SUMMERY

目をつぶらない

滑らかに生きたい。明晰に生きたい。方途を探っています。

作家・古谷田奈月さんについて(1)三島賞受賞作・「無限の玄」(2017年)まで

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最近話題作を繰り出している作家として私は古谷田奈月さんに注目している。二度くらいにわけて、ちまちま調べた情報や、読んだ古谷田小説の感想について書きたい

 

1、古谷田奈月とは誰か。

 古谷田奈月は、現在純文学系の文芸誌を中心的な活動の場とする新進作家である。古谷田の小説の多くに共通するのは、家父長制社会下における男女の生に独自の観点から問題意識を投げかけつつも、そうした社会に生きる若者たちの個人史によりそい、彼らを肯定的に描き出す語りのありようと言えよう。

 

 古谷田は、1981年に千葉県我孫子市に生を受けた。二松学舎大学文学部国文学科を卒業してのちは、しばらく派遣社員などをして働いていたようだが、その後本格的に執筆に取り組み始める。

 2013年には、「今年の贈り物」という作品で第25回日本ファンタジーノベル大賞を受賞した。同作は、その後『星の民のクリスマス』(新潮社、2013年)と改題されて出版される。これが古谷田のデビュー作となった。2016年には光文社から『リリース』という作品を出版している。この作品は2017年に第30回三島由紀夫賞候補となったが、当選はしなかった。しかし同作は第34回織田作之助賞を受賞している。

星の民のクリスマス

星の民のクリスマス

 

 

リリース (光文社文庫)

リリース (光文社文庫)

 

 

 2018年には、「無限の玄」(『早稲田文学』増刊女性号(通巻第1026号)、2017年)で第31回三島由紀夫賞受賞し、「風下の朱」(『早稲田文学』2018年初夏号(通巻第1028号))で第159回芥川龍之介賞候補となった(受賞作は高橋弘希送り火」)。この二つの作品は一冊にまとめられ『無限の玄/風下の朱』として2018年に筑摩書房から出版され、第40回野間文芸新人賞の候補ともなる(受賞作は金子薫「双子は驢馬に跨がって」、乗代雄介「本物の読書家」)。 

無限の玄/風下の朱 (単行本)

無限の玄/風下の朱 (単行本)

 

 

 2019年4月には長篇「神前酔狂宴」(『文藝』2019年夏季号、のち河出書房新社より2019年7月に単行本化)を発表した。同作では、明治時代の軍神を祀った神社の管理下にある会館で、結婚式の運営にあたる派遣社員に焦点化して語りが行われる。同作は日本的婚姻制度の問題、天皇制と生身の身体を持つ天皇の個人としてのありようとの間の葛藤、新自由主義下の若者における貧困の問題などが描き出される意欲作であり、高い評価を受けている。

神前酔狂宴

神前酔狂宴

 

 

 以上述べてきたように、古谷田はデビュー以降概ね継続的に作品を世に送り出し続け、その多くが主要な文学賞を射止めたりその候補となるなど、現代文学を孵卵し、世に送り出す文芸誌を中心とした制度——以下では仮に現代文学の「文壇」と呼んでおく——の中で、八面六臂の活躍を見せている作家である。

 

2、「無限の玄」「風下の朱」執筆まで

 前項で述べたように、古谷田のデビュー作はファンタジーノベルである。もともと古谷田は純文学の新人賞に応募していたが、「純文学縛り」が窮屈となり、ファンタジーに向かうことになった。

 インターネット上で公開されている下記のインタビュー記事において、古谷田はスクエア・エニックス社(現社名)製の大ヒットゲーム『ドラゴンクエスト』の攻略本から、同ゲーム中に現れる装備など細かなディテールにまで作品世界設定に即した物語が付されていることを知って感嘆したエピソード                   を述べており、古谷田が想像上の世界を精緻に組み上げていくことへの志向性を有する作家であることがわかる。

www.webdoku.jp

 

 しかし、受賞後、今度はファンタジーのようなエンタメ系の領野ではオチをつけなければならないことに窮屈さを感じ、逆に何でも書いて良い純文学が自由に思われるようになったという。

 

転機となった『リリース』(2016年)

 そうして書かれた作品『リリース』は同作品単行本版の「解説」を執筆した栗原裕一郎のまとめを引用すれば、「男女同権やLGBTの権利の確立という理想が実現した暁にはどんな未来がやってくるかを追究した、思考実験的なディストピア小説[1]である。

 空想上の社会を描くという点ではファンタジー的想像力に親和的であるものの、テーマは現代におけるLGBT運動と直結しており、社会的な問題に取り組む作家の姿勢が色濃く伺える。古谷田は同作品執筆の経緯について、仲俣暁生からのインタビューにおいて、可能であれば社会的な問題をメインに据えたものを書きたくなかったが、自分の書いていた小説に男性ばかりでてくることに思い当たり、「どうもほっておくと自分は女性を出さないなということに気づき、特に思想があるわけでもないのにジェンダーの偏った小説を書くことに罪悪感が出てきた」 [2]ことが執筆のきっかけとなったと述べている [3]。

