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目をつぶらない

文学を専門とする大学院生の日記です

購入すると読む気がなくなるの、本当に罪深いと思う

雑記

 誰にでもあるだろう、衝動買いの経験。今日私も久々にやってしまった。
 ことの発端は、新宿のブックファーストで見かけたソローキンの『青い脂』という本。

青い脂 (河出文庫)

青い脂 (河出文庫)

 

  以前所属していた小さな読書会の課題本として指定されていたが、その読書会には行かなかったため、読んではいなかった。今日ふと見かけたため、裏表紙の紹介文などを見ると、面白そうだ。とにかくはちゃめちゃで、エログロであるらしい。また、ロシアポスト・モダニズム文学の最高峰だというキャッチコピーに興味を惹かれる。表紙もかっこいい。

 とはいえ、別に大学の図書館で借りられるのだから、わざわざ買うには及ばないだろう。だいたい、私は本当に読みたい本がころころ変わるため、買ってもすぐに関心をなくしてしまうだろう。

 そのように考え、ブックファーストを出た私は、周辺を散歩していた。散歩しながら、『青い脂』が頭の中をぐるぐると駆け巡っていた。詳しく確認してみると、大学の図書館では、なんと予約が二件も入っている。そして、アマゾン中古の値段も安くない。これは買ってもいいのではないか。いや、さっき考えたように、買っても、家に帰った途端に気が変わって、買ったばかりの本を積ん読化するということを私はよくやるじゃないか。

 などと考えながら、フラフラ東口のあたりを歩いていると、紀伊国屋書店に行き着く。そこで、これはもう、買うしかないのではないかと思い、買った。大学の書店やアマゾン新品なら、1割引なのに、普通に定価で買ったのである。書店に寄付するようなものだ。私は書店に存続してほしい。差額が1割なら、それくらい寄付してもいいだろう、と自分を説きふせた。どうせ寄付するなら、もっと小さな街の本屋にするべきだったが、『青い脂』が小さい本屋にあるかは微妙であると思う。

 家に帰り、『青い脂』を取り出した瞬間、今日の午前中まで読んでいた『細雪』のような、日本文学がもしかしたら今、とても読みたいのではないか、という気持ちが高まる。そんな時に限って、積ん読していたもののうち、ちょうど良いものが視界の片隅に入っていたりする。具体的には、高橋和巳邪宗門』が、私の方にちらりちらりと眼差しを送ってくるようである。それを試みに手にとって、1ページほど読む間に、『青い脂』への関心が自分の中で露骨に減退していくのがわかる。

 「いつ、君ともう一度出会うことになるだろうね?」エヴァのカオルくんに脳内で同一化しながらそれっぽいセリフを心の中でつぶやきつつ、せめて視界に入りやすい位置なら違うだろうと思い、『青い脂』を本棚の見えやすい部分に置くことにする。『邪宗門』を買ったのが1年ほど前だから、この本も、少なくとも1年ほどあそこにあるのだろうか。どうなのだろう。

 

 

久々にどっぷりと読書に浸る。 谷崎潤一郎『細雪』

読書(文学) 雑記

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 久々にどっぷりと読書に浸っている。「小説の先が気になって、夢中で読みふける」という体験の只中にある。

修論執筆中は、「夢中で読みふける」ことはしなかった

 思えば、修士論文執筆中にはこのようなことを経験しなかった。修論で対象にしたのが牽引力を持った物語が展開されるタイプの作品ではなかったことが、その一番の理由だ。読みにくいけれども、なんとなく気になる。そして気になったところを掘り下げていくと、思いもかけなかった細部同士がつながっていく。つながった時点から、もう一度読み直すと、細部の意味合いが変化して見える、そのようなタイプの作品を扱ったのだった。

 ここ2日ほど夢中になって読んでいるのは谷崎潤一郎の『細雪』である。

細雪 (上) (新潮文庫)

細雪 (上) (新潮文庫)

 

  実は、一度授業の主題にとりあげられた際に読もうとしたのだが、その時はあまり入り込めなかった。今回も、上巻ではうまく入り込めなかったが、中巻あたりから一気にどっぷりと浸かることになった。

揺らぐ蒔岡家と女たちの生

 この作品では、戦中における、関西の旧家蒔岡家の女たちの生活が描かれる。

旧家なりの気品とプライドが見える

    私自身は完全に庶民の生まれであるので、作中における幸子の、自分たちと位が違うと認定した人々に対する鋭利な眼差しが読んでいて突き刺さってくる。そうか、名門旧家に特有の気品とプライドとはこういうものなのだなと素直に感心する。

