SUMMERY

目をつぶらない

滑らかに生きたい。明晰に生きたい。方途を探っています。

先輩教員の転職と教員に求められる「専門性」について

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 良いことなのか悪いことなのかわからないが、筆が進むのは大抵自分の中に違和感が渦巻いている時である。もちろん、自分の力で変えることができたり、にぎりつぶすことができる程度の違和感であれば、わざわざ筆をとることもない。自分の力で容易に変えることのできないような、周囲の人間に対する決定的な違和感。それが出来した時には、その内実を確かめるためにも筆をとる。不満が渦を巻き、それほど楽しいと言えなかった時期に、後から振り返ると結構長い小説を書いていたり、示唆に富んだ洞察を含む日記が大量生産されている。今の日常が、特に言うことない日々の繰り返しであるにも関わらずというか、そうであるがゆえに書き物が捗らないので、昔の書き物を振り返って、過去の自分はなかなか色々考えていたなあ、などと感慨にふけったりする。

 

「専門性」重視の勤務先

 この四月より職場の中堅教員が転職した。同じ現代文の担当だった。私の勤め先は学力レベルとしては高めの客観的事実として付け加えるなら、偏差値は相当高めの学生が集まる高校だ。それ故に受験勉強の指導はあまり求められていないし、学習指導要領を逸脱する内容を扱っても、また、実験的授業形態を取り入れても誰からも文句は言われない。そもそも生徒が優秀なので、何をやっても大抵、「成果」らしきものは出てくる。それが生徒のためになっているのか、ということを真面目に考えるのなら、もちろんどこの高校でどんな授業をやろうと難しいだろう。しかし、自己の行う授業の価値を対外的に説明しようとするのなら、とりあえず生徒の反応の良さや成果物があればなんとか格好はつく。その意味で、私の学校はやりやすいのだ。

 

 こういう学校にどのような教員が集まるのかというと、高い学力を持つ生徒の知的好奇心を満たすことができる教員だ。生徒らの多くは、情動については一般的な高校生の域を出ないので、教員の知的能力が自分よりも低いとみなすや否や、授業を聞かなくなるなどの態度にでる。優等生達であるから、授業を抜け出したりするようなことはないが酷い場合には教室の8割が授業を聞かず、塾の宿題をやるというようなことが起こり得る。そうした状況の中で授業を続けるのは教員にとっては辛いことであるから、そうならないためにも、受け持ちの教科について一般の教員よりも深い専門性をもつ教員が集められる。

 

 こうした、専門分野に関する知識が生徒の方からも、教員間でも重視される校風の中、やめてしまった先輩の中堅教員仮に「岩下先生」とするは、自分に専門性がないことに苦しんでいた。「中高教員の教科に関する専門性は高がしれている」というようなことも言っていたが、これは自分に専門性がない、という意識の裏返しだろう。

 

 岩下先生は私と同じ現代文を持っていたのだが、現代文の教員になったことが岩下先生にとってよかったことなのか、私はわからない。現代文というのは専門性が見えにくい教科だ。学ぶ内容が現代の文章の読み書きという汎用性が高く、基礎的なものであるため、重要であることは誰もが疑わないものの、現代文の「専門性」とはなにかと言われると多くの人は首をかしげるのではないか。ある体系の中に組み入れられた知識をある程度決まった順番通りに一つ一つ理解し、覚え、それらを駆使してさらに応用的な内容を積み上げて行く、というのが私の中での大まかな「専門性」のイメージである。このイメージに現代文という科目で学ぶことが沿っているとは言い難い気がする(言えないこともない気がするが)。

 

 岩下先生の中には専門性への憧れと、それへの反発との両方があったのだと思う。その岩下先生が現代文という、専門性が規定しにくい教科の教員になったのは幸福でも不幸でもあったと思う。幸福だったのは、専門性とつかずはなれずの態度を維持し続けることができること。不幸だったのは、つかずはなれずの態度を維持し続ける運命にあったこと。両者は裏返しだ。

 

 専門性の希求。体系だった知識を自分のものにし、他の人にできないような高度な知的操作を素早く時間は有限なので、大抵の場合、速度が重要行うことへの憧れ。誰しも多かれ少なかれ、そうした憧れを抱くのではないか。いや、私がその憧れを共有しているから、「誰しも」とか勝手に思い込んでいるだけなのか、わからないが。とにかく一現代文教員として私は岩下先生に共感するところはあったのだが、私は仮にも国文系の研究をしていた(+いる)ので、一応現代文を教えながらでも「専門性」の片鱗は見せられたのである。岩下先生は国文科出身でも、国語学出身でもなかった。現代文教員だけれども、文学史に精通しているわけでも、日本語という言葉に精通しているわけでもない、ということが、岩下先生の気になっているポイントらしかった。

 

先生の転職

 それで、話を続けるが、結果的に、岩下先生はやめることになった。中高一貫校で主に高校教員だった彼は、高校生に対する教育からは手を引くことになった。詳しい事情を聞いたわけではないが、これまでの彼の言行からどうしてこのようなことになったか推測すると以下の通りだ。

