SUMMERY

目をつぶらない

滑らかに生きたい。明晰に生きたい。方途を探っています。

村田沙耶香、高山羽根子、雑記

さて、雑記なのですが、最近読んだ小説についてまずは一言ずつ感想を述べたい。

 

村田沙耶香『しろいろの街の、その骨の体温の』(朝日新聞出版、2012年)

publications.asahi.com

 

最近珍しいニュータウンを舞台にした小説。ニュータウンの開発やその停滞と第二次性徴期の身体の変化を重ね合わせて書くのが小説の基本的な仕掛けで、その上にカースト間の対立厳しい教室で生きる様々な層の生徒たちの生きざまとその裏にある不安や葛藤が、主にカースト下位の私の自己防衛的観察眼により剔出される。

題名に現れるように身体感覚を表すのに秀でた著者。芥川賞を受賞した『コンビニ人間』(2016)を読んだときは、「一般的な人と異なるものの見方をする人の奇妙な認識のありようを淡々と活写されても、読者は置いていかれるだけなのでは…」というような感想しか抱けなかった(ちなみに、当時は今村夏子の作品にも同じような感想を抱いていた)が、『地球星人』とこの作品とを読んで、村田さんの本領はみずみずしい身体感覚の描写にあるのかもしれないと思った。身体感覚ファーストだからこそ、そうではない社会に対する自己の認識が妙なものになるのだ、と。伊吹に対するフェラチオシーンはわりとあっさりと終わってしまったし、ラスト、伊吹と普通に結ばれてしまうのが安易にも感じたのだが、じゃあ他にどう書くの?と言われると、難しいかもしれない。後者は書かない方が無難な気がしたが、それはそれで無責任な気がする。前者はもっと詳しく書いて欲しかったが、それだと読み手は途中で鼻白むかも。少なくともどちらも決定的な瑕疵ではなさそう。

 

高山羽根子『カム・ギャザー・ラウンド・ピープル』(集英社、2019年)
カム・ギャザー・ラウンド・ピープル

カム・ギャザー・ラウンド・ピープル

 

 

2019年前期芥川賞候補作。ゼミの先輩からあらすじを聞いた限りでは良さそうだったし、実際に3/4くらいまでは面白かった。良い小説だと思ったが、ラストがなんとも尻すぼみだった気がする。性暴力加害者である相手・ニシダと対峙しても必要な対話が行われず、かといって対話が拒否されているわけでもなく、それが中途半端な印象だった、もう少しニシダを丁寧に書けなかったのか。特に紙面が足りなさそうではなかったし、書かなかった理由がよくわからないなと思った。選評で宮本輝さんが「書かないのは書きすぎるより問題」というようなことを言っていて、それだけ読んだときはよくわからなかったが、読んでみて納得。もし意図があったのではなく、本当にこれで十分だと高山さんが思っているのだとしたら宮本さんのいうとおり問題だと思う。雪虫にまつわる比喩連鎖は秀逸だっただけに、残念。最後で全てが死んでしまった気がする。しかし『居た場所』(河出書房新社、2019年)は決してそこまで書かなさすぎではなく、よくコントロールされた抑制的な筆致だと思ったが…。

 

その他

 仕事はだんだん忙しくなっていきそう。あんまり話を聞いてくれない中学生の相手をするのが面倒臭くなってきた。教師ってどこまでも教える側だから、蓄えた力を自分で使うということができないなと漠然と考えていた。

 母校の教師になって、アイデンティティは保てているけれども、結局生徒だった頃とはあらゆる面で異なる。もう職に就いてしまっていて、これからこれ以上大きな職の変転がありうる訳ではない以上、生徒だった頃のように未来が開けているわけではないし、案外教員仲間に話が会う人はいない。先生となってしまえば生徒と友達にはなれない。

 

summery.hatenablog.com

 

 それほど理解されるわけではないし、休みも少ないし…。

 二学期には修学旅行があるがまたその委員になった。忙しくなりそう。元気にやらねば。

 

 

 

 

 

香港の若者たちへ:問題に長く関わり続ける覚悟を!

 

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香港のヴィクトリア・ピークからの眺め


 一時期、香港に関心を持ち、色々に調べたことがある。国内の香港に関する文献で社会学系のものは、基本的にすべてチェックし、その上で南華早報(South China Morning Post)という香港で書かれる英字新聞を毎朝読んでいた。興味が高じて香港にも社会学にも全く関係のない専門ではあったものの、香港大で行われた二週間ほどのサマー・プログラム(テーマは「Japan in Hong Kong」で内容的には概ね社会学に接する領域)に参加した。このブログでよくキャプチャ画像にしている写真の中の以下のものは香港大の寮からの夜景である。

 

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山の中腹にある香港大の寮から最寄りのケネディタウン駅の方を見下ろす

 