    いや、本当にそうなのか、それは谷崎の頭の中にだけある名門旧家ではないのか、という疑いはあるが、この点に関して詳しくない私はとりあえずそうであるということにして読む。

揺らぐ蒔岡家と、その中の女たち

    旧家特有の気品とプライドなどと書けばいかにも旧弊に感じられるし、私もその内閉的な雰囲気が嫌で、初読時は上手く入り込めなかった。

    しかし、作品の力点は旧家が旧家として存続し続けることができない状況を書くことにある。蒔岡家は家主の交代や経済状況の変化により、有り体に言えば没落していく過程にある。その背景のもと、多くの私生活上の事件や複雑な時局下の社会情勢の変化に対する対応をせまられる構成員に、語り手は内的に焦点化する。

    主に女たちに内在的な視点から、小事件や他人と相対する時の、彼女らの対応や細かな判断、感情の動きをつぶさに描くことにより、一方で、旧家の規範とそれに基づく行動様式を保持し続けるからこそ守られる精緻な人間同士の関係や家と家との緊密かつ互恵的な関係が克明に描かれる。

    無論そしてまた、他方で、家という制度が自己保存と再生産を繰り返すことの空虚とそこにがんじがらめにされる女の苦悩、そして悲哀が描かれる。

家制度という文化的構築物の体系が克明に描かれる

    作中には、どうしてここをこんなに細かく書かなければいけないのか?と思われるような細かな描写や固有名の連続が多々見られる。私には勉強不足でわからないが、微に入り細に入り見ていけば、それら一つ一つは実は効果的に配置されており、全体として家という一つの制度を描き出すために不可欠な装置として機能しているのであろう。

    ここまで徹底的に家制度や、そこにおける生活の様式が描かれると、精緻に描き込まれた一つの絵画を見ているようだ。細かな描写それぞれが、全て内在的な論理に貫かれているように思われる。ここに書かれているのは一つの体系である。

    しかし残念ながらこれは依然浅い読みで、書き出される体系と語り手の位置との関係を問わねばならない。「夢中」で読んでいるので、今はそこまでいかないが、これを書く意味はなんだろう、ということはおいおい考えていきたい。

そして、お見合いの行方は…?

 ではなぜ、「夢中」で読むのかといえば、最大の原因は、なんといっても物語の中心に据えられた三人の女たちのうち、二人のお見合いの行方であろう。「どうなっちゃうんだろう、これは」と野次馬根性をむき出しにして、ハラハラドキドキしながら読んでいる。焦点化されることの多い人物幸子が、まだ結婚のあてが見つからない二人の姉妹の今後を案じたり、お見合いの段取りを整えながら、その成り行きに気を揉んだりする部分を読むと、「いや、ここは妙子を先に片付けてもいいのでは?」とか「この男を雪子と一緒にすると、雪子がかわいそうなのではないか?」とか幸子に並行して考えてしまっている自分がいる。

 物語の世界に入っていくことの快感を、久しぶりに味わっている。

 このように夢中になって物語の世界に入ることは、快感だが一方で、こういう読みは、批判的な読みではないな、と思う。語り手が繰り出す物語世界に乗っかって、驚いたり、喜んだり、悲しんだりしているのだから、小説の装置を相対化して読んではいないのである。

 やっぱり夢中になって読むことと、作品について論じることは違うな。大学院生を終える私は、これから物語とどう付き合っていこうか、などということを少し考えている。本当に、少し。とりあえず先を読む。

 

物語の創作を授業で行うことについて考えたこと

思うことなど

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 昨日、以下のようなエントリが回ってきて、興味深く拝読した。私も、高校の国語の授業で小説の創作を経験したのだった。

askoma.info

 当時のことを振り返ると、私は創作が好きだったので、「書いた」「書く」という意識だった。しかし一方、周囲を見回すと、「書かされた」という意識を持った人の方が圧倒的に多かったように思う。中学以降に受けたことのある国語の授業とあまり趣が違うにもかかわらず、先生がその意義を十分に説明しなかったため、生徒はそれをすることの意義につき納得しないまま、創作を迫られることになったからだ。