 

 前述の通り、私の学校で教員はほとんど何をしてもいい。大学のような雰囲気を持っている。しかし、大学が専門知を持った大学教員の住処であることを大前提としているように、何をしてもいい私の勤務先でも大前提がある。それは「教員に(一般的な教員に比して秀でた)専門性(=教科の内容への幅広い知識・深い理解)があること」「教員が専門について勉強を続けること」だ。別に専門性がなかったら、誰かから論難されるわけではない。それでもやっていける。しかし確実に居づらくはなる。自分は場違いである、求められていないと隠微な形で知ることになる。これは辛い。

 

 岩下先生はこうした辛さと戦っていたのだと思う。戦いながら、なんとか教科の内容についての専門性とは別の方向性において勝負しようとした。指導における専門性を追求しようとしたと言い換えてもいい。岩下先生の戦いは決して間違っていなかったと思う。今では私も、教師にとって教科の専門性は重要だが、それは教師がもつべき重要な力の中の一つに過ぎないと思っている。さらに言うならば、それは確かにあればあるほどいいけれど、教員採用試験にいつでも合格できる程度の「専門性」を維持していれば、当面教師として問題ない程度であると思う。少なくとも、通常の学校では。

 

 私は教師にとってそれ以上に重要なことはいくつもあると思う。一つあげるとするなら、生徒が何をできるようになったのか、ということをキャッチし、それを、それまでの生徒の学習や、その生徒が向かうだろう(向かいたいと思われる)方向との関係から位置付けてあげることだ。例えば一つ漢字が書けるようになったという達成があったとしても、その位置付けは個人によって異なるはずである。努力の末なのか、一目見ただけで書けてしまったのか、その漢字が書けることはその子にとってどう重要なのか、など。ある程度知識が深くなければ位置付けなどできないから、もちろん教科の専門性は必要なのだが。

 

 岩下先生はこうした点に力をそそいでいたな、と同僚として思う。無味乾燥な校内実力テストの、それも漢字の採点で、岩下先生がコメントをつけていて驚いたことがある。漢字の丸つけで何を書くのかと思い、いない隙に見てみると、「おしい!」などと書いてある。私はこれに感心した。確かに何も書かない生徒と、とにかく何か書こうとしている生徒は、同じペケでもその子にとっての意味合いが異なる。努力の跡を読み取ってもらえるのなら、その子の学習は次に繋がるだろう。校内実力テストは通常業務に割り込んでくるから大抵てんてこ舞いの中で採点することになるのだが、その中でこうした細かなコメント付けをできるというのは、要はこういうことが好きなのだと思う。そしてそれは教師に向いているということでもある。

 

 岩下先生にとっては専門性を重んじる私の学校は環境として合っていなかった。彼が失意のうちに辞めていったとは言わないけれど、残らなかったこともまた事実だ。そして、高校教育からも手を引く彼は、しかし次の職場ではうまくやるだろうと思う。やっと確立した自我を必死で守らなければならない高校生くらいの時期は、自己の価値観を括弧にくくることが難しい時期でもある。周囲の大人による学習の後押しがとんでもなく鬱陶しく感じたりもする。岩下先生の「おしい」というコメントも「鬱陶しい」と感じる生徒は正直いただろう。特に、「漢字問題は0か1かで、半分書けていようが白紙だろうが0は0」というような二元論が支配していそうな本校では(見方が適当すぎるかもしれないが)。しかし、もっと年齢が下で、学力層も多様な生徒からなる学校であれば話は別と思う。本当に、頑張って欲しい。

 

話を聞いているふりがうまい人/責任を逃れるのがうまい人

 話を聞いているふりがうまい人がいる。こちらの目を見てうなずいてくれる。しかし相槌とともにはさむ「共感の言葉」がずれている。こちらが喜び半分、不安半分で話している時も、「本当によかったね。幸せだね」や、「すごい!優秀ですね」といってまとめる。こうした人にとって「よかったね」「優秀ですね」というのは明らかに、ネガティブな話題を除く大半の話題を無難に収めるための切り札のようなものだ。「よかったね」と言われて「いや、よくなかった」と答える人はそうそういない。「優秀ですね」と言われて否定する人はいるだろうが、嫌な気持ちになる人はほとんどいない。大抵の話にはよかったことが含まれているし、話者特有の認識や判断の鋭さをうかがわせる部分がある。本心としてどう思っているかは別として、「よかったね。本当によかったね。」「すごいですね」と言えば、言われた側はとりあえずそうかなという気分になり、つかのま嬉しくなる。言った側は自分の言葉が発揮した効き目を目の当たりにして陶酔的になる。