 そして、同インタビュー中で仲俣が、『リリース』の出版により「社会的な問題意識のある作家、それも技巧的な引き出しが多そうな作家として古谷田さんは認知された」 [4]と述べているように、『リリース』の発表は、古谷田の作家のキャリアにとって一つの転機となったと考えられる。

 それは、同作発表後、古谷田が早速、川上未映子が責任編集となった『早稲田文学』増刊女性号(2017年9月)という「社会的な問題意識」に満ちた雑誌に対する執筆依頼を受けたことからも裏付けられる。 

早稲田文学増刊 女性号 (単行本)

早稲田文学増刊 女性号 (単行本)

 

 

「無限の玄」(2017年)の執筆

 そして、この執筆依頼は古谷田にとって、初の純文学系文芸誌からの依頼だった[5]。それに応じて書いたのが、本稿がのちに論じる「風下の朱」の姉妹作、「無限の玄」である。

 「無限の玄」は男ばかりの血族で構成されるストリングバンドで絶対的な権威を持っていた父の繰り返される死と再生と、それに翻弄され、揺動しながらも少しずつ新たな形に変わっていくバンドの男たちの共同体を描く。現代社会におけるジェンダー不平等の問題に対する告発を主目的に据えた、「女性」を冠する「女性号」において、「無限の玄」は、男性のみの共同体を描いているという点で他の作品と比して異質なものとなった。

 この作品は2018年に三島由紀夫賞を受賞するが、その受賞インタビューにおいて古谷田は「女性の書き手のみで構成される雑誌だからこそ、男性について語られねばならない、しかもそれは、男女が対比的に登場する物語ではなく、純粋に男性のだけの視点で描かれるべきだと感じました」 [6]と意図を述べる。

 その上で、自己のジェンダーバイアスについて、「私はもともとジェンダーバイアスの感覚がおかしくて、かなり意識しないと女性の登場人物を出せない」「男性キャラに女性キャラを関わらせると、そこに意味を持たせなければいけないのではないか、つまり「性」に触れなければいけないのではないかという気がした」「私の性自認は女性ですが、作家としての私にとって女性はずっと「異性」でした」と続ける。そして、「フェミニズムが元気になってきて、正直とても引け目を感じました。女性の活躍を書けない作家なんてと恥ずかしくなった」 [7]とすら付け加える。

 あえて男性同士の共同体を描いた作品の受賞インタビューで吐露される、やや過剰にも思われるような女性ジェンダーを描くことへの義務感と、それができていないことへの「引け目」の感覚は、古谷田をして姉妹作「風下の朱」の執筆に向かわしめることになる。

 

3、三島賞記念スピーチについて

 続きは次回に回すが蛇足を一つ。

 最近話題となった文壇論として多くの人が想起するのは、福嶋亮大の「文壇の末期的状況を批判する」という記事だろう。同記事は『REAL KYOTO』というウェブメディアに2018年8月18日に掲載された。

 この記事は、早稲田大学のセクハラ問題から筆を起こし、盗用疑惑で一時期話題になり、かつその後芥川賞候補作となった北条裕子の『美しい顔』(2018年)について建設的な批判を展開しつつ、現代の文壇がないがしろにしていると思われる表象の問題を改めて提起する。舌鋒の鋭さと鋭利な批判性から記事の掲載直後より文学に関係する学者・批評家を中心に広く拡散され、侃々諤々の議論を呼んだ。

realkyoto.jp

togetter.com

 

 福嶋の記事は以下の引用部に現れるとおり、文学に関わる研究者・作家は表象の暴力性に十分自覚的であるべきだ、という主張を中心としている。

いずれにせよ、改めて繰り返せば、文学者ともあろうものがホイホイMe Tooなどと言って、他者の人生に「私」を重ねていくのは、たとえそれがどれだけ政治的に正しかろうと、文学者としては間違っている。Me TooだろうがWe Tooだろうが、気軽に使ってよい言葉では断じてない。たとえ支援の意志があったとしても、他者の人生の苦難に対して「私(たち)も同じ」と乗りかかるのは基本的に傲慢なことである。文学は本来、そのような共感の危うさを――つまり一見して優しげな善意のもつ罠を――教えるためのものである。

 ところでこの文脈に乗る形で古谷田奈月に関して言及があったことが、この記事を執筆していた私の関心を引いた。以下の部分である。

もとより、騒動後も渡部と数度メールをやりとりした私は、一連の報道をすべて鵜呑みにするつもりはない(ちなみにインターネットで「疑惑」が報道された直後に、某文学賞の授賞式でさっそくMe Tooをかざして報道に便乗した作家がいるとも伝え聞く――これが事実だとしたら一般論として軽率であるばかりか、後述するように文学者の振る舞いとしても大きな問題だろう)。

 これだけでは古谷田に関する言及とはわからないが、三島賞の授賞式が渡部に関する報道の直後である2018年6月22日であったこと、また、朝日新聞のオンラインメディア『好書好日』の記事(「# Me Too」「ハイデガー」「ネコトーク」 三島賞など3賞贈呈式、3者3様のスピーチ(『好書好日』、https://book.asahi.com/article/11637726、2018年6月26日配信)から、授賞式で古谷田が『早稲田文学』女性号についての考えを述べていることを考え合わせれば、福嶋が上引用部で言及しようとしているのが明らかに古谷田であることがわかる。