 創作の授業の体験を受けた立場から振り返る

 私が高校で経験した授業は、以下のように進行した。冒頭、先生が簡単に技術の説明をする。それは、修辞技法や語彙の選択、そして焦点化の方法などに関わるものである。それを生徒は、その場で簡単に実践する。そして、個人作業の時間に入る。

 個人作業の時間に先生は何をしているのか。机の間を回って、声をかけたり、創作物を横から読んだりしている。なんだか、先生が手持ち無沙汰のように見えるな。これで授業って言えるのかな、と感じたのを覚えている。権威を持った教師が教える知識なり技術なりを、あまり疑問を持たずに頭に入れ、テストでそれを再現する、という授業の様式が高校生当時の自分の頭の中に第一義的に存在したが故の、違和感である。

 と同時に、当時もう一つ持った感想は、「これは美術の授業のようだ」というものだ。私が経験した小中の美術の授業は大概そうだった。先生が、今度用いる素材や、創作の基盤となる技術について解説する。そして、初めはそれを用いた非常に簡単な創作物を作る。その後、生徒個々人がそれらを応用しながら、自分としての表現を突き詰めていく。先生は、机の間を回って「へぇ」とか「ほお」とか言う…(もちろん指導もしています)。

 創作を授業に取り入れようとすれば、教員は、上のように生徒一人一人の自己表現を支援するという形態の指導を取らざるを得ないだろう。実際、上記エントリの主であるあすこま氏の指導は、書き終えた完成品について評価を下したり、添削をしたりすることを主眼とするのではなく、書き手の書く過程自体を支援する(プロセス・アプローチ)指導であるとのことだ。

 「なぜ学校の国語の授業で物語を書くのか?」

 このような授業を展開すると、当然に「なぜ創作を授業でやるのか」「創作を授業でやる意味があるのか」という問いが投げかけられる。上記あすこま氏のエントリでは、その意味として三点あげられている。そのうち二点目、三点目はいずれも言語を用いての自己表現=語ることの重要性に関わるものである。

 二点目として提示された言語運用の技術の涵養という論点が、技術的な面を重点においた意義づけだとすれば、「生きる力」というクリシェにひきつけることが出来そうな第三点は、表現すること、語ること自体の意味から、創作の重要性に踏み込もうとするものだろう。これらの説明は一応のところ納得できるものであると思われる(もちろん、学校教育という制度の枠組みの中では、第一点目の理由が端的であることは言うまでもない)。第三点目の理由は、個人的には未だ十分に説明されたものではないと思われるが、そもそも十分に書くことが容易ではない上、教育現場で発せられる上記の問いに対する答えとしては、大きな欠陥があるとは全く思われない。私が不十分に感じるのは、端的に私の専門と関心に関わっているので、この私の感覚は別に無視されて良い。

 一方、これを読みながら、私は新たに問いを持つに至った。国語という科目に負わされている責は膨大だ。教員によって養成されることが期待される生徒の能力は多くある。確かに創作をやる意味はあるだろう。それは重要だろう。しかし、他にも重要なことはたくさんある。貴重なリソースを例えば読解力の開発でも、論理的思考力の開発でもなく、あえて創作に割く理由は何か。ということが、気になったのである。

創作に授業時間のどれほどを割くのが適切なのか。なぜそれが適切なのか。

 創作の授業は重要であり、必要だ。それと同時にまた、当然のことながら、創作でない授業も重要であり、必要だ。重要か、必要かでいえば、どれもこれも重要であり、どれもこれも必要である。

 例えば、教科書を用い、黒板を前にして、皆で一斉に短めの文を精読する従来型の精読の授業を考えてみよう。それは今、批判にさらされている。しかし、批判はあっても、それが不要であると言い切る人はいないだろう。精読の授業には限界がある。しかしそれは必要だ。そしてまた、そうではない他の形態の授業も必要だ。色々な形で言葉に触れ、言葉を使うことにより、運用能力が身につく。

 したがって、議論されるべきは、何をどのようなバランスで教育にとりいれていくか、ということだ。そこには、教育者が生徒のどのような力を伸ばしていきたいか。どのような理由によりその目的に正当性が付与されるのかということに関する議論が不可欠である。

 「なぜ授業で創作を扱うのか」という問いの一部は、「(創作が重要なのはよくわかるが、他にも重要なものは多々ある中で)なぜ(あえて今、大変リソースの限られている学校教育という現場の中の)授業で創作を扱うのか」という問いをはらんでいるように思う。