しかし、多少なりとも冷静さがあれば、こうした共感の言葉をあまりにもすぐに、また繰り返して発する人の、当該の言葉が空虚であることに気づくはずだ。その人は自分の何も見ていない、と思うだろう。その人にとって重要なのは、話題が何であれ(あきらかにネガティブな場合は除く。そういうときに「よかったね」と言ったらやばいことくらいはさすがに彼らでもよくわかる)とにかく「よかった」「すごい」というラベルを話者の話にべったりとくっつけて、話者を気持ちよくし、それによって自分自身も気持ちよくなることなのだ。

そうしたコミュニケーションは、端的に寂しいと思う。そこには交感はない。真の意味での共感もない。全部うわべだけのことで、社交なんてそんなものかもしれないが、寂しい。もちろん、本人が一番寂しさを感じていると思う。「よかった」「すごい」を明るい顔で言わないことはなかなかないから、そうした人は一見、割とニコニコしているように見える。けれどもそれは、自分の中の観念にくすぐられてそうしているわけで、そうしたところからくる笑みは想像以上に空虚だ。でも、それでうまくやってこれてしまったのだからしょうがない、のだろうか。

 

***

 

責任を逃れるのがうまい人がいる。誰でもできるような瑣末な仕事を積極的に引き受けるその人は、一見物腰柔らかで優しく親切。しかし、その人が優しく親切なのは、自分が優しく親切にできる領域の中でだけの話だ。例えばペンを貸して欲しいと言えば、そうした人は喜んで、しかも最速で貸してくれる。遠く離れた席にも喜んで小走りで貸しに来てくれる。それは彼らにとってあまりにも容易なことで、なおかつまた、どうまちがえようと決して後ろ指を指されることがないからだ。途上で転んだり、結局ペンが出なかったということになれば、おおげさに謝る。貸す時点で文字通り「貸し」を作っているのはわかっているから、その上で謙虚に謝ればますます、相手が恐縮し「ありがとう」の言葉をかけてくれるということをわかっている。

細かいところでやや過剰と思われるくらいの親切心を発揮する人には注意が必要だ。まず第一に、そうした人はそれ以外に自分の価値を発揮することができないから、そこに力を入れている可能性が高い。それは一つの免罪札なのだ。こういうことを丁寧にやる。すると、周囲の人からの印象はよくなる。細々とした仕事も率先して引き受けるので、皆がそうした仕事をその人に期待する。結果的に、本当はその人の年齢やポジションにふさわしいような他人との(大抵の場合面倒な)交渉事を伴う仕事を回避できる。というか、そうした重い仕事を引き受けられないし、避けたいのでそうでない、あまりにも簡単な部分に過剰に時間と心を傾けて、周囲の機嫌をそこなわないようにする…。

これは不幸なことなのだろうか。

人とぶつかるのは基本的に大変なことである。それをせずにすむのなら、誰だってしたくない。その面から言えば、人とぶつかる大変な仕事を避けるのは合理的な戦略だろう。しかし、結局人とぶつかりうる交渉事を自力でなんとかできなければ生活が、もっと言えば生が、新たな局面を迎えることは決してないように私には思われる。もちろん、それは相手に「勝つ」ことができなければ、ということではない。そうではなく、相手と話し合って落とし所を探す、ということだ。

 

私も人とぶつかるのは正直クソめんどくさい。そうした仕事は人に嫌われた挙句、思ったような成果が上がらなかったりする。

一方で、花瓶に水を入れたり、お茶を汲んだり、ゴミを捨てたりといった雑用は、みんなやりたがらない汚れ仕事で、だからこそみんなから感謝される。感謝だけされて気持ちよく生きていきたいなら、くだらない雑用だけするのが一番だ。

でもなぜだろう。お茶汲みで一生終えたくないと強く思う。それは空虚だと思う。お茶汲みにプライドを持っている人を馬鹿にしているのではない。そうではなく、簡単な仕事に逃げ込む人でありたくないと思う。面倒臭いが、人と対立しうる現場で協働の道を探していくことにしか、自分の生の開かれはないような気がする。多分この感覚は正しいので、そうしていくが、とはいえ、ほんっとうに面倒くさいんだよね。交渉・調整は。

 

 

 

なぜ「信仰」なのか 柳田国男・丸山眞男・大江健三郎に学びつつ

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柳田と丸山の新書を読んだ

 ここ数日柳田国男丸山眞男に関する新書を読んでいた。具体的に読んだのは以下の二冊。

 

柳田国男 ──知と社会構想の全貌 (ちくま新書)

柳田国男 ──知と社会構想の全貌 (ちくま新書)

 

 

丸山眞男―リベラリストの肖像 (岩波新書)

丸山眞男―リベラリストの肖像 (岩波新書)

 

 

 柳田も丸山も、戦後、主に高度経済成長下に進行した大衆社会化の中で、旧来の伝統や道徳から切り離され利己的になっていく国民の姿を見て日本の将来を憂えていたという。彼らの問題意識には共感するところがあった。

 