 ここ三年ほどは関心が離れていたが、最近の逃亡犯防止条例問題に関わって盛り上がるデモのニュース映像を観て改めて関心を持ちつつある。一時期調べていたことを思い出しつつ、少し今般の香港におけるデモの特徴について概観し、考えを述べたい。

 

香港人としての意識の台頭

 香港の政治システムそれ自体は香港人による自治からは程遠い。他方で、政治活動や言論活動については香港は自由度が高い。したがって市民は多かれ少なかれ香港人による自治が可能でない現状を憂え、議会を通じた変革が難しい以上、その外で主張を続けて来た。市民によるデモの文化があるのである。

 今般のデモを見ると、その特徴として、第一に香港人としてのナショナリズムが前面に出ている点がまず挙げられるだろう。もともと移民の集合からなる香港人香港人としての意識が希薄で、香港がいづらい場所となれば、来た時と同じように別の場所に去るだけ、というような意識があった。しかし70年代以降の香港経済の発展、社会福祉の若干の向上や教育体制の整備により、香港は、未だ多くの社会問題を抱えてはいるものの、大きく変わった。住む人が、生まれてから死ぬまでの生が包摂されうるとある程度安心して考えられるような社会状況になった。デモの中心をなす若者世代のほとんどは香港で生まれ香港で育ち、自由を享受してきた。彼らのうちの相当数は自分が生まれ育った香港の社会を改良しようとする責任意識をもっており、ともかく自分一人が稼げれば良い、状況が悪化すれば(英語もできるのだし)外に出ればよい、と考えてはいない。

 

対抗暴力を辞さない構え

 これまでの香港のデモは暴力を行使せず、街の秩序や景観をそれほど乱すことのない行儀の良い性格のものが中心と言われて来た。しかし、この点もやや変化しつつある。香港のデモを中心的に主導する人々のSNS上の発言を見ると、当初は穏健的であったその内容は、香港警察の暴力に対して対抗暴力も辞さない方向にシフトしてきているように読める。実際香港人たちによる今般の運動に関するディスカッションサイトではどのように警察に深手を与えるかということが大真面目に議論されているスレッドがある。また、警察が夜の帰路に何者かにより襲撃を受け重傷を負う事件が起きていたりする。どのようなデモにおいても急進化する一部の人間はいるものだが、にしてもこうした状況は2014年の普選要求の一連の運動(いわゆる雨傘運動=umbrella movement)の際には表面化しなかったものである。

 香港の若者にインタビューするニュースサイトでは、自由のためになら、命を捨てる覚悟があると語る若者も登場し、穏やかではない。「警察とのぶつかり合いの中で一人でも死人が出れば運動は次のフェイズに進む。逮捕されそうになったら、警察に逮捕するかわりに殺せばよいというと思う」とニュースインタビュアーに語る若者の写真がSNS上で拡散されている。

www.youtube.com

 

 「中国軍、来るなら来い」「ただではやられない」というように、デモ側の暴力的ぶつかり合いを前提とした挑発的な物言いも散見される。当然警察側の暴力もSNSで幾重にも拡散されている。現実の一面を切り取ることのできるネットを通じて双方のサイドがエスカレーションしていく様がみられ、恐ろしい。本当に死人が出そうである。デモに参加した善良な一般市民が権力に殺されたとなれば、事は大きくなるだろう。

 

どうやって着地させる?

 しかし、自由のために人が死のうと、体制が変わることはありうるのだろうか。

 普通選挙の実施を求めた2014年の雨傘運動は日本でも大きな話題になったため、記憶に新しいだろうが、結局のところあの運動が成功だったかについては、日本国内ではそれほど関心が払われていない。当然かもしれないが、普通選挙など中共が許すわけはない。多くの市民が動員され運動が国際的に広範な支持を得たことは事実だが、終盤ではデモ側はジリ貧で、中環に座り込んだデモ隊はその外縁に絶え間なく催涙ガスを浴びせられ、少しずつ切り崩されて行った。確かに占拠の期間は長かったが、その間に政府とデモが交渉を行ったり、欧米諸国の介入による解決を誘発するまでに至らなかった。

 今回の運動も、その時と似ている点がある。それは着地点が見えないことである。無論様々に画策しているのだろうが、立法議会が実質的に中共の傀儡なのだとしたら、交渉相手は誰になるのだろう。どのようにその相手を特定し、交渉に持ち込むのか。国際的な支持を得ても、今や大国となった中国国内の問題にあえて、実効性のある形で介入する国は、ほぼないのではないか。

 個人的には絶対にやめて欲しいと思っているが、百歩譲って学生が暴力や死をもし意識するのであれば、それほどのリスクを払うに値する勝機を見極めてからにして欲しい。上に貼ったリンク先の発言や、以下のようなつぶやき・絵からは申し訳ないがヒロイックな自己陶酔しか見えない。それで本当に後々まで続く後遺症を負ったとして、本人はそれで良いのだろうか。次に戦うことすらできなくなる。