 古谷田がMe Too運動に現れるような他者を安易に表象した気になるPCの陥穽を自覚した上で、あえてニュース発覚直後の、事件を客観視するにたる情報が入ってきていない段階で発言をしたのならよいが、以下のリンク先から見ることのできるスピーチの動画からは使命感に駆られてともかく言及してしまった、という感じが溢れ出ており、問題意識は十分によくわかるが公平に見て拙速な感じはあったと思う。

www.shinchosha.co.jp

 

 しかし、こうした前のめりは、作家として書くという本来的に私的な試みを、〈この世界に生きる様々な人々に対してフェアな態度を取らなくてはならない〉という責任意識を負いつつ行う古谷田の誠実さゆえのものであろう。それ自体は好ましいものであるしその誠実さの強度は最近の若手作家にないものだと感じる。違和感を言葉にしようと試み、かつその中で受けた上のような批判を十分に生かし、それに対して(賛成にして反対問わず)作品執筆を通じて応答していくことのできる潜勢力のある作家であることは間違いない。

 それではスピーチからすでに一年半経過し、このほど執筆された話題作『神前酔狂宴』にそれが現れているか。続く記事で言及したい。

 

===

[1]栗原裕一郎「解説」、所収:古谷田奈月『リリース』、光文社文庫、2018年。

[2]古谷田奈月、仲俣暁生「小説におけるフェアネスと勇気」『ちくま』第572号、2018年。

[3]同上。

[4]同上。

[5]同誌には岩川ありさによる『リリース』論(「クィアな自伝——映画「ムーンライト」と古谷田奈月『リリース』をつないで」、436-444頁)が載っており、古谷田が『リリース』により岩川のような現代社会におけるジェンダー問題を論じる批評を多数発表する論者に注目されたことがわかる。

 [6]「受賞記念インタビュー 死が繰り返される世界へ」『新潮』2018年7月号。

 [7]同上。

Young HongKongers, please be prepared for a long time fight

This is an English (summary) version of the article below.

 

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summery.hatenablog.com

 

How can you get to a point of compromise?


The 2014 umbrella movement for universal suffrage became a major topic of conversation in Japan, but less attention has been paid as to whether it was a success in the end or not. It may be a matter of course, but there is no reason for the CCP to allow universal suffrage. It is true that the movement gained widespread international support with the participation of many citizens, but towards the end the demonstrators were in exhaustion. They were constantly tear-gassed and gradually eliminated. Although the period of occupation was certainly long, it did not lead to negotiations between the government and the demonstrators or to the resolution of the issue through intervention by Western countries.

Demonstration this time has one point in common with Umbrella: How to get to a point of compromise is not clear. If the Legislative Council is effectively a puppet of the CCP, who will be the negotiating partner? How do you identify and negotiate with them? Even with the support of the international community, few countries will intervene in now big and internationally influential China's domestic problems in an effective manner.

 

Young HongKongers and violence


The students are ready to use violence and prepared to die for freedom.

 

www.youtube.com

 

I can never agree to this kind of commitment. Violence gives the regime an excuse to arrest them and to use more violence against them. If you take a big risk like violence, you should do it after you see a chance to win.

Watching video above and reading tweet below, I'm afraid I can see a kind of heroic narcissism. It is really dangerous. If you really get some aftereffects at the compensation of violence -for example, physical disability-, would it all right for you? You can't even fight next time.

 

please be prepared for a long time fight


These things aren't going to work out tomorrow or near future. Demonstration's going to be an uproar, but when you wake up, you'll notice that things has not changed as you expected. It takes very long time.

Of course, the demonstrators know that. You may think that it is not something that people from other countries say again. I'm sure I have to mind my business (you know Japan is now in crisis too, due to the rise of right-wing forces and historical revisionist).

 

However, when I see young people in HK who are committed to violence, I want them to be aware of what I wrote again. There will undoubtedly be a great battle, for example, in 2047, when one country two systems will no longer be self-evident. How do you fight if you're burned out or seriously physically injured in this battle?

 

Whether you graduate from college, get a job, have a baby, or even enter a nursing home, there's probably a pile of problems and you have to keep fighting it. This is only starting point, you definitely know.
I am not pathetic. This is what the democracy is. Through fight for freedom you can make invaluable relationship between fellows.


I would like you to gain the energy to remain persistently involved in this problem from this movement to cultivate the intellectual strength necessary for building a relationship with a CCP and depicting a new social system that will work efficiently in accordance with HongKongers own will. I don't want anyone to have their head broken by the police.

 

By the way...