利己主義的利他主義

 しかし、利他的な行動を他人に勧めることは難しい。その難しさも、(引用されている文章からであるが)彼らの筆致から感じた。よくある説明では:私たちは他者との関わりの中から自己形成し、他者との関わりの中で生きているのだから、他者に裨益する行いは、結局は、自己に裨益する、ということになる。頭ではわかるのだが、私はこの種の説明に昔から違和感を覚えて来た。「情けは人のためならず。めぐりめぐって自分のため」—結局、自分のためにやるのなら、それは「情け」なのだろうか。「利他」なのだろうか。

 「結局自分のためになるのだから」ということを根底に置いた人から、そう言わずともそうした態度が透けて見える人から、何かをしてもらいたいとは思わない。「ただほど高いものはない」ということわざもある。それだったら、最初からわかりやすい等価交換の形にしてほしい。そんな風に思ったことは一度や二度ではない。でも人の心というのはそう簡単に割り切れるものではないから、利他的な行動を行う人の中にも、「結局自分のためになる」という利己主義以外の動機付けが混在していることは当然ある。そう考えて、自分を納得させもするのだが。

 私はこうした点に変に敏感で、塾講師として働いていた時期も、教師をやっている現在も、「無償で」生徒のために長い時間残業なりをしている同僚が、ふと合格実績を上げることで自己の名声を獲得しようとしているようなそぶり(「色々やってあげたけどやっぱこいつダメだわ」みたいな)を見せると鼻白んでしまう。なんだ、結局そういうことか、と思う。それはそうなのである。私が勝手な「いい人像」を押し付けていただけなのだが。あるいは、私が勝手に、その人の中の「いい人的側面」ばかりを見ていただけなのだが。

 ずいぶん脱線したが、脱線ついでに言えば、私自身は大変利己的な人間である。それはわかっている。人のためにしてあげること一つ一つに対価を求める、というのでは流石にない。というか対価を求めたりはしないが、自分の持ち物が減ることには敏感だ。余裕があるときには純粋に利他的に振る舞えるが、自分の持ち分を減らしてまで、ということはできない。

 

「倫理」の基礎に置かれる「信仰」

 話を戻そう。お金に換算することができるような、経済的な価値が優先される社会的風潮の中で、人々が利己的になっていく。そうした人々が、利他的に振る舞えるようになるためには何が必要なのか。過去の人々が直面した困難を引き継ぎ、現在自分とともにある他者たちの生を支え、未来の世代の生を豊かにするような行動をとる人とはどのような人なのか。

 私が読んだ限りでは、柳田にしても丸山にしてもこうした問題について考えた上でたどり着くのは「信仰」である。例えば信仰の対象として代表的な「宗教」は生に意味を与えてくれる。

 柳田にとって日本古来の宗教とは、血縁的なつながりのある自分の祖先たちが死後、神になるという祖霊信仰であった。もちろん、自分自身も、また、自分の子供も、死後は祖霊に加わることになる。そうして後続の世代を見守るというわけである。血縁で繋がった家、家族という個を超えた価値に帰依することは、利他的行動を利己主義的でない文脈で捉える考え方を供給してくれる。これが、柳田のいう「倫理」「道徳」の基盤であった。丸山は柳田のように信仰の対象について詳しく一つに限定して論じることはなかったが、信仰を「倫理」「道徳」の基盤として置いたことには変わらない。

 私は特定の宗教を信奉してはいないし、信仰について考えたことがなかった。しかし上で脱線しながらも述べたように、利他的行動の利己主義的でない根拠づけはできないものかと漠然と時折考えていた。それは自分が利己的な人間である、ということにも起因する。

 だから、柳田と丸山が「信仰」の問題を取り挙げていることについては、一つの刺激となった。何か宗教を始めてみよう、ということではない(「宗教」は「信仰」の対象の代表的なもののうちの一つだが、唯一のものではない)。宗教の作り出す共同体やそれが何世代と受け継がれていく中で生み出されていく価値観の体型に興味があるのである。

 

「生まれてくる生命を支える」—何故?

 ところで、以上を書きながら、以前にこのブログで書いたものを一部思い出した。以下の記事からの引用。

  

summery.hatenablog.com

 

たとえば、相模原事件。たとえば、日本における排外主義運動の高まり。電通で自殺した友達の友達。そして、今も、また、これから何十年何百年も禍根を残し続ける原発問題。

    それらに関する情報を拾う中で強く感じるに至ったことがある。それは、「一つ一つの小さな生活が危機に晒されている」という危機感だ。当たり前の生、当たり前の幸福の享受や、当たり前の自由が、当たり前でなくなり、時に軽々と蹂躙され、時に複雑隠微な方法で息苦しい形へと変えられていく。

   上に挙げた中で、特に個人的にショックが大きかったのは、相模原事件だ。相模原事件直後にネットの最悪な部分で噴き出した言論は本当にひどかった。障害者の生きる権利を認めないような、とてもここで再現するのがはばかられる発言が多々リツイートにより運ばれてきて、ネットを見て初めて涙を流しそうになった。生まれてくる命を受け入れ、支え、それとともに生きることに喜ぶという当たり前のことが、もしかしたら難しくなってきているのではないか。月並みな表現だが、「社会の底がぬけてしまう」と思った。