 

長い時間関わる覚悟が必要

 こうした物事は明日どうにかなるというものではない。おそらく、一人二人死んだところでそう動くものではない。大騒ぎにはなるだろうが、ほとぼりが醒める頃、案外局面が進展していないことに気づくだろう。それよりもこの問題に粘り強く関わり続けるためのエネルギーを今回の運動から自分の中に溜め込んで、新たな大陸との関係や明日に続く社会のシステムを構築するのに必要な知的体力を涵養するよすがとして欲しい。一人も頭をかち割られてほしくない。

 SEALDSの奥田さんは運動後に一橋大の大学院生になったが、とても良い選択肢だと思う。すぐに成果が出ない運動に長く関わり続けることはそう簡単ではない。特に奥田さんのように指導的立場に立つ人は一参加者の何十倍もの時間を当然無給で費やさなければならない。そもそも日常生活から相対的に遠い問題について、当事者意識を持ち続けることは普通難しい。大学院で勉強することは問題に関わり続けるためにとりうる複数の有効な選択肢の中の一つではあると思う。

 今戦う若者たちが、やがてやってくるであろう、おそらく運動前とそれほど変わらぬ、もしくはより悪い日常の中で、腐らず持続的に戦っていってくれれば良いと思う。もしそうなるのだとしたら、政治体制がより非民主的になったとしても、社会は少し良くなったということに、結局はなるのではないか。それほど簡単な話ではないだろうか…。

 

ところで…

(そういえば知り合いの香港人に3年ほど前に香港の学生運動を応援している旨話したら「黄之鋒(Joshua Wong、上にツイートを引いた、雨傘運動時からの運動の中心人物。学生)はお金のためにやっている」などと言われたのだが、いや、もしお金のためだけにここまでできるんならむしろ尊敬するわ笑)

いずれ好きなことでしか生きられなくなる?:雑記

今日職場が手配してくれた外部研修に行ってきた。色々な事情からその内容には立ち入らないが、他の業種の人たちと話す中で、改めて「一生懸命やったことは無駄にはならない」という言説について考えた。

 

小学校の頃の先生は、こうした言葉そのままではないが、「一生懸命やったことは無駄にはならない」というようなことを色々な局面で私に吹き込んでくれた。「吹き込む」は真であるとは全然限らないのに、繰り返し教え込まれた、というようなマイナスのニュアンスだが、「くれた」はそのことに恩義を感じていることを示す。今から考えると、言葉の真実性とは別に、一生懸命やることを無条件に全肯定してくれるようなその先生の指導は、少なくとも私にとってはとても良かったと思う。もちろん、その言葉が時に過度に子供を追い込むことになりうることは承知している。例えばこうした言明から「結果が出ていないということは、一生懸命やっていない」という呪いの言葉がすぐに導かれる。私の先生はそういう考え方の持ち主ではなく、努力の重要性は歌ってもそれを無理くり押し付けてくることはなかった…が、もちろん発話者の意図とは別にこうしたありうる効果は考慮に入れるべきである。

 

それで努力は必ず実る、というようなことを信じ続け、実際中学の勉強はイージーなのでやった分だけ結果に返ってきたりしてご満悦な中学時代を送ったが、一方で当時の私にも、「どうやら今はうまく行っているけれども、一生懸命やっても無駄になってしまうことはありそうだ」と思われてきたし、中学校の先生が、「一生懸命やってもダメな時はダメなのだ、でも意図せざるところで、その経験は多分生きるだろう」というようなことを何度か言っていて、そんなものかなと思っていた。

 

大学に入ってもう少し視野が広がると、前段の路線の言い換えのようになるが、「一生懸命やったことは、それが無駄にならないような生き方をうまく選択すれば無駄にならない」というふうな形に改めて肯定的にとらえ直した。しかし「生き方をうまく選択的に選びとることなんて、普通できないだろう」と思っていた。

 

今日、一緒に研修を受けた人の中に転職者が複数人含まれていたのだが、彼らの話を聞きながら、少し考えを改めた。「一生懸命やったことは、それが無駄にならないような生き方をうまく選択的に選び取れば無駄にならない」のではなく、ある年齢からは、「それまで一生懸命やってきたことが無駄にならないような形でしか生きられないのだ」と思った。人が、社会がお金を払うのは、基本的にお金を払う対象の人が、他の人ではそうそうできない業務をしているからだ。年をとるにつれ、経験を積み重ねていない分野の業務は露骨にできなくなっていく。まともにできるのは曲がりなりにも、毎日コツコツと呼吸をするように続けてきたことだ。

 