問い

 以上から、上のエントリを書いた筆者にまず私が問いたいのは、①創作の授業は重要だとして、「一年の授業の中で、どれほどの時間を創作重点型の授業に割くことが適切なのか」という問いである。

 次に、②「そのような配分をとる理由は、どのような優先順位によっているのか」という問いが、さらに、③「公教育には多額の税金がつぎこまれているため、公教育を行う主体=教員は、それらを適切に運用する努力義務があるだろう。それでは、③の答えとして提示された優先順位には、いかなる意味で、正当性があるのか」という問いが来る。

 

雑記:岩盤浴に行ってきた

雑記

 岩盤浴に行ってきた。3日前のことである。

 家から自転車で20分くらいのところに岩盤浴場ができたのは、三年前の話だ。それから一年ほどは、私の家の近所で岩盤浴ブームが巻き起こっていたように思う。母からも「隣の家のおばさんは年間パスを購入したらしい。私も行ったが割とよかった。あんたも行ってみれば」というような勧めを二度ほど受けた。けれど当時の私は特に興味がなかったので、行ってみたりはしなかった。

 それから三年経過した、3日前、その前を偶然自転車で通り過ぎて、なんとなく入ってみたくなった。今行かなかったら、多分一生行かないだろうという気持ちが、なぜかでてきた。一年後の自分のありようさえ全く想像できない私であるのに、なぜ岩盤浴に関しては一生という長いスパンで思考できたのか本当に謎である。働き始めてからも別に土日は休みだし、いくらでもいけるはずなのだが。

 とりあえず訪問してみるも、受付でバスタオルその他のタオル類を借りるのに合計200円ほどかかると聞いて、なんだかお金がもったいなくなり、入らずに帰宅した。しかし、「今いかなければ…」という前述の謎の焦りが再びわきあがってきたので、今度は自宅のタオルを持って再来。

 中に入ってみると、そこは岩盤浴を中心に据えた総合保養施設のような趣で、食堂や普通の休憩コーナー、漫画付きの休憩室、温泉、小型ゲームセンター、マッサージコーナー、床屋など実に多様なゾーンからなっている。

 とりあえず温泉に入ったが、万人向けにそうしているのか割とぬるくていまいち。そしてまた結構手狭でもあった。

 温泉を出た後に岩盤浴に行くことにしていたので、それ用の服に着替え、一直線に岩盤浴場に向かおうとしたが、途中の漫画付き休憩室で『寄生獣』をみつけ、読みふける。気がついたら3時間経っていた。

 『寄生獣』を初めて読んだのは14年前の歯医者の待合室。今読んでも、出来がよい作品だなと思う。緊張感のある展開と、人間とは何か的な重い問題提起、そして自然なユーモアが同居していて、とにかく読ませる。今回再読して思ったのは、素直でまっすぐなシンイチは一方で結構不器用で不安定な子なんだな、ということ。思春期の不安定な少年を主人公に据えることにより物語が豊かなものになっている。私もミギーのような友達が欲しい。

 そんなこんなで目玉の岩盤浴に行く頃には、夜8時になっていた。どこで服を脱ぐんだ?と思いながら、割と重々しいドアを開けるとそこには浴衣を着たまま横たわる人々の姿が。あぁ、岩盤浴ってお湯ないんだ、と今更気づきながら横たわった。だらだらと汗をかいた。それがいいということだったが、うーん。

 休憩室に再来し、『寄生獣』の続きを読む。安っぽいヒューマニズムに回収されそうなテーマ設定だし、実際に大部分はそれに回収されている。人間側と寄生獣側との対立も、どこかの道徳の教科書にでてくる教材を少し高度な構図にしただけのように見える。しかしながら、読ませる。とにかく読ませる。

 岩盤浴自体はあまり印象に残りはしなかったが、帰ってベッドに入ると体が妙にほかほかして心地よかった。

 

5文型に変わる提案が新鮮 安藤貞雄『英語の文型:文型がわかれば英語がわかる』(開拓社、2008年)

読書(その他)

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 何を学ぶに際しても、学び始めは特に楽しいものではないだろうか。昨日に続け、今日もまた、英文法に関する本を読んだ。今日読んだのは安藤貞雄『英語の文型:文型がわかれば英語がわかる』(開拓社、2008年)である。