 

 若干小っ恥ずかしい表現もあるのだが、修正しようとまでは思わない。実際にそう思ったし、今も当時のTLを見るとそう思うだろうと思う。そしてこうした問題意識の裏には、次の記事の以下の部分があった。

 

summery.hatenablog.com

 

「生まれてくる生命を支える社会を創る」

 最近、東日本大震災直後の『世界』『文藝春秋』『中央公論』を読み直していました。その中で、『世界』の2011年5月号、つまり東日本大震災を内容に盛り込んだ初号を読み返し「生まれてくる生命を支える社会を創る」という記事をみつけました。

ci.nii.ac.jp

 この記事を見つけた私は、その題名だけでなんだか安堵してしまいました。人より優位に立つことや、自己利益を追求することではなく、人とともに支えあい助け合い生きていくことを求める人々がまだまだいると思うと、私も頑張ろうという気分になります。 

 社会を変えようとか、そのような大それたことを思っているわけではありません。「コモリン岬」における見田宗介の言葉を用いながら言えば、私は私自身の聖域を守ろうとしているのです。本来的に混沌として、不条理な世界の中で、なんらかの文化的構築物を仮構しなければ、人間は社会的な存在として生きていくことはできません。助け合い共に生きる共同体のあり方、もしかしたら今、危機にあるかもしれないあり方は、私が人間としてあるために最も基本的なあり方であると思います。つまり、「聖域」です。

 

 この記事は題名の通り、大学院を修了し、社会に出るというタイミングでの、自分の中の宣言として書かれている。当時の私は、共同体の中で、他の人の生を支えることを通じて役割を果たしたいという気持ちがあった(普通に考えれば「大学院」も「社会」の一部であるのでまあ、その外で役割を見つけたかった、ということになる)。

 私は「信仰」を持たない。帰依しようという超越的存在を有していない。けれども、自分と同じようにこの社会で生きる人々の生を支えることは、いつも手放しでできるわけでは決してないのだが、しようと思える。「しなければならない」と言ってしまうまで責任を負えるかわからないのだが。

 そしてそれもまた一つの「信仰」なのかもしれない。おそらく、「信仰」と呼べるほど強度のあるものでは、それはないのだが。

 

「信仰を持たない者の祈り」

 ところで蛇足なのだが、「信仰」は私が折に触れて読んで来た大江健三郎が70年代から90年代に作品やエッセイで盛んに扱った主題でもある。70年代終わりに大江は柳田を集中的に読んで来たとエッセイで言及しているし、晩年の作品では丸山眞男の著作を引いたりもしている。間違いなく、上二者について豊富な読書経験がある。

 ここからは推測に過ぎないが、おそらく、大江もまた、戦後日本における倫理の問題を考える中で、「信仰」ということに当たったのではないかと考えられる。「倫理の問題を考える」とはおそらく、過去/現在/未来に生きた/生きる/生きることになる人々と共有する/せざるを得ない社会の一員として、自分個人のこととは別に何を【すべき】か、そして、【なぜ】そう【すべき】か、ということなのではないだろうか。

 大江は「信仰を持たない者」としての自己につきエッセイ等で一時期盛んに言及している。そして、それは、私が上で述べた「何かはっきりと対象を定めているわけではないが、漠然ともっている共同体への志向」、おそらく「信仰」と呼べるほどの強度のないこの志向を抱えて(それ以上強いものを抱えることができないものとして)どう生きていくか、という問いを考えるきっかけになるのだろうと思う。

 

時代と小説/信仰を持たない者の祈り [新潮カセット講演]
 

 

 しかし、これ、カセットだけなのか?まさか…

 いや、そうっぽい。うーん…。手に入るかなあ。手っ取り早いのは、国会図書館か…。

 

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 大江健三郎については以下の記事も書いたのでよろしければあわせてご笑覧ください。

 

summery.hatenablog.com

summery.hatenablog.com

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summery.hatenablog.com

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「飼っていた猫が死んだ」の記事をリライトした。

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 標題のとおり、「飼っていた猫が死んだ」の記事をリライトした。現在の自分から見ると違和感のある表現が散見されたため。よろしければご笑覧ください。

 

summery.hatenablog.com

 

合わせてこちらも。こっちは、特に現在から見ても違和感がない。

summery.hatenablog.com

 

そしてまだ生きている二匹目の猫。雌猫の方に関しては、こっちに書いた。今年で18かな。「飼っていた猫が死んだ」エントリで飼いた猫(ニャース)よりも長生きである。

summery.hatenablog.com

 

彼女は以下の記事にも出現していた。この記事は比較的うまく書けている。

summery.hatenablog.com

 