誰もがそのうち、得意なことしかまともにできなくなり、得意なことに関する仕事しかできなくなる。職場でも職場を離れてもそうなのだが、周囲の50代以上くらいの社員が、いずれも割と適所で働いているように見えるのは、そういうことだ。彼らは偶然適所を見つけられたのではない。そうではなく、基本的にもうそこでしかお金になるレベルの業務はできないのだ。

 

ネガティブな意味で言っているのではない。むしろ、私は以上のように見えてきた洞察をポジティブに捉えている。結局は、好きなこと、コツコツ続けてきたことでお金をもらえるようになる。というか、それでお金をもらうしかなくなる。重要なのは、だから、好きなことを関心に沿ってコツコツ続けていくことだろう。それが仕事の場であるか、そうでないかは別として。

 

 

既に持っているものの中にある、乗り越えることの契機:『千と千尋の神隠し』

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  昨日書いた以下の記事の続き。『千と千尋』の作品評でなく、それを観た自分の経験について書いています。

 

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 上の記事にあるように、10歳の頃の私は、スクリーンの前で、連なるイメージや展開など、ほぼ全てのことに驚愕したのだった。そして、自分がそこで生きていく世界、そこでともに生きる存在を自分自身の手で作っていきたいと思った。

 …というと、何だか当時苦しい状況に置かれていたように聞こえるかもしれないが、特に生きづらさを覚えていたわけではない。むしろ当時は、学校を中心とした生活が楽しくて楽しくてたまらなかった。先生に恵まれて授業は大好きだったし、友人との関わりは充実していて、休み時間は大体笑っていた。放課後は毎日のように家の門限まで校庭で遊んでいたし、家では教科書の音読や百人一首の暗唱を果てしなく続け、登下校時はリコーダーを吹き散らかしていた。

 そんな風に今から振り返ると当時は日常が楽園のようで、やることなすことの大体が自分の内部にあるエネルギーの生き生きとした表出と通じており、周囲の大人も私が人を傷つけることをしない限り、私のあらゆる行動を肯定してくれていた。何一つ思い悩むことはなく、学校の定めた枠や規則にしたがいながらも、その枠内において、あまりにも自由だった。そのように常に次に学ぶこと、次にすることを楽しみにできた時代が数年あり得たことが、今どれだけ自分自身の根本的な支えになっていることか。

 しかしその中でも、そうした楽園は、学校や学校の先生のお膳立ての元に成立しているということは子供なりに薄々気づいていて、日中楽しければ楽しいほど、夜に一人で起きてふと「小学校がなくなったら自分はどうなるのだろう、そういえばあとたった2年余りで卒業だ」と考え、不安でさめざめと泣いてしまうようなセンチメンタルな感性も一応持ち合わせていた。そういう時に結局自分が生きていく世界を、学校や先生に頼らずに自分自身で作らなければいけないと思ったし、だからこそ、スクリーンを通して多くの人々の心の中に、現実にはない世界を構築できるアニメーションの世界に大きな可能性を感じた。

 大長編ドラえもんクレヨンしんちゃんの映画をせっせこ観てきた10歳までの私だったが、『千と千尋』は間違いなく、生涯で最も優れたアニメ作品として記憶されるだろうと自分で思っていた。小さい私にすら、「生涯で」などとそれからの70年余りを自分で縛りかねない規定を、生まれて10年目に出会った映画に与えることにためらう気持ちが湧いてきはしていたのだが、そういうためらいは結局無視することにした。なぜなら『千と千尋』はもう世界が大きく揺さぶられるくらい当時の私にとって甚大な影響を与えた作品で、さればこそ、もしそれを超える映画にその後の生涯で出会えるのだったら、本当にそれは、なんと素晴らしいことなのだろうと思われたから。そして、そういうことがあれば、「間違っていたよ。『千と千尋』よりすごい映画があったよ!」と未来の自分ははっきりと、心の中に住まう10歳の自分に喜んで真っ先に報告できるだろうと思ったから。

 以上長々と自分が当時どう『千と千尋』を観たか書いてきた。作品に対する批評でも何でもないが、同作品が子供にどう影響するのか、ということについて興味を持った人の、参考になれば幸いである。

 

最後に少し、今回改めて観た感想 

 ところで最後に付け加えるが、先日今の自分の目から見て、印象に残ったのは、銭婆の家にたどり着いてのちのシーン。千はハクのことを相談するが、銭婆は解決策を教えてくれることはない。自分の問題を解決できるのは自分だけである。一度あったことは忘れない、思い出せないだけである、というような箴言を与えるだけである。しかし銭婆は年功を積んだものの立場から千に承認を与え自立に向けて温かく励ますのであって、作品はそうしたやりとりを何よりも価値のあるものとして描き出す。そしてそこで食事をし、カオナシも含め共同作業をするうちに、ハクはいつの間にか表に来ている。その後に、物語の大きな転換点である、ハクが名前を思い出すシーンが続く。強力な魔法や、現世の人間には理解不能ないくつもの理が支配するファンタジカルな世界において、千が問題を乗り越える方途は驚くほどあっけなく、すでに有していた記憶の中にある答えを探りだすということだけなのだが、こうして映画の終盤、千の旅路と模索の果てにそれが置かれてみると、かつて出会ったことを思い出すということ自体が、何かとても大きなことに思えて来る。日常当たり前にしていることが、凡庸で卑小なわけではなく、むしろそれは状況によっては何よりも大きな、魔法に匹敵する力を持っている、というのが、一つの作品のメッセージなのだろう。