 

英語の文型―文型がわかれば、英語がわかる (開拓社言語・文化選書)

英語の文型―文型がわかれば、英語がわかる (開拓社言語・文化選書)

 

  

 昨日読んだ、中川右也『教室英文法の謎を解く』(開拓社)という本の参考文献欄にも載っていた本である。生成文法の専門的な用語が出て来る部分があるため、そこに関してはあまりよくわからなかったが、それにしても、大体の部分は理解することができたと思う。

文法の基礎知識が中学段階で止まっている私

 私が英文法に初めて触れたのは、地元の個人塾だった。先生が自宅で開き、一人で切り盛りしている塾である。その先生は私に、英文法とはどういうものか、文法に即して英文を読むということがどういうことなのか、そして、辞書をどう引けばいいのかということを教えてくれた。今になって思うが、そこで基本的な学習の仕方を教えてもらうことができたことは、私に取って本当に幸せなことだったと思う。

 そこで学んだ英文法は、今から振り返ると基礎の基礎だった。そして、高校以降今日に至るまで、基本的にその基礎の上に、ほとんどの英文を理解できてきた。そのことは、昨日書いたとおりである。

 しかし、だからこそというべきか、一方で私は基本的な文法事項に関する自分の中の知識をアップデートしたり、当初抱いた素朴な疑問を解決したりする努力を怠ってきてしまいもした。

 今回この本を読み、 中学からこのかた、持っていた疑問や違和感のいくつかが綺麗に氷解していくのを感じた。大変刺激的な読書体験だったといえる。

    ここではその一部を取り上げることにする。

I am in the room.という文に関して抱いた疑問

 中1で最初に英文法を習い始めたあたりの時期のことである。I am in the room.という文章にあたり、私はやや戸惑ったのを覚えている。戸惑った理由は、「これは第何文型なんだろう?」「in the roomは補語なのかな?」という二つの疑問を持ったからだ。

 先生は、前者の私の疑問に関しては「第1文型」後者の疑問に関しては「in the roomは、前置詞+冠詞+名詞からなる副詞句である」という答えを与えた。私は前者に関しては、「in the roomの部分は文型に分けるときは捨てられるんだな。随分ダイナミックに切るんだな。」となんとなく違和感を抱いた。後者に関しては、「前置詞+冠詞+名詞は形容詞句にもなると習ったから、補語と考えてもいいように思うのに、なぜそうならないのだろう」とさらなる疑問を思い浮かべた。

 この本をもとにすれば、先生の前者の答えは、5文型をもとにした説明の枠内では正解。だが、そもそも、このように分類せざるを得ないことに問題があるというのが筆者の主張。後者の答えも正解だが、上の説明では私が抱いた疑問が当然でてくるということになる。それでは、筆者は以上の違和感や疑問にどのように対応するのか。 

違和感と疑問がするすると解消

 筆者によれば、件の文におけるin the roomのような副詞句は、「動詞にとって義務的な副詞句」(以下、Aと表記)である。Aは、それが存在しないと文が成立しないような、文の成立にとって不可欠な副詞句である。

 本来的に、Aにあたる部分を欠如させた文が成立しないにもかかわらず、あたかもそれが主要素ではないように、件の文をSV=第1文型というAを無視した分類にせざるを得ないこと、そのことが、「5文型の最大の欠点」(9頁)だというのが筆者の問題提起である。学習の最初期に持った上記の違和感は、「5文型の最大の欠点」に関わるものだったんだ…。

 ということで、このような欠点を克服すべく、Aを文の成立にとって不可欠な要素と見て、SVA、SVCA、SVOAを加えた8文型の提案こそが、筆者の最大の主張である。これには思わず頷いてしまった。

 ところで、私の疑問の後者、すなわち「in the roomはCではないのか」という疑問に関しても、「論争が行われたことがあった」(25頁)とのこと。初学者が素直に持つ疑問も案外大事なんだなと思う。

 これに関して、筆者は、I am in the room.のような文はWhere is he?という疑問文の答えになるから、副詞句決定、と述べている(25頁)。確かにwhereは疑問副詞なので、そう言われてみるとすぐに判別できるな。そういう風に考えればいいのか。

 以上のように、中学時代以来有していた違和感と疑問がするすると解消していく快感を味わうことのできる読書体験だった。他にも、全く知らなかった文法事項が満載で、一気に読んでしまって、知的好奇心が満たされる満足感を味わった。