一人暮らしを始めて、これで一年半になる。実家に帰るのが基本的にあまり好きではない私が、それでも二ヶ月に一度ほど帰るのは、 猫がいるからだ。

 

 


 

私を教育した人の複数

 小学校の頃から現在に至るまで、都度都度私は教育されてきたのだが、同じ人に長い期間教育されたことは数えるほどしかなかった。例えば小学生時代。私の小学校では2年に一度クラス替えがあり、担任の先生が交代するタイミングは基本的にクラス替えに合わせてだったので、多くの人は6年間で3人の先生に教育されることになる。もちろん、実際には何かの事情で先生が変わる、ということはなくはないが、6年間の間で3人の先生の元で勉強した、という人がほとんどだったと思う。しかしなぜか、私の担任の先生は産休・育休でお休みになる方が多く、4年生までの4年間で4回変わった。5、6年生は同じ人だったので、小学校時代全体で見ると6人の先生にお世話になった。

中学校時代は毎年クラス替えがあり、3人の先生にお世話になった。部活、生徒会、塾でそれぞれ別の先生にお世話になった。中学時代はとにかく、いろんな人にいろんな側面で教育されていた。そういうのが窮屈な人にとっては無論大変だっただろうが、私は教育される状況によくも悪くも適応した。

高校時代も毎年クラス替えがあったが、1年生の時と2年生の時はたまたま同じ先生にあたったので、担任は2人経験した。大学以降でいえば、学部と修士で指導教官を変えたので一定期間私の教育に責任を持ったのは2人。博士1年目は修士の時と同じ指導教官だったが、その指導教官が今年で定年なので、D2になるタイミングでまた変わる。

他方仕事の方では、まだ2年目終わりなのだが、直属の上司はこれで4人目。といっても1人は1週間だけだったから実質3人目。しかしたった2年で、ということなので十分多い。

ある程度の期間、私の教育者となってくれた人は、この人生で16人。四月から指導教官が変更するとともに、仕事の方でも上司が新たになるので、18人になる。随分な数である。私はどうも、ある一人の教育者のもとで数年なりと落ち着くことの少ない運命を辿っているらしい。

 

私は多くの人を教育者として持てるのはいいことだと思う。ある1人の考え方に強く規定されすぎることはないからだ。

多分内田樹だと思うが、父と母の意見は食い違うくらいがちょうどいい、ということをどこかの本で述べていた気がする。なぜなら、その環境下で、子供は父の意見のとおりにすることも、母の意見のとおりにすることも、また、父と母の意見が異なることを理由に、自分の考えのとおりに第三の道を選ぶこともできるから。この話は自分を教育する教育者についても言えることだと思う。

多くの教育者を持った私は、都度都度の教育者の言っていることに影響を受けながらも、スパンを長くとれば基本的には誰かのいうとおりそのままではない道を生きてきた。小学校の先生が私に期待した道も、中学校の先生が私に期待した道も、結局は選んでいない。それが現在の、働きながら大学院という中途半端といえば中途半端な選択に結びついているのかもしれない。それが成功か失敗かはわからないが、ともかく私は自己の選択をある程度能動的にして来られたのではないかと思っている。

橋本治の死去に驚く:「ずっと若い人」の死

橋本治が死んだ

タイトルどおり、作家・橋本治さんのご逝去に驚いた。

作家の橋本治さん死去 70歳 | 2019/1/29(火) 18:13 - Yahoo!ニュース

橋本治については以前別のブログに書いた。そこから少し長めに引用しておきたい。

 

引用元記事

queerweather.hatenablog.com

 

橋本治という人

 さて、ここで、話を橋本治という作家本人に移してみよう。数年前から、橋本治という人物が私には気になっている。

橋本治というのは誠に変わった人である。まず文壇の中での立ち位置が変わっている。本人の言によれば、橋本が書いた本は小説・評論・エッセイと多岐にわたり、その数180点を超えるらしいが、特定の著作が話題に上らない。


 橋本は評論の分野では小林秀雄賞など権威のある賞を受賞しており、小説も若干説教くさい(後述するが、これは厳密には橋本なりのサービス精神なのだろう)が、とにかく読ませる。実力は十分にある書き手である。

 かつまた、現在進行形で盛んに文芸誌に小説を発表したり、新書を書いたりしている。それも、かなり盛んにしているのだ。例えば最近では『知性の顛覆』が出版されたし、雑誌『新潮』10月号では「草薙の剣」という小説を発表している。

新潮 2017年 10 月号

新潮 2017年 10 月号

 橋本は決して終わってしまった昔の作家というわけではないことがここからわかる。

 にも関わらず、文芸の世界でも、評論の世界でも、橋本治が話題に上ることは少ない。


 なぜなのだろうか。
 その第一の理由は、橋本という人間の区分けしがたさにあるのだろう。橋本は作家でもエッセイストでも評論家でもあり、そのどれか一つに彼を還元して語ることは出来ない。いうなれば彼は物書きであり、それ以上でも以下でもない。だから、小説を論じる文脈でも、評論について語る文脈でも、橋本を登場させづらいのだ。橋本を登場させると、話が小説や評論といった特定の分野におさまりにくくなる。