 思えばこれは、大学以降なんども実感させられたことである。いくつか私も自分の中の問題に向き合ってこないこともなかったのだが、都度慌てていろいろなことに救いを見出そうとして四苦八苦した挙句、最後にわかるのはいつも同じこと。すなわち、深刻な問題の乗り越えの契機というのは、何か大きな行動の末にあるのではなく、もう持っているもの、それまでにしてきたことの中にある。もちろんそれを乗り越えの契機とはっきり見定めるためには時間がかかるし手間もかかる。慌てていろいろやろうとして自滅するのも、すでに持っているものを見つめ直すためには重要かもしれない。千が銭婆のところまで行って、ハクを助ける契機はあなたの記憶にある=すでにあなたの中にあると言われたように、結局は自分が答えを握っているのだとしても、自分が答えを握っていることを納得するために踏むべきステップというものがあるのだ。

 

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 以上と似たような観点から、最近(2020年7月)改めて同作を見返し、気づいたことをまとめました。よろしければあわせてご笑覧ください。

 

summery.hatenablog.com

 

『千と千尋の神隠し』を観た10歳の頃のこと

 

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 先日テレビで『千と千尋の神隠し』が割と遅い時間帯にやっていて、後半の一部を観た。観ていると、この映画を初めて観た時のことを幾重にも思い出した。私にとって同作は、距離をとって冷静に・客観的に語ることが難しい作品である。それを鑑賞することは、幼少期の私自身の鑑賞体験と分かち難く結びついてしまっているからだ。

  以下、当時の自分が『千と千尋』からどんな影響を受けたかを少し書いてみたいと思う。この映画を観て同じように大きな影響を受けたという人にとって、その「影響」とは何だったのか、考えるきっかけとなる記事になればよいと思う。

 

 『千と千尋』の公開は奇しくも私が10歳の時のこと。つまり千=千尋と同じ歳の時のことで、メディアでは〈10歳の少女の冒険を描いた作品〉というような(正確に覚えていないが)紹介がいくつかあったので、私は自然と千尋に自分を重ねて観ることになった。当時の私は児童文学を浴びるように読んでいて、その中で、自分が好む作品の主人公がことごとく中学生ほどの年齢に設定されていたのに割り切れない気持ちを抱いていた。自分がそうした物語から疎外されている気がした。

 たとえば当時夢中になって読んだのが『ハリー・ポッター』シリーズで、第一巻のハリーの年齢はたしか11歳。なぜ10歳じゃないのだろうと不満を覚えたことを覚えている。しかしいま考えてみると、たとえば『ハリー・ポッター』シリーズを自分が描くのなら(突然自分をJ・K・ローリングに重ね、話が大変なことになるが)、微妙な問題だがやはり、主人公を10歳に設定することはないと思う。10歳の頃の私は自分が思春期に入ったと漠然と思っていた(当時読んでいた児童文学の多くが思春期を扱っていて、それに深く感情移入していたため)が、今の私の感覚としては、10歳は思春期というよりは、8歳や9歳の、お漏らしするような子供達に近い気がする。彼らを作品の主人公に据えると、思春期の自我の葛藤や友人関係での悩みを扱いづらくなる気がしてしまう。だから、書き手の論理として、ある程度厚みをもち、深みのある問題系を扱う作品を書くのに、12歳くらいが設定されるのは頷ける。

 そこに来たのが、10歳の少女の物語としての『千と千尋』。吉祥寺の映画館に1時間ほど並んでやっと見ることができたのだが、正直何から何まで衝撃だった。けれどもその衝撃を言葉に出来るような言語運用力はなかったので「DVDが出たら絶対買おう」と思い決めるなど作品を物理的に所有しようとしたり、パンフレットを何百回も眺めて作品の世界になんとか入ろうとしたりした。

 それで、その時からなんと約20年近く経ち、私が劇場で『千と千尋』に観入っている間に産声をあげた赤ん坊らが今甲子園で活躍している中にもいるかもしれないというのが2019年夏の現在時。結局10歳の私にとって『千と千尋』の何がそれほどに魅力的だったのか、先日ハクを助ける方途を探すため、千が銭婆のところに行くあたりからぼんやりみていて、少しずつわかってきたような気がする。