 しかし同時に、もう少し早くこの本を読んでいれば、得することも多かったのにな、ということを繰り返し思った。でもしょうがないな。今日まで英文法を改めて学び直そうとは一度も思わなかったのだ。6年間、一度も。やれやれ。これから少しずつ文法知識の幅を広げていきたいと思う。

疑問がするすると解消していく 中川右也『教室英文法の謎を探る』(開拓社、2010年)

読書(その他)

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うわ、読めない…

 久々に英語を読もうとしたら、全く読めなくなっていた。「あーあ」と思った。

 こういうときいつもなら、英語の本とその翻訳とを並べ、何日か取り組むことで英語力を取り戻していくのだが、今回もそうしようとして、どうもそのやり方に倦んでしまった自分を見つけた。

 英語から遠ざかった時期が長かった(半年)せいか、英語と日本語を行き来することの不自由さばかりが不快感として残る。加えて、以前からよくわかっていなかった文法事項が気になり始め、その意識が足枷となる。そうして、英語を読むという行為にうまく集中することができなくなった。

 関心は日本文学の私であるが、外国語の勉強は比較的継続して行ってきた。決して高いレベルではないが、IELTSで言えば、一応overall7.0はぎりぎりある。

 英語の勉強を続けて来た理由は、文法への興味からである。生きた言語が、帰納的に導かれた文法という体系に乗っかっている様を観察したり、目の前にあるよくわからない文章が、いくつかの(言語総体の果てしなさと比べれば)はるかに単純な規則を守ることにより読解可能になるということが面白かった。

 英語が読めなくなった今、とりあえず初心に帰り、再び文法を勉強すればどうだろうか。そう思われた。しかし、教室英文法には飽きている。専門的な文法書は難しい。その橋渡しとなるような本として、手に取ったのが、中川右也『教室英文法の謎を探る』という本である。わかりやすく、面白くて、1時間ほどで読み終わってしまった。

教室英文法の謎を探る

教室英文法の謎を探る

 

 そもそも、私は基本的にアルバイトで英語を教えていたので、教室英文法はこの大学・大学院生活で5周ほどしている。その経験が、「教室英文法の謎」への強い関心となり、読書を強力に後押ししてくれた。

するすると謎が解けていく

 読んでいく中で目から鱗がいくつも落ちた。特に関心させられたものをあげておきたい。

時・条件を表す副詞節の中はなぜ現在形?

 最初に強く感心したのは、「6 時・条件を表す副詞節は、なぜ未来のことなのに現在形なの?」(19頁以降)というセクション。

 解説の中では、時・条件を表す副詞節が用いられた文"We will go out when Taro comes back."が取り上げられ、willが用いられる主節の方が従属節に比べ、相対的に遠い未来にあることが指摘される。その上で、以下のように「謎」が解き明かされていく。

whenを使った文の場合、主役である主節の動詞が、助動詞willを使うことによって、副詞節(when節)よりもあとの未来の出来事について述べていることが示されています。そのため、従属している副詞節までもが、未来の出来事を述べているのだと示す必要がなくなるのです。あえて副詞節に自己主張させると面倒なだけでなく、くどい表現になってしまうからです。*1

  ふーん、そうだったんだ。ネイティブが感覚的にやってることを論理的に説明してくれるのは本当に助かるな、と思う。くどい表現を避けるというネイティブの感性を参照することを通して、説明される文法事項はこれまでの自分の文法学習の中で幾度か出て来た気がする。今一度、意識し直そうと思った。

疑問詞+to不定詞ってもともとはどういう形なの?

 疑問詞+to不定詞に関しては、さっさといくつかの用法を暗記し、読んだり書いたりすることができるようになってしまったこともあり、場面場面で微妙によくわからないな、と思うことがあっても、何がわからないか言語化してこなかった。この本によれば、疑問詞+to不定詞は本来的には、〈疑問詞+S+be+to不定詞〉(つまり、間接疑問文ということですかね)らしい。それゆえに、

I don't know who to go

I don't know who to go with*2

 

の二つを考えると、上は言えず、下は言えるということになるとのことでした。これは本当にすっきり頭に入った。

強調構文(It is 強調要素 that 残り)におけるthatの先行詞って何?