 第二の理由は、彼の書くものの性質による。たとえば橋本の評論は、彼自身が述べるように、とりとめのなさを孕む。まとまっていないような印象がある。しかし、一方で全体に一本の筋が通っていないのかといわれれば、筋がないわけではない。
 なぜそのような文章になるのだろうか。これもまた、評論家でありエッセイストでもある橋本の性質によるのであるのだろうし、橋本が何本も並行し、多くの執筆活動を行っているが故のものともいえるだろう。議論を精緻に構造化するには、橋本のようなスタイルでは、時間が足りない。それに、橋本の饒舌でわき道にそれる語り口のよさは、それでは発揮されないのではないかと思われる。


 今私が「まとまっていないような印象がある」と評したため、橋本の著作がわかりにくいように想像する人もいるかもしれない。しかし特にそういうわけではない。鋭敏かつ明快な部分は多くある。それと同じくらい、明瞭にいえるはずなのに何かに遠慮し、韜晦を含む部分もある。
 橋本は自分が商売をやる町人の息子であるから、どうしても多くの人にサービス精神を発揮してしまうと自著で述べている。また、これだけ多くの作品を発表している書き手の言葉とは思えないが、注目されすぎ、偉くなりすぎることで目をつけられることを恐れてもいるらしい。このような、外見から見える派手な仕事ぶりの一方で存在する世間への繊細な気回しが、橋本の単にわかりやすいというわけではない部分(わかりづらいというわけではない)を構成しているのだろう。

 この橋本が、老年にいたるまで毎月の返済額が100万円にも上るような巨大な借金をバブル期に作り、それを抱えながら仕事をしていたという事実は、意外といえば意外な話だった。橋本の過剰なほどの多作は、経済的な要請に駆られてのものだったのか…となにやら腑に落ちるような気分になったりもする。
 しかし橋本自身の言を信じるのなら、これは事態が逆なのであって、借金を抱えてしまったから否応無くたくさんのものを書かなければならなくなったというよりは、自分はたくさんのものを書けるし書き続けていけるという確信があったからこそ、借金も出来たということなのらしい。

「ずっと若い」橋本

 正直、私は橋本治の本をたくさん読んできたわけではないのだが、私にとって橋本はずっと気になる存在であった。それは上で引用したように、橋本が文壇でトリックスターのような位置にあるから、というだけではない。膨大な橋本の著作を時たま少量拾い読みしながら、私は橋本について「ずっと若い人」という印象を抱いていて、それが私にとって橋本が気になる存在であり続けた理由である。

 これは奇異に映るかもしれない。なぜなら、何の著作で言ってたのか、もう忘れてしまったのだが、(多分『貧乏は正しい』というシリーズ的評論のどれかで。ないし内田樹との対談で)橋本は早く年老いたい、早く50になりたい、というようなことを若い頃思い続けていた、と述べていたからだ。

貧乏は正しい! (小学館文庫)

貧乏は正しい! (小学館文庫)

 
橋本治と内田樹 (ちくま文庫)

橋本治と内田樹 (ちくま文庫)

  

 しかし私の目からはむしろ、橋本は年老いてなお、若さを温存しているように見えた。たとえれば、「ずっと若い人」という感じである。特に『勉強ができなくても恥ずかしくない』三部作(ちくまプリマー)は、大学受験勉強に向かう周囲に違和感を覚え、最後まで躍起になって勉強しようとしない高校生の姿を描いて終わる。

 高校生の姿を描いているからと言って橋本が若いということにはもちろんならない。しかしこの著作からは橋本の、受験勉強という社会が用意した競争システムに乗っかっていく前にあり得た少年少女たちの共同体への憧憬が見られる。そしてそうした共同体にありがちな、大人の社会の論理に対して真っ向から素直に対抗していくことを、橋本はその人生をかけてやってきたのではないだろうか。

 上で引用したようにいくらでも物を書いていく自信があるから、多大な借金を負っても大丈夫、というような無謀さ、多大な借金をして買った住居の価値が無残に暴落することに現れるような暴力的な資本主義の支配する、大人たちの世界に対して、一人ペン一本でどこまでも対抗し続けようとし、実際にそれをやりきってしまうという無謀さは、私に痛快な「若さ」を感じさせた。

 そして翻って、橋本よりもはるかに若い私がいかに「嫌な大人」になりつつあるか実感したりした。それが私が本を通してしか知り得なかった「橋本治」という人物に関する経験だった。

 内面がない登場人物たち

 ところで上の引用部でも紹介した橋本の最近作『草薙の剣』は11月に野間文芸賞をとった作品である。選評では登場人物たちに内面がないことが特徴として指摘され、橋本自身は昭和以降の日本の時代自体を主人公にした、と述べていた。

