SUMMERY

目をつぶらない

滑らかに生きたい。明晰に生きたい。方途を探っています。

豚とアルマジロの結合したような動物

 久々に夢を見たのだが、そのことについて書く。

 といっても短いもので、豚とアルマジロが結合したような動物をペットとしている夢を見た、というそれだけだ。ところどころアルマジロのような硬い皮に覆われているが、体の大部分はそうではなく、ヌメヌメとした粘液に覆われた豚のような、臙脂色をした皮膚の動物である。大きさは、豚よりやや小さい。中型犬と同じくらいだろうか。僕はそれをペットとしているようで、僕がかがみこんで、テーブルの下にいるその頭を撫でると、それは素早く僕の指を噛み、必死の形相で僕の手を自分自身の手足で固定すると、蹴り、引っ掻き、繰りかえし噛み直すのだが、どの一撃も決して血が出るほどには至らない絶妙な強さで、この動物はじゃれているのだとよくわかる…。

 目が覚め、ひっかかれ、かつ噛まれたその手の感触を思い出しながら、僕はその感触が、まだ元気だった頃の飼い猫によるものだったと思い当たった。彼は僕が大学4年生の頃に死んだのだが。歯が弱くなる前、彼は僕の手を噛むのが好きだった。甘噛み、というには強すぎるけれど、かといって血が出たりミミズ腫れになったりするほどではない。僕は時折はスズメを取ってきたり、猫同士の喧嘩で相手に致命傷を負わせたりするほど、本来は顎の力を持つ僕の猫が、そのように僕に対して、絶妙に手加減を加えることができることに驚いたものだった。

 手加減を加える、と言っても、見た目上はまるで本当に僕の手と喧嘩するように、彼はしていたのだ。親の仇のように食らいついてはなさず、二つの肉球を用い、思いがけない強さで僕の手を固定すると、二つの足で繰り返し押し出すように蹴り、かつ噛む。がっつりと四つに組んでいるので、僕が腕をあげようとすると、僕の猫はそのままくっついて宙に浮かばんばかりなのだった。

 そうした猫の所作をすっかり忘れていた、というつもりはない。このように今でも、思い出そうと思えば鮮明に思い出せる。それも体に残る感触として。しかし昨日の夜に至るまでの何ヶ月も、ひょっとして一年以上、僕はそのことをすっかり忘れていたのだ。それを不意に、しかも身体的な感覚として思い出させられたこと。そのことはとても不思議なことであるように思われる。身体の記憶にトリガーはあるのだろうか。僕は一体何の条件を満たして、このタイミングでふと、僕の猫が僕の手に繰り出した攻撃の数々を想起したのだろうか、と思う。

 積み重なる日常の仕事に埋没している状態と、自分自身の記憶の海にふと入り込むこととは全く異なる。前者はひたすらに緻密に物事を動かすことで、現実世界の時間との格闘だが、後者は内に内にと入り込み、現実世界の時間とは別の時間性を体得することだ。大部分の文学は主に後者の領域に取り組むもので、このブログのオチとして優れているかは別として、ふと文学を読みたくなった。それも最近の。