 When I told my acquaintance who was born in and grew up in HK about 3 years ago that I was supporting civic movements in Hong Kong, she said scornfully, "Joshua Wong is doing it for money." but I would rather respect him if he could do this much just for money lol

村田沙耶香、高山羽根子、雑記

さて、雑記なのですが、最近読んだ小説についてまずは一言ずつ感想を述べたい。

 

村田沙耶香『しろいろの街の、その骨の体温の』(朝日新聞出版、2012年)

publications.asahi.com

 

最近珍しいニュータウンを舞台にした小説。ニュータウンの開発やその停滞と第二次性徴期の身体の変化が重ねられる部分が小説に通奏する基本的なリズムで、その上にカースト間の対立厳しい教室で生きる様々な層の生徒たちの生きざまとその裏にある不安や葛藤が、主にカースト下位の私の自己防衛的観察眼により剔出される。

題名に現れるように身体感覚を表すのに秀でた著者。芥川賞を受賞した『コンビニ人間』(2016)を読んだときは、「一般的な人と異なるものの見方をする人の奇妙な認識のありようを淡々と活写されても、読者は置いていかれるだけなのでは…」というような感想しか抱けなかった(ちなみに、当時は今村夏子の作品にも同じような感想を抱いていた)が、『地球星人』とこの作品とを読んで、村田さんの本領はみずみずしい身体感覚の描写にあるのかもしれないと思った。身体感覚ファーストだからこそ、そうではない社会に対する自己の認識が妙なものになるのだ、と。伊吹に対するフェラチオシーンはわりとあっさりと終わってしまったし、ラスト、伊吹と普通に結ばれてしまうのが安易にも感じたのだが、じゃあ他にどう書くの?と言われると、難しいかもしれない。後者は書かない方が無難な気がしたが、それはそれで無責任な気がする。前者はもっと詳しく書いて欲しかったが、それだと読み手は途中で鼻白むかも。少なくともどちらも決定的な瑕疵ではなさそう。

 

高山羽根子『カム・ギャザー・ラウンド・ピープル』(集英社、2019年)
カム・ギャザー・ラウンド・ピープル

カム・ギャザー・ラウンド・ピープル

 

 

2019年前期芥川賞候補作。ゼミの先輩からあらすじを聞いた限りでは良さそうだったし、実際に3/4くらいまでは面白かった。良い小説だと思ったが、ラストがなんとも尻すぼみだった気がする。性暴力加害者である相手・ニシダと対峙しても必要な対話が行われず、かといって対話が拒否されているわけでもなく、それが中途半端な印象だった、もう少しニシダを丁寧に書けなかったのか。特に紙面が足りなさそうではなかったし、書かなかった理由がよくわからないなと思った。選評で宮本輝さんが「書かないのは書きすぎるより問題」というようなことを言っていて、それだけ読んだときはよくわからなかったが、読んでみて納得。もし意図があったのではなく、本当にこれで十分だと高山さんが思っているのだとしたら宮本さんのいうとおり問題だと思う。雪虫にまつわる比喩連鎖は秀逸だっただけに、残念。最後で全てが死んでしまった気がする。しかし『居た場所』(河出書房新社、2019年)は決してそこまで書かなさすぎではなく、よくコントロールされた抑制的な筆致だと思ったが…。

 

その他

 仕事はだんだん忙しくなっていきそう。あんまり話を聞いてくれない中学生の相手をするのが面倒臭くなってきた。教師ってどこまでも教える側だから、蓄えた力を自分で使うということができないなと漠然と考えていた。

 母校の教師になって、アイデンティティは保てているけれども、結局生徒だった頃とはあらゆる面で異なる。もう職に就いてしまっていて、これからこれ以上大きな職の変転がありうる訳ではない以上、生徒だった頃のように未来が開けているわけではないし、案外教員仲間に話が会う人はいない。先生となってしまえば生徒と友達にはなれない。

 

summery.hatenablog.com

 

 それほど理解されるわけではないし、休みも少ないし…。

 二学期には修学旅行があるがまたその委員になった。忙しくなりそう。元気にやらねば。

 

 

 

 

 

香港の若者たちへ:問題に長く関わり続ける覚悟を!

 

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香港のヴィクトリア・ピークからの眺め


 一時期、香港に関心を持ち、色々に調べたことがある。国内の香港に関する文献で社会学系のものは、基本的にすべてチェックし、その上で南華早報(South China Morning Post)という香港で書かれる英字新聞を毎朝読んでいた。興味が高じて香港にも社会学にも全く関係のない専門ではあったものの、香港大で行われた二週間ほどのサマー・プログラム(テーマは「Japan in Hong Kong」で内容的には概ね社会学に接する領域)に参加した。このブログでよくキャプチャ画像にしている写真の中の以下のものは香港大の寮からの夜景である。

 

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山の中腹にある香港大の寮から最寄りのケネディタウン駅の方を見下ろす

 

 ここ三年ほどは関心が離れていたが、最近の逃亡犯防止条例問題に関わって盛り上がるデモのニュース映像を観て改めて関心を持ちつつある。一時期調べていたことを思い出しつつ、少し今般の香港におけるデモの特徴について概観し、考えを述べたい。

 

香港人としての意識の台頭

 香港の政治システムそれ自体は香港人による自治からは程遠い。他方で、政治活動や言論活動については香港は自由度が高い。したがって市民は多かれ少なかれ香港人による自治が可能でない現状を憂え、議会を通じた変革が難しい以上、その外で主張を続けて来た。市民によるデモの文化があるのである。