 

 湯屋の火室を取り仕切る釜爺から遠い昔に購入した列車の切符をもらい、リンの小舟に乗って湯屋を抜け出す千。湯屋の裏口から出ると、湯屋を取り巻く世界が雨のせいで見渡す限りの水面となっており、その中に一筋線路が通っている。さきほどまで湯屋を脅かしていた明確な敵・カオナシがついて来ており、千はそれを拒絶することなく、銭婆の魔法によって鼠に変えられた湯婆婆の愛息子・坊とそれを運ぶハエ(元々は湯婆の使いのカラス=湯バード)とともに列車に乗り込む。列車の乗客たちの顔は半透明になり見えない。例えばここに続く、銭婆の住む場所「沼の底」に至るまでのイメージの連なり。

 一面の水を見渡す車窓からの眺めに、時折現れる小さな島々。水が来る前は高台だったであろうそれらの上にまばらに立つ西洋の田舎風な家々。人は見えないが、生活感覚はあるので全体に、人がいるはずなのにその存在が剥ぎ取られてしまっている物寂しさが漂う。時間の経過とともに夜が来るが、暗くなった窓にチラチラ映るのは思いがけないことに繁華街に見られるようなネオンサインである。明滅するサインが湯屋の幻影のように出現し、今まさに盛り場から離れつつあることの物寂しさを強調する。しかし千の手の中には鼠とハエの安らかな寝顔がある。鼠は湯婆婆の息子で、彼らは千をこの世界に結びつけて離さない、千にとってはなんとも不条理なはずの理の側の存在で、本来現実世界に生きる千とは立場が違う(敵対しすらする)のだが、それに寄り添われる千は一人ではない。自分には理解不能なものらに、千は付き添われている感覚がある。

 

 こうしたひとつひとつのイメージの連なりが、私にとってはほとんど衝撃的なほどに新鮮だった。一体なぜ水の中に一本レールを通すというイメージを思いつくのか。どうしてそこに西洋風の物寂しい家々を配置できるのか。それらにネオンサインを重ねてちらつかせる着想はどこから得られるのだろう。千についてくる小さな存在達の敵でありかつ味方でもあるような両義性。それらとの関わりから得られる温かみ。不条理な世界の理に立ち向かう一本気な千の仲間たちをこのように、単に千に共鳴する存在でなく、立場としては逆になりうるものらから構成することにより、相互に慈しみあう関係が成立し、それこそが千(そしてその孤独を心配する観客)を励ます。どうして鼠たちが千についていく展開を思いつき得たのだろう。

 他人の心の中に生き生きとした想像の構築物を立ち上げていく、宮崎駿らの想像力の仕事。通常並列されることのない風景同士を並列させ、ともに旅しそうにないキャラクタ同士を結びつけて旅をさせる。しかしそれは全く荒唐無稽な並列・連結ではなく、展開されてみれば、たしかにそれがあり得たような気のする、日常表出化しない独自の論理を持った並列・連結だった。それによって、観るものを強力にそこに現れるイメージの連なりに惹きつけ、そこにこそありうる論理を納得させることにより物語なりのリアリティを感得させる。その帰結として、私のような観客に、映画の中の世界を、自分がそこで生きられる世界のように感じさせること。湯屋を動かす湯婆婆の魔法よりもずっと、そのことが私にとっては魔法のようだった。どんな風に生きたらそれらの組み合わせを思いつくことができるのかわからなかった。狂おしいほどそれらに近づきたかった。こんな風にして自分自身の世界を作れるのなら、そしてそれを作ることが、自意識に内閉するのでなしに、一緒に生きる新たなものらを生み出していくことなのだったら、そのように自分に寄り添う存在、自分の帰ることのできる場所を作っていくことで生きたいと思った。……のだった。多分。

 

※長くなったので、分割しました。続きは以下

 

summery.hatenablog.com

 

※最近(2020年7月)また映画館で観たので、改めて気づいたことをまとめました。

 

summery.hatenablog.com

 

 

 

『闇ミル闇子ちゃん』・アイデンティティ・大学院

 

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 『闇ミル闇子ちゃん』(2014)の単行本を明け方ふと読み直した。本棚にひっそりとしまわれているのに気づいてしまったから。

 著者のsatsumaimoさんは私のいわゆる「同クラ」で、一時期は一緒に小さな演劇を作るなどした。彼は闇子ちゃんのように学生の自意識を快刀乱麻切って切って切りまくるタイプではない。少なくとも二年生までの彼を見る限りは。つまり漫画中の闇子ちゃんの言葉や振る舞いに見られるアイデンティティ確立への途上で学生たちが周囲に対して発揮する欺瞞への鋭すぎる感受性は、彼が大学生活を通して後天的に獲得したもの、ということになると思う。もしそうでなく、闇子ちゃんの吐露するようなことを、彼が大学初年次あたりから普通に思っていたということになれば、私のような自意識過剰な人間は彼の内面において何度血祭りにあがっていたのだろう、と薄ら寒い気分になる。

