喜ぶ親たち

 一つ目に大いに関連するが、二つ目に毎回驚かされるのは、私が親たちの話を聞き、その子供を褒めるときの、親たちの喜び具合だ。もちろんおおっぴらに喜びはしない。しかし、表情の具合や話のテンポが上がっていく様子から、何人かの親は、尋常ではなく喜んでいるように、私には感じられた。大学受験をくぐり抜けたとはいえ、20代前半の、それもほとんど素性もしれない若造が、伝聞だけで子供を褒める。そのことにより、本当に安心した表情を浮かべる親たち。そして、大抵、以下のような語りが続く。

 自分の子供は、いま現在成績は振るわないものの、小さいころはこのようなことができたし、いまも、これだけは誰にも負けない。これは、私たちの影響もあると思う。私の夫は小さいころから、この教科だけは負けなかった。私もこの教科は得意であったのである。生活や勉強の仕方を少し変えれば、彼の成績は間違いなく伸びていくことと思う、そして、どのように変えていけばよいかということも私は大体わかっているのである。そのことを子供には何度も言っているのだ。しかし、私が言っても聞かないから…。

 嬉々として語り出す彼ら。それを思い出すと、未だに鳥肌が立つ。なぜか。彼らは子供の健全な発達を願っているのではなく、また、私からスマートなアドバイス(そのようなものを提供する実力が私にはない)を求めているのでもなく、ただ自分の願望を吐露し、自分の不安を語っているからだ。

教育を語ることを通して、自分の欲望を語る

 考えてみると、私はこれほどまでに自分のことだけを語る大人に、大学に入るまで会ったことがなかった。社会生活のなかで、人は自分の欲望のみを語ることを制限する術を身につける。私の周囲の大人にこのようなタイプがいなかったわけはない。必ずいたと思う。しかし、普段それは隠すものなのである。

 例えば、お金やセックスの話は、日常会話において、基本的にタブーであるとされている。もちろん、それらを分析的に語ることは可能だし、そのような場合、タブーとは言われない。では、なぜ「基本的にタブー」なのか。それは、お金やセックスといったトピックが、語る主体の欲望をあらわにしやすいトピックだからだ。過度な欲望の表出は、社会生活においては制限される。いくら気持ちよくても、裸で歩いてはいけないのと同じだ。

 私が、親たちの学習相談に乗っていて、時折上のように、鳥肌が立つような経験をするのは、大人の直の欲望に接するからだ。日常生活において欲望の表出は制限を受けるが、自分の子供の教育について語る時には、その欲望がこのように直接的に現れるのだな、と驚かされる。

▽自分が肯定されているような気持ちになっている?

 私は子供を褒められることで、親が喜んではいけないといっているわけでは決してない。私が逆の立場であったとしても、嬉しいと感じると思う。そしてそこに、「自分の教育がよいからだ」、という気持ちが介在しないということにはならないように思う。一生懸命育てているという気持ちがあるのなら、多少なりともそう感じるものなのではないだろうか。少なくとも私は、自分がそういうタイプなのではないかと自分で思っている。

 しかし、子供が褒められることを、自分の家庭や自分の教育努力の肯定と受けとめるのは、本来的にはあまり良いことではないのではないか。なぜなら、自分が行った教育の結果物のようにして子供を捉えることは、子供を自立した一人の人間として扱おうとしていないからである。子供に対して向けられた言葉を自分に対して向けられた言葉として捉えているのだ。

 もちろん、中学生に自立は無理だ。親に依存し、親に甘えるのが彼らである。しかし同時に、自立への萌芽が現れるのも中学生である。それを後押しし、本人の健全な発達を喜ぶのが理想的なあり方のように思われてくるのである。

相談相手は私じゃなくてもいいんだな…

 子供のことは自分がやっているし、子供のことは大体知っている。子供がうまくいかない時は、自分があらゆる方向から支援しなければならない(、そして子供がうまく行った時は、自分のやり方が良かったときである)という風な態度が見える親とは、学習相談の場で話していて疲れる。繰り返すが、そのような親は、子供のことを語りながら、その実自分の不安、自分の願望を語っているからだ。

 相談相手がこのようなフェイズに入るといつも私は、語る相手が私ではなくてもいいんだな、と思う。彼らに共感し、彼らの言っていることの一部を当意即妙におうむ返ししさえすれば誰でもよいのだな、と。

 ただし一応、学歴という権威を持った人物でなければならないのだ。ということでここで私は疎外感を感じる。あぁ、肩書きだけで見られているな、と思う。学習相談をするとき、大抵は初対面だ。肩書きだけで見ないということは、このような状況で大変難しいと思う。だから、それを要求することは、過大な要求かもしれない。しかしとにもかくにも、違和感は感じる。そのことは表明していいと思う。

 

***

 

 繰り返し付言したように、私自身は、20年後くらいに、私に対して学習相談をする側の親になっている可能性の高い人間である。彼らの持つ弱さが、私にとって無縁とは全く思われない。注意しなければ、確実にそうなるだろうと思う。学習相談を受ける側に回って良かったと思われることの一つは、私はあちら側の人間に容易になりうるということがよくわかったことだ。