 今般のデモを見ると、その特徴として、第一に香港人としてのナショナリズムが前面に出ている点がまず挙げられるだろう。もともと移民の集合からなる香港人香港人としての意識が希薄で、香港がいづらい場所となれば、来た時と同じように別の場所に去るだけ、というような意識があった。しかし70年代以降の香港経済の発展、社会福祉の若干の向上や教育体制の整備により、香港は、未だ多くの社会問題を抱えてはいるものの、大きく変わった。住む人が、生まれてから死ぬまでの生が包摂されうるとある程度安心して考えられるような社会状況になった。デモの中心をなす若者世代のほとんどは香港で生まれ香港で育ち、自由を享受してきた。彼らのうちの相当数は自分が生まれ育った香港の社会を改良しようとする責任意識をもっており、ともかく自分一人が稼げれば良い、状況が悪化すれば(英語もできるのだし)外に出ればよい、と考えてはいない。

 

対抗暴力を辞さない構え

 これまでの香港のデモは暴力を行使せず、街の秩序や景観をそれほど乱すことのない行儀の良い性格のものが中心と言われて来た。しかし、この点もやや変化しつつある。香港のデモを中心的に主導する人々のSNS上の発言を見ると、当初は穏健的であったその内容は、香港警察の暴力に対して対抗暴力も辞さない方向にシフトしてきているように読める。実際香港人たちによる今般の運動に関するディスカッションサイトではどのように警察に深手を与えるかということが大真面目に議論されているスレッドがある。また、警察が夜の帰路に何者かにより襲撃を受け重傷を負う事件が起きていたりする。どのようなデモにおいても急進化する一部の人間はいるものだが、にしてもこうした状況は2014年の普選要求の一連の運動(いわゆる雨傘運動=umbrella movement)の際には表面化しなかったものである。

 香港の若者にインタビューするニュースサイトでは、自由のためになら、命を捨てる覚悟があると語る若者も登場し、穏やかではない。「警察とのぶつかり合いの中で一人でも死人が出れば運動は次のフェイズに進む。逮捕されそうになったら、警察に逮捕するかわりに殺せばよいというと思う」とニュースインタビュアーに語る若者の写真がSNS上で拡散されている。

www.youtube.com

 

 「中国軍、来るなら来い」「ただではやられない」というように、デモ側の暴力的ぶつかり合いを前提とした挑発的な物言いも散見される。当然警察側の暴力もSNSで幾重にも拡散されている。現実の一面を切り取ることのできるネットを通じて双方のサイドがエスカレーションしていく様がみられ、恐ろしい。本当に死人が出そうである。デモに参加した善良な一般市民が権力に殺されたとなれば、事は大きくなるだろう。

 

どうやって着地させる?

 しかし、自由のために人が死のうと、体制が変わることはありうるのだろうか。

 普通選挙の実施を求めた2014年の雨傘運動は日本でも大きな話題になったため、記憶に新しいだろうが、結局のところあの運動が成功だったかについては、日本国内ではそれほど関心が払われていない。当然かもしれないが、普通選挙など中共が許すわけはない。多くの市民が動員され運動が国際的に広範な支持を得たことは事実だが、終盤ではデモ側はジリ貧で、中環に座り込んだデモ隊はその外縁に絶え間なく催涙ガスを浴びせられ、少しずつ切り崩されて行った。確かに占拠の期間は長かったが、その間に政府とデモが交渉を行ったり、欧米諸国の介入による解決を誘発するまでに至らなかった。

 今回の運動も、その時と似ている点がある。それは着地点が見えないことである。無論様々に画策しているのだろうが、立法議会が実質的に中共の傀儡なのだとしたら、交渉相手は誰になるのだろう。どのようにその相手を特定し、交渉に持ち込むのか。国際的な支持を得ても、今や大国となった中国国内の問題にあえて、実効性のある形で介入する国は、ほぼないのではないか。

 個人的には絶対にやめて欲しいと思っているが、百歩譲って学生が暴力や死をもし意識するのであれば、それほどのリスクを払うに値する勝機を見極めてからにして欲しい。上に貼ったリンク先の発言や、以下のようなつぶやき・絵からは申し訳ないがヒロイックな自己陶酔しか見えない。それで本当に後々まで続く後遺症を負ったとして、本人はそれで良いのだろうか。次に戦うことすらできなくなる。

 

長い時間関わる覚悟が必要

 こうした物事は明日どうにかなるというものではない。おそらく、一人二人死んだところでそう動くものではない。大騒ぎにはなるだろうが、ほとぼりが醒める頃、案外局面が進展していないことに気づくだろう。それよりもこの問題に粘り強く関わり続けるためのエネルギーを今回の運動から自分の中に溜め込んで、新たな大陸との関係や明日に続く社会のシステムを構築するのに必要な知的体力を涵養するよすがとして欲しい。一人も頭をかち割られてほしくない。