 何らかのアイデンティティを選び取ることは必ずやそうでないものの排除や、以前の自己の切り捨てが含まれる。人は弱いから、自分が切り捨てていくものに対してそれが「重要ではないものだった」というような否定的態度を取らざるを得ない。それが本当に重要かそうでないかは別として。なぜなら、もしそれが重要なものなのであれば、それを切り捨てるという選択を正当化できないからだ。

 闇子ちゃんは、こうしたアイデンティティ獲得の努力の中で、人々が振り落としていくものに対してとる欺瞞的態度を突く。そして漫画で何度も強調されるように、それは「闇」を指弾して闇を抱える人々との関わりを切り捨て続ける闇子ちゃん自身への批評として帰ってくる。

 大学に入りたての学生間におけるアイデンティティ獲得過程の自意識の闘争。なかなかそこから免れうるものはいない。泰然としている人は、それはそれで、「周囲を実はバカにしている」などとみなされる。二十歳前後の大学生の驚くべき未成熟さ。そしてそれを助長するような前期教養課程のマス化した教育のありよう。前期教養課程で心を病んだり、何らかの形で別なものにどっぷり浸かって、留年他により私の目の前から消えて行った人は私一人の周囲ですら二人や三人ではないのだが、彼らはこうした駒場の空気に中ったのではないか、と勝手に思う。

 

※ちなみに私自身の前期教養課程時代については以下の記事をどうぞ。

summery.hatenablog.com

 

   大学院生まで駒場にいた私の目に、毎年入学してくる大学一年生はどんどん幼く映るようになっていった。教養英語や初年次ゼミのTAで出会う彼らの中に、楽しそうな人はあまりいなかった。彼らは常に自分の選択が他人のそれらとの関係の中でどう位置付けられるか気にしていた。それを見て、私は窮屈だなと感じられた。そういうふうに思い始めたあたりから、私は自分の所属する駒場のキャンパスにほとんどいかなくなった。駒場を歩いているとイライラした。伏在する競争の空気の中にいると、自由に思考ができなくなる気がした。

 正直、最近は大学院にも前期教養的なものと似通ったものを感じる。伏在する競争意識に基づいた他者に対する卓越化の闘争という点で。論文生産にコスパを求める風潮は、論文の数で院生を序列化することに帰結する。また、博士論文を書くまでの期間がどんどん短くなっていくことで、院生は、学振をとっているか、博論の構想が練れているか、(そういうものがあるのなら)博士論文執筆のための審査をすでに受けたか、博論をどれほど書いているか、何年で書くつもりか、などで周囲と比べられることになる。そういう、比較の眼差しにさらされるのが嫌で、そうしたものと大学院は無縁だと思っていたのに…。

 こうした雰囲気は、要するに前期教養課程的なものとの連続性においてとらえられるのだなと思う。卑小な自我を守りたいと思う、それ自体卑小な自意識。それを人生のある段階で抱いてしまうことは責められることではない。闇子ちゃんの漫画からは著者satsumaimoさんの、前期教養課程的なものへの愛が感じられる。なぜなら闇子ちゃんが都度暴き出すように、それらの強がりの裏にある弱さは、20前後ではまだまだ、容易に暴かれるものだから。つまり慈愛に満ちた眼差しとともに結局は、見ることもできなくはないのだ。

 しかしそうした価値観をどこまでも内面化した人々は、可愛いでは済まされない。彼らは他者への暴力を無自覚的に振るう存在へと転化するからだ。それは、一体どのようにして防止し得るのだろう。防止、といって押さえつけるのではなく、他者を貶さずに、みんなで相互に承認しあって、遅い人はその遅さにおいて評価されるような有り様はないのだろうか。

    考えてみれば、そうした共同体の可能性は人文学にあるというのを私は何となく嗅ぎつけてそちらを選択したような気もするのだが、現実にはここ数年で人文学の肩身はますます狭くなる一方。それでもなくならないとは思うが、ポスト削減により目に見えるわかりやすい成果を上げることに汲々とする人々(もちろん、現実的には時間にもお金にも限界があるし、今の状況で、余裕がない人はそうなって当然だが)が人文系で生き残る風潮ができると、長期的には人文科学の価値は内側から掘り崩されてしまう。そういう意味で、危機だと思う。

 

 とか記事を書いて外の様子も確認せずに喫茶店を出たら外が大雨。でもトレーを下げてしまってから入り直すわけにもいかないので、土砂降りに濡れながら自転車を漕いだのでした。とほほ…

