目をつぶらない

文学を専門とする大学院生の日記です

「やりがい搾取」の弊害

 今日は顧問をしている部活動の練習試合があったので、1日学校にいた。

 いくら仕事場である学校にいるとはいえ、部活動のための休日出勤である。だから、本来は自分の好きなことをしていていいのだ。実際に同じように休日出勤をしている同僚たちは思い思いのことをしている。大きな声ではいえないが、インターネットゲームをしているものもいる。

 しかしこの辺りは僕の弱いところで、いくら休日とはいえ、職場は職場なのだから、本当に自由にしてはいけないという意識がどこかから顔を出し、結果自由にできない。いや、行為だけ見れば自由にしている(漫画を読んだりツイッターをすることがある)のだが、「このように自由にしていていいのだろうか」という疑いから無縁ではない形でそれらをしているので、結局心のそこから自由を謳歌しているという気分にはとてもなれないのである。

 それに、腰まわりや肩周りの筋肉があまりない僕にとって重要なのは寝転がる動作である。が、学校は、おおっぴらに寝転がれる場所に乏しい。僕はもちろん、保健室を開けようと思えば開けられるのだが、いくら自由にしてよいはずの休日とはいえそこまではできない。いや、できるのか?していいのだろうか、保健室での昼寝を…?だめだ、それは。それくらいは、僕にもわかる。何か緊急の事柄が起きた時、顧問の僕が保健室で寝ていたら首が飛ぶだろう。一応、監督者として来ているのである。

 

 部活の顧問になることに関して、実は僕はやぶさかではなかった。

 部活動の顧問を教員たちがほぼ無給でやっていることが社会問題化し始めたここ二、三年の流れを受け、当然に僕も、そのような労働形態が不当であるということは声を大にして言いたい。

 ただ、それはそれとして、僕自身の中には手当の有無に関わらず、部活動に関わりたいという気持ちが確かにあったのである。そして自分で、それは大変に不純な動機であるとわかっていた。

 なぜ部活に積極的に関わりたいのか?一番は、「生徒の成長を目の前で見守りたいからである」。ほとんどクリシェと化しているこの文言は、おそらく、こう言いかえられる。つまり可塑的で素直で自我が未発達な子供達に自分の影響力を及ぼしたいのだ。そのようにして、人に対する影響力の高まりにより、僕は喜びを感じるたちなのである。

 自分が生徒だった時の頃を思いおこそう。積極的に関わろうとしてくる教員には禄なのがいなかった。当たり前だ。教員を初めてほとほと実感するのだが、身体的・精神的な観点から言えば、生徒はほっといても育つのである。僕たち教員の役割として最も重要なのは、彼らが社会に出たときに必要とされる技術を身につけさせることだ。ことこれに関して、生徒が勝手に身につけることはあまりない。学校の授業でやらず、従ってテストで追い立てられることもなく、入試にも出ない教科を多くの生徒が学ぶことはまずない。

 例えば国語の教師としての僕の1番の役割は、目の前にある文章を書かれてある通りに読む力を身につけさせることである。次に、それを批判的に読ませることがくる。僕の役割は、生徒たちの人生におけるパトロンになることでは全くない。

 これは当たり前のことかもしれないが、学校現場で働き始めて驚かされるのは、生徒に慕われたい、彼らと精神的紐帯を結びたいと、陰に陽に思っているであろう教師が案外多いことだ。先に述べたように、僕もそう思っている。そういう動機から、部活でもやるか、と思っているのだ。

 というか、無給なのに部活の顧問がやりたいと積極的に思うなんて、それは生徒と関わりたいからに決まっているじゃないか。

 ということで思うのだが、部活のための手当がほとんど出ない現状における被害者は、何も教員だけでなく、自分の実存を満たすために顧問になる教員と接しなければいけない生徒全般だと思う。