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目をつぶらない

文学を専門とする大学院生の日記です

東日本大震災後と人間性 川野里子さんへのインタビュー記事における石牟礼道子『苦海浄土』

 

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   歌人の川野里子さんが、中国新聞のインタビュー「詩のゆくえ」で、石牟礼道子『苦海浄土』に関して一言よせている。その一言に強く惹きつけられた。

   言わずもがなかもしれないが、『苦海浄土』とは水俣病の発生から終息までを著者石牟礼が追った一種のルポルタージュである。

 この作品の中で石牟礼は水俣病を負った、自分の息子と同年齢の少年との出会いについて書いている。以下、記事から引用。

 

息子と同年齢の水俣病の少年と出会った石牟礼さんは、「ひきゆがむような母性を、わたしは自分のうちに感じていた」とつづる。「自分の中の人間性を再発見しているこの言葉が、東日本大震災後の今、ものすごくまぶしくて。」川野さんは実感を込める。

中国新聞」2016年3月9日朝刊文化面(13頁) 

   この川野さんの一言は強い喚起力を持っていると思う。実は私は一ヶ月前に『苦海浄土』を読んだ。読んだのは講談社文庫版である。

苦海浄土 わが水俣病 (講談社文庫)
 

 

 大変興味深く読んだのだが、それを現状、自分が問題に感じている事柄との関係においては読まなかったのである。

   川野さんの上の一節を読んだ時、『苦海浄土』の読書体験が、自分の中で一気に具体的なものになるようで、思わずうなずいてしまった。「東日本大震災後の今」とあるが、その言葉の私の中での含意は震災に関連する出来事にとどまらない。

   たとえば、相模原事件。たとえば、日本における排外主義運動の高まり。電通で自殺した、友達の友達。そして、今も、また、これから何十年何百年も禍根を残し続ける原発問題。

    それらに関する情報を拾う中で強く感じるに至ったことがある。それは、「一つ一つの小さな生活が危機に晒されている」という危機感だ。当たり前の生、当たり前の幸福の享受や、当たり前の自由が、当たり前でなくなり、時に軽々と蹂躙され、時に複雑隠微な方法で息苦しい形へと変えられていく。

   上に挙げた中で、特に個人的にショックが大きかったのは、相模原事件だ。相模原事件直後にネットの最悪な部分で噴き出した言論は本当にひどかった。障害者の生きる権利を認めないような、とてもここで再現するのがはばかられる発言が多々リツイートにより運ばれてきて、ネットを見て初めて涙を流しそうになった。生まれてくる命を受け入れ、支え、それとともに生きることに喜ぶという当たり前のことが、もしかしたら難しくなってきているのではないか。月並みな表現だが、「社会の底がぬけてしまう」と思った。

   石牟礼が、水俣病患者の少年に感じた「ひきゆがむような母性」。それは、確かに私にとっても「まぶしい」。傍に居て苦しむ人を見て、自分もまた苦しみを感じること。それは、川野さんが述べるようにまさに「人間性」の「再発見」だと思う。そしてこれもまた、当たり前のことのはずだと思う。しかしそれが今日当たり前ではなくなってきているのではないか。

   この問いは、もちろんそれを発する自分に差し戻される。そもそも私は人間性を日常生活の中で発揮し得ているのだろうか。自分勝手な私は、石牟礼の方にはとても立てないかもしれない、と不安になる。川野さんの「まぶしい」には、もしかすると、そのような含意がこめられているのではないか、と思う。