私にとっての「広島への最初の旅」

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 毎年この時期になると、高校時代の社会科ゼミナールで、86日〜9日まで広島に研修旅行に行ったことが思い出される。高校2年生の時だった。旅程は平和運動を行う高校生団体との交流や、町歩きフィールドワーク、公益財団法人放射線影響研究所広島市立大学平和研究所・広島市江波山気象館訪問などから構成されていた。今こうして列挙してみると、おそらく個人での訪問を受け入れていないような場所が訪問先に多く含まれており、教員引率の元あるまとまった人数で行う研修旅行でしか可能でないような旅程であることが納得され、先生方が力を入れて作ったプログラムであったということがわかる。

 

 高校時代の私は周囲に比して知的にも情動的にも幼かったため、そうしたプログラムから受け取るべきものを過不足なく受け取り得たかは心許ない。しかし広島というのは街全体として原爆投下の社会的記憶を保存することに努めている場所である。過去にあったカタストロフが、街をどれだけ壊滅的に破壊したか。今現在も残る爪痕は、どのような様相をなしているか。どのような営みにより被曝から今日に至るまでの再生がありえたか。街のいたるところにある解説ボードや資料館などにより、それほど意識的にならなくとも何とはなしに頭に入ってきた。

 到着したのがちょうど86日の原爆記念日で、夜、平和記念公園では追悼イベントが行われていた。本当に多くの人が公園に集まり、灯篭を流したり、原爆ドームを眺めたり、公園の像に祈りを捧げていた。これほどの規模で人々が過去の喪失に思いをはせ、未来に向けての祈りを行う時間と場に接したことはなかった。正直訪問先の記憶は申し訳ないことにほとんど残っていないのだが、広島という街、カタストロフを引き受け、それを背負って生きる街や人々との出会いは私の中に強烈な印象とともに残った。

 それから、高3と浪人時代は難しかったが、大学1年、2年の2年間は少なくとも、86日を、広島平和記念公園で過ごした。青春18切符でだらだらと東京から広島に繰り出し、夜は灯篭流しを見たり、公園内のベンチに腰掛けて本を読んだりした。その時読んだのは、別に広島や戦争に関わる本ではなかったと思う。『暗夜行路』や、『天人五衰』など、そんなものだった。私に限らず、イベントのお祭り的様相に惹きつけられ、ふと家を出て公園に来た人は少なくなかったと思う。私にとっては、その場を多くの人と共有することが重要だった。何か商業的な目的なしに、広い場所に人々が繰り出し、思い思いのことをする。そしてその全体が過去の死者を思うという追悼の方向付けの中にある。そういう空間が新鮮で、そこにいると大きな流れに触れているような気分になった。そうした場は、あまり東京で見出すことができない。東京でも東京大空襲追悼イベントが815日に行われているし、そういうところに行けばそういうことがあるのかもしれないが、平和記念公園という、ある広さを持った追悼のための場所は、東京にはない。そういった場所があることの意味を、行くたびに強く感じた。

 しかし一方、8月6日を広島で過ごした2年間で、私にとっての広島体験を、自分のその後の生にどう位置付けて良いのかはよくわからないままだった。その後、大江健三郎の『ヒロシマ・ノート』(岩波新書、1965年)を読んで、それは少し明確になった。同書の「広島への最初の旅」と題された章では、原水禁原水協の対立や、それをなんとか調停しようとする政治家たちの姿と、それらのいわば党派色のある人々の活動とは別のところで平和を実現しようとする市民のありようが、障害児を授かった衝撃と直面した過去を持ち、今もどうやらそこから完全に抜け出しきっていない、語り手の目をとおして描かれる。

 語り手は、原爆体験を有しているわけでも、また広島と特別に関わりが深いわけでもない、東京の新進作家であり、いわばアウトサイダーである。しかしそのアウトサイダーとしての作家が、大きな破壊からの再生と、平和を希求する人々のモラルに触れ、自己の抱える問題に向き合う契機を得る進み行きを読み、私は初めて、私にとっての広島体験を、私の個人的な生活にも通じうるものとして捉え直す回路を受け取ったようにも思う。

 86日に広島を訪れなくなって、考えてみると5年以上。訪れなくなったのは、第一に結局平和記念公園の追悼を私は消費しているような気がしたから。そして第二に、上で書いたような読書経験の影響もあり、私は私自身に関わる追悼と、それを踏まえた今後の生の方向付けを、私自身の卑小ではあるが、しかし一応わずかにありはするモラルを基盤にコツコツ果たしていかなければならないと思われた。一応私の故郷である、東京の西部で。別に毎日そんなことを意識しているわけではないが。ここ4年間で立て続けに二人祖父を亡くしたので、ブログでは、以下の二つの記事を書いた。ご笑覧いただければ幸い。

 

 

summery.hatenablog.com

 

 

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