 また、同様に、丸暗記して自分の中で終わりにしていた強調構文であるが、生徒に教える際、参考書などの解説でthatが関係代名詞と記されていたことは、ずっと気になっていた。

 にもかかわらず、調べずに済ませていたのは、明らかに、暗記する方が早いと思われていたからだ。強調構文はルールさえ知っていれば訳すのも、作るのも簡単であり、実際私はこれまで解釈においても作文においても強調構文で迷ったことはない。

 しかし、この本の解説を読んで、thatの先行詞は文頭のitであること*3を知り、圧倒的に理解が深まった。あぁ、そうなのね、itを先行詞にとるのね。普通はあまり見ないけれど、those whoとかもあるし、そうかもしれない、と読んでいました。

進んだ文法学習で、先の風景が見えるかもしれない

 文法学習が好きで、高校までの教室英文法はだいたい頭に入っている自信があった。実際それにより、受験英語における長文はもちろん、大学・大学院の学習において出会われる大抵の英文はほぼ全て読めた。

 少なくとも、研究論文などは規範的な英文法の枠内で描かれることが期待されている。そのため、その読解は、教室英文法で事足りる。これは経験上そうである。もちろん、TOEICに始まる各種試験の英文にも対応できた。

 しかし、一方、私は小説や気の利いたエッセイ、そして新聞の社説といったテクストとなると途端に読めなくなってしまうタイプでもあった。その理由は、見たことのないような書き方に出会った時、その内容を読み取るよりも先に、自分のなかの教室英文法の体系に沿っているかどうかを検証してしまうせいで、筋に対する集中力を持続させることが難しくなってしまうからだった。

 そのため、英語の試験で良い点を取ろうが、研究論文をいくつ読もうが、英語ができるようになっているという実感が全くなかった。その理由は、教室英文法に安住してしまっていたからかもしれない、と思う。依拠すべき体系を拡充する時が来たのである。教室英文法の範疇を超えたよりしなやかな文法知識を身につければ、今よりも先の風景が見えるかもしれない。

*1:中川右也『教室英文法の謎を解く』(開拓社、2010年、22頁)。

*2:同上、145頁。

*3:同上、170頁。

『騎士団長殺し』を読み終わった

読書(文学)

 『騎士団長殺し』を読み終わった。異様な小説だな、と思った。過去二つの記事で述べた、漠然とした底の浅い印象。それが、筆者の意図的なものかもしれない、とラストを読んで思う。何かが解決した気がしない。あえて解決させない、という意思が読み取れる。

 

summery.hatenablog.com

 

summery.hatenablog.com

 〈私〉は何を隠している?

 秋川まりえへの、主人公(以下、〈私〉)の視線は、子供を見る大人のそれである。まりえが大きくなり、綺麗になったら男の愛でる対象になるだろう、といったモノローグと共にまりえの観察が行われる。この辺り、気持ちが悪くてしょうがなかった。これまでこんなのあったかな。

 秋川まりえを遠くから観察する免色は、作中でそのまりえへの執着度合いという点で、均衡を欠いたような人物として描かれている。しかし、〈私〉のまりえへの視線も十分薄気味悪い。それに呼応するようにして、乳房の膨らみへの不安を吐露するまりえ。このまりえはまりえで、〈私〉を誘っているのではないかと思われなくもない。

 あまりにご都合主義的に現れては消え、物語の展開を導いてくれる騎士団長に関しても、結局よくわからない。大変その意図がわかりやすい設定が多々見受けられる中で、それと不協和音を奏でるように、いくらでも効果的につけくわえうるような説明や、設定の利用が抑制されている。わかりすぎるくらいわかる部分と、なぜわかるように書かなかったのかよくわからない部分とが混在している、という印象。

 とにもかくにも、『騎士団長殺し』を読んでいて最初に持った感想、すなわち、『ねじまき鳥クロニクル』の主人公岡田と、『騎士団長殺し』の〈私〉とで、世界認識のあり方、世界との関係の持ち方が根本的に異なるという感想は、案外重要な気がする。語り手により語られないためにわからなくなっている空白が多い為、読後感がおぼつかないのであろう。

 物語の最後で授かった子供である「室」に目隠しする〈私〉は、読み手に対して〈私〉が与える目隠しでもあるのではないか。何かが隠されている気がするが、果たして何が?そしてそれを明らかにする価値があるのかが、わからない。途中、「見所がない作品だな」、と思っていたが、案外考えるべきところの多い作品かもしれない。