 SEALDSの奥田さんは運動後に一橋大の大学院生になったが、とても良い選択肢だと思う。すぐに成果が出ない運動に長く関わり続けることはそう簡単ではない。特に奥田さんのように指導的立場に立つ人は一参加者の何十倍もの時間を当然無給で費やさなければならない。そもそも日常生活から相対的に遠い問題について、当事者意識を持ち続けることは普通難しい。大学院で勉強することは問題に関わり続けるためにとりうる複数の有効な選択肢の中の一つではあると思う。

 今戦う若者たちが、やがてやってくるであろう、おそらく運動前とそれほど変わらぬ、もしくはより悪い日常の中で、腐らず持続的に戦っていってくれれば良いと思う。もしそうなるのだとしたら、政治体制がより非民主的になったとしても、社会は少し良くなったということに、結局はなるのではないか。それほど簡単な話ではないだろうか…。

 

ところで…

(そういえば知り合いの香港人に3年ほど前に香港の学生運動を応援している旨話したら「黄之鋒(Joshua Wong、上にツイートを引いた、雨傘運動時からの運動の中心人物。学生)はお金のためにやっている」などと言われたのだが、いや、もしお金のためだけにここまでできるんならむしろ尊敬するわ笑)

いずれ好きなことでしか生きられなくなる?:雑記

今日職場が手配してくれた外部研修に行ってきた。色々な事情からその内容には立ち入らないが、他の業種の人たちと話す中で、改めて「一生懸命やったことは無駄にはならない」という言説について考えた。

 

小学校の頃の先生は、こうした言葉そのままではないが、「一生懸命やったことは無駄にはならない」というようなことを色々な局面で私に吹き込んでくれた。「吹き込む」は真であるとは全然限らないのに、繰り返し教え込まれた、というようなマイナスのニュアンスだが、「くれた」はそのことに恩義を感じていることを示す。今から考えると、言葉の真実性とは別に、一生懸命やることを無条件に全肯定してくれるようなその先生の指導は、少なくとも私にとってはとても良かったと思う。もちろん、その言葉が時に過度に子供を追い込むことになりうることは承知している。例えばこうした言明から「結果が出ていないということは、一生懸命やっていない」という呪いの言葉がすぐに導かれる。私の先生はそういう考え方の持ち主ではなく、努力の重要性は歌ってもそれを無理くり押し付けてくることはなかった…が、もちろん発話者の意図とは別にこうしたありうる効果は考慮に入れるべきである。

 

それで努力は必ず実る、というようなことを信じ続け、実際中学の勉強はイージーなのでやった分だけ結果に返ってきたりしてご満悦な中学時代を送ったが、一方で当時の私にも、「どうやら今はうまく行っているけれども、一生懸命やっても無駄になってしまうことはありそうだ」と思われてきたし、中学校の先生が、「一生懸命やってもダメな時はダメなのだ、でも意図せざるところで、その経験は多分生きるだろう」というようなことを何度か言っていて、そんなものかなと思っていた。

 

大学に入ってもう少し視野が広がると、前段の路線の言い換えのようになるが、「一生懸命やったことは、それが無駄にならないような生き方をうまく選択すれば無駄にならない」というふうな形に改めて肯定的にとらえ直した。しかし「生き方をうまく選択的に選びとることなんて、普通できないだろう」と思っていた。

 

今日、一緒に研修を受けた人の中に転職者が複数人含まれていたのだが、彼らの話を聞きながら、少し考えを改めた。「一生懸命やったことは、それが無駄にならないような生き方をうまく選択的に選び取れば無駄にならない」のではなく、ある年齢からは、「それまで一生懸命やってきたことが無駄にならないような形でしか生きられないのだ」と思った。人が、社会がお金を払うのは、基本的にお金を払う対象の人が、他の人ではそうそうできない業務をしているからだ。年をとるにつれ、経験を積み重ねていない分野の業務は露骨にできなくなっていく。まともにできるのは曲がりなりにも、毎日コツコツと呼吸をするように続けてきたことだ。

 

誰もがそのうち、得意なことしかまともにできなくなり、得意なことに関する仕事しかできなくなる。職場でも職場を離れてもそうなのだが、周囲の50代以上くらいの社員が、いずれも割と適所で働いているように見えるのは、そういうことだ。彼らは偶然適所を見つけられたのではない。そうではなく、基本的にもうそこでしかお金になるレベルの業務はできないのだ。

 

ネガティブな意味で言っているのではない。むしろ、私は以上のように見えてきた洞察をポジティブに捉えている。結局は、好きなこと、コツコツ続けてきたことでお金をもらえるようになる。というか、それでお金をもらうしかなくなる。重要なのは、だから、好きなことを関心に沿ってコツコツ続けていくことだろう。それが仕事の場であるか、そうでないかは別として。

 

 

既に持っているものの中にある、乗り越えることの契機:『千と千尋の神隠し』

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  昨日書いた以下の記事の続き。『千と千尋』の作品評でなく、それを観た自分の経験について書いています。

 

summery.hatenablog.com

 