草薙の剣

草薙の剣

 

 橋本はこの作品で近代以降の日本の小説の大概がそうであるように登場人物の複雑な内面心理を描かなかった。色々なエッセイを見ていると思うのだが、橋本は複雑に考えることを好まないのだと思う。それは橋本のエッセイが簡単だということではない。上引用部で言及している『知性の顚覆』をサクサク読める人は多くないだろう。単純素朴な問いを積み上げることで高いところまで行くのが橋本のやり方だった。『草薙の剣』は単純素朴な人間を幾人も描くことで時代の像を捉えようとした作品である。

 複雑なものを大人の側、単純素朴なものを若さの側に置くとしたら、橋本はやはりここでも若かったと思う。70年生きていて若かった。

 

***

 そういえば、最後に読んだ橋本治のエッセイは以下のリンク先だった。

www.webchikuma.jp

 

 面白かった。ご冥福をお祈りいたします。 

 

「どうでもいい」仕事との付き合い方がわからない

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書き出しによって文のスタイルが結構変わるので、雑感の文体なら読む、という読者少数いてくれると、それは嬉しいことだなあと思ったりする。一応この系列につらなる記事の複数を末尾に貼り付けておく。

 今週は決断について考えることが多かった。本当に仕事で憂鬱だったから。といっても、全然大したことではないのである。こんなことで憂鬱なんて、バカにしてんのかと私が聞く立場だったら言ってしまうだろう。私は今年修学旅行担当をしていて、その中で文化体験プログラムを盛り込むかどうか。そのようなことで火曜日の午後丸々悩んでいたのだった。なぜ憂鬱なのだろうか。それは、決めてしまうと、そう決めた理由を全方位に説明しなければならなくなるからだ。1時間やそこらでちょっと風呂敷や扇子に絵付けをしたり、よくわからない安っぽい石で変な腕輪を作ったりしてもそれで文化を体験したことになるのかなんて微妙なのはわかりきっているから、反対の先生もいるし、それでもまあお寺とかを見ることを続けていてもマンネリなわけだから何か体験要素を入れる方がよいし、実際に持ち帰られて楽しいし、という先生もいるし、様々。行程が決まった後、その責任者である私にみんなが好き勝手色々なことを言ってくるので、その都度修学旅行の理念や教頭・校長の意向や私自身の意思など様々な基準に照らしてそのプログラムを取り入れた理由を説明しなければいけないのだ。

 自分のしたいように物事をできるのだから、それ自体は楽しいはずではないか、と言われるかもしれない。ふむ。確かに。だから一番の問題はどこにあるかというと、私にとって修学旅行がどうでもよすぎることだ。一般に「決断」というと何か自分の中の意思にしたがってしているはずと思われがちである。だから決断をしたんだったら、その人がやりたかったのだろう。やるにたる理由があったのだろう、と周囲から思われる。

 残念。私にとって修学旅行に文化体験プログラムがあるかないかは、本当にどうでもいいのだ。こんなどうでもいい仕事からはさっさと手を引きたい。あまりかかずらいたくないと思う。自分の意思がなく、面倒なことを避けたいと思うとどうなるかというと、ひたすらに誰からも何も言われないような無難な道を選択したくなる。ここで目的はよりよい修学旅行を作り上げることからずれる。けれども周囲の皆は、私がよりよい修学旅行を作り上げようとしていると、その目的は当然共有しているものと考えている。いやいや、そもそもやる気ないんですけど、とは口が裂けても言えないのが辛いところ。自分の中の目的が「誰からも何も言われない無難な選択肢をとること」である以上、この件に関して誰かが何か聞いてくるたびに、その目的が達成されないことの不満が自分の中で募りまくるわけだが、そもそも誰からも何も言われない選択肢などないので、こうした目的を設定してしまうこと自体が間違い。だったのだがねえ。

 心の底からどうでもいいと思う二択に関して、担当者として決断を迫られた場合、誰からも何も言われない選択肢を選ぼうとすると正解がなくなって決められなくなる。それが今回の失敗だった。しかし、どうでもいいのにどうでもよくないふりをするの、普通にきつくないですか。現実的には、どうでもよくてもどうでもよくないふりをするしかないのだが。というか、自分にとってはどうでもよくても、それを実際にやる人たちの身に立てばどちらがよいかはある程度きまるはずで、自己を中心にしないで考えようと思ったのでした。

ところで「どうでもいい」は私の口癖なのですが、この言葉すごく使いやすくて、なんでも大抵「どうでもいい」で済ませられてしまうのですが、過去に個別指導を初めて二ヶ月くらいで生徒に「どうでもいい」がうつって「テストの点とかどうでもいい」と言われた時はちょっとダメージを食らいました。いや、どうでもよくないだろ、と言いかけましたが、私自身が「テストの点とかどうでもいい」と彼に伝えてしまっていたからな・・・。どうでもいいんだけどね。ダブスタであることです。

 

 

 

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