 上の記事にあるように、10歳の頃の私は、スクリーンの前で、連なるイメージや展開など、ほぼ全てのことに驚愕したのだった。そして、自分がそこで生きていく世界、そこでともに生きる存在を自分自身の手で作っていきたいと思った。

 …というと、何だか当時苦しい状況に置かれていたように聞こえるかもしれないが、特に生きづらさを覚えていたわけではない。むしろ当時は、学校を中心とした生活が楽しくて楽しくてたまらなかった。先生に恵まれて授業は(体育含めて)大好きだったし、友人との関わりは充実していて、休み時間は大体笑っていた。放課後は毎日のように家の門限まで校庭で遊んでいたし、家では教科書の音読や百人一首の暗唱(当時の先生が百人一首好きだった)を果てし無く続け、登下校時はリコーダーを吹き散らかしていた。

 そんな風に今から振り返ると当時は日常が楽園のようで、やることなすことの大体が自分の内部にあるエネルギーの生き生きとした表出と通じており、周囲の大人も私が人を傷つけることをしない限り、私のあらゆる行動を肯定してくれていた。何一つ思い悩むことはなく、学校の定めた枠や規則にしたがいながらも、その枠内において、あまりにも自由で、常に次に学ぶこと、次にすることを楽しみにできた時代が数年あり得たことが、今どれだけ自分自身の根本的な支えになっているのかということはもちろん、論をまたない。

 しかしその中でも、そうした楽園は、学校や学校の先生のお膳立ての元に成立しているということは子供なりに薄々気づいていて、日中楽しければ楽しいほど、夜に一人で起きてふと「小学校がなくなったら自分はどうなるのだろう、そういえばあとたった2年余りで卒業だ」と考え、不安でさめざめと泣いてしまうようなセンチメンタルな感性も一応持ち合わせていた。そういう時に結局自分が生きていく世界を、学校や先生に頼らずに自分自身で作らなければいけないと思ったし、だからこそ、スクリーンを通して多くの人々の心の中に、現実にはない世界を構築できるアニメーションの世界は立派だと思った。

 大長編ドラえもん映画やクレヨンしんちゃんをせっせこ観てきた10歳までの私だったが、『千と千尋』は間違いなく、生涯で最も優れたアニメ作品として記憶されるだろうと自分で思っていた。小さい私にすら、「生涯で」などとそれからの70年余りを自分で縛りかねない規定を、生まれて10年目に出会った映画に与えることにためらう気持ちが湧いてきはしていたのだが、そういうためらいは結局握りつぶせた。なぜなら『千と千尋』はもう世界が大きく揺さぶられるくらい当時の私にとって甚大な影響を与えた作品で、さればこそ、もしそれを超える映画にその後の生涯で出会えるのだったら、本当にそれは、なんと素晴らしいことなのだろうと思われたから。そして、そういうことがあれば、「間違っていたよ。『千と千尋』よりすごい映画があったよ!」と未来の自分ははっきりと、心の中に住まう10歳の自分に喜んで真っ先に報告できるだろうと思ったから。

 以上長々と自分が当時どう『千と千尋』を観たか書いてきた。作品に対する批評でも何でもないが、同作品が子供にどう影響するのか、ということについて興味を持った人の、参考になれば幸いである。

 

最後に少し、今回改めて観た感想 

 ところで最後に付け加えるが、先日今の自分の目から見て、印象に残ったのは、銭婆の家にたどり着いてのちのシーン。千はハクのことを相談するが、銭婆は解決策を教えてくれることはない。自分の問題を解決できるのは自分だけである。一度あったことは忘れない、思い出せないだけである、というような一般的な箴言を与えるだけである。しかし銭婆は年功を積んだものの立場から千に承認を与え自立に向けて暖かく励ますのであって、作品はそうしたやりとりを何よりも価値のあるものとして描き出す。そしてそこで食事をし、カオナシも含め共同作業をするうちに、ハクはいつの間にか表に来ている。その後に、物語の大きな転換点である、名前を思い出すことが続く。強力な魔法や、現世の人間には理解不能ないくつもの理が支配するファンタジカルな世界において、千が問題を乗り越える方途は驚くほどあっけなく、すでに有していた記憶の中にある答えを探りだすということだけなのだが、こうして映画の終盤、千の旅路と模索の果てそれが置かれてみると、かつて出会ったことを思い出すということ自体が、何かとても大きなことに思えて来る。日常当たり前にしていることが、凡庸で卑小なわけではなく、むしろそれは状況によっては何よりも大きな、魔法に匹敵する力を持っている、というのが、一つの作品のメッセージなのだろう。

 思えばこれは、大学以降なんども実感させられたことである。いくつか私も自分の中の問題に向き合ってこないこともなかったのだが、都度慌てていろいろなことに救いを見出そうとして四苦八苦した挙句、最後にわかるのはいつも同じことで、深刻な問題の乗り越えの契機というのは、何か大きな行動の末にあるのではなく、もう持っているもの、それまでにしてきたことの中にあるのだ。もちろんそれを乗り越えの契機とはっきり見定めるためには時間がかかるし手間もかかる。慌てていろいろやろうとして自滅するのも、すでに持っているものを見つめ直すためには重要かもしれない。千が銭婆のところまで行って、ハクを助ける契機はあなたの記憶にある=すでにあなたの中にあると言われたように、結局は自分が答えを握っているのだとしても、自分が答えを握っていることを納得するために踏むべきステップというものがある。

『千と千尋の神隠し』を観た10歳の頃のこと

 

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 先日テレビで『千と千尋の神隠し』が割と遅い時間帯にやっていて、後半の一部を観た。観ていると、この映画を初めて観た時のことを幾重にも思い出した。私にとって同作は、距離を持って〈批評的に〉語ることが難しい作品である。それを鑑賞することは、幼少期の私自身の鑑賞体験と分かち難く結びついてしまっているからだ。

  以下、当時の自分が『千と千尋』からどんな影響を受けたかを少し書いてみたいと思う。この映画を観て同じように大きな影響を受けたという人にとって、その「影響」とは何だったのか、考えるきっかけとなる記事になればよいと思う。

 

 『千と千尋』の公開は奇しくも私が10歳の時のこと。つまり千=千尋と同じ歳の時のことで、メディアでは〈10歳の少女の冒険を描いた作品〉というような(正確に覚えていないが)紹介がいくつかあったので、私は自然と千尋に自分を重ねて観ることになった。当時の私は児童文学を浴びるように読んでいて、その中で自分が共有できる思春期の少年の自我にまつわる問題系を扱う作品や重厚長大なファンタジー作品の主人公がことごとく中学生ほどの年齢に設定されていたのに割り切れない気持ちを抱いていた。自分がそうした物語から疎外されている気がした。10歳という数字に、つまり自己がそうした物語の主人公になりうるという、虚構と自己との接続可能性の次元のリアリティに強くこだわっていた。

 大人になった今から振り返ると、例えば『ハリー・ポッター』シリーズを自分が描くのなら(突然自分をJ・K・ローリングに重ね、話が大変なことになるが)、微妙な問題だがやはり、主人公を10歳に設定することはないと思う。10歳の頃の私は、10〜14歳というようなくくりの一つの時期、つまり思春期に入ったと漠然と思っていた(当時読んでいた児童文学の多くが思春期を扱っていて、それに深く感情移入していたため)が、今顧みると、10歳は思春期というよりは、8歳や9歳の、お漏らしするような子供達に近い気がする。彼らを作品の主人公に据えると、思春期の自我の葛藤や友人関係での悩みを扱いづらくなる気がしてしまう。だから、書き手の論理として、ある程度厚みをもち、深みのある問題系を扱う作品を書くのに、12歳くらいが設定されるのは頷ける。

 そこに来たのが、10歳の少女の物語としての『千と千尋』。吉祥寺の映画館に1時間ほど並んでやっと見ることができたのだが、正直何から何まで衝撃だった。けれどもその衝撃を言葉出来るような言語運用力はないので対象を所有しようとしたり(「DVD出たら絶対買おうね」と母親に何度言ったのだろう?)、対象の世界に入ろうとしたりした(パンフレットを何百回も眺めて作品世界を模写したりした)。

 それで、その時からなんと約20年近く経ち、私が劇場で『千と千尋』に観入っている間に産声をあげた赤ん坊らが今甲子園で活躍している中にもいるかよしれないというのが2019年夏の現在時であるのだが、結局10歳の私にとって『千と千尋』の何がそれほどに魅力的だったのか、先日ハクを助ける方途を探すため、千が銭婆(「ゼニーバ」)のところにいくあたりからぼんやりみていて、少しずつわかってきたような気がする。

 

 湯屋の火室を取り仕切る釜爺から遠い昔に購入した列車の切符をもらい、リンの小舟に乗って湯屋を抜け出す千。湯屋の裏口から出ると、湯屋を取り巻く世界が雨の後で見渡す限りの水面となっており、その中に一筋線路が通っている。いつの間にか、カオナシがついて来ており、千はそれを拒絶することなく、銭婆の魔法によって鼠に変えられた湯婆婆(「ユバーバ」)の愛息子・坊とそれを運ぶハエ(元々は湯婆の使いのカラス=湯バード)とともに列車に乗り込む。列車の乗客たちの顔は半透明になり見えない。例えばここに続く、銭婆の住む場所「沼の底」に至るまでのイメージの連なり。

 一面の水を見渡す車窓からの眺めに、時折現れる小さな島々。水が来る前は高台だったであろうそれらにまばらに立つ西洋の田舎風な家々。そこに人は見えないが、生活感覚はあるので全体に、人がいるはずなのにそれらの存在が剥ぎ取られてしまっている物寂しさが漂う。時間の経過とともに夜が来るが、それらの寂しげな風景をおそらく通り過ぎ続けている、暗くなった窓にチラチラ映るのは思いがけないことに繁華街のそれのような、ネオンサインである。明滅するサインが湯屋の幻影のように出現し、今まさに盛り場から離れつつあることの物寂しさを強調する。しかし千の手の中には鼠とハエの安らかな寝顔がある。鼠は湯婆婆の息子で、彼らは千をこの世界に結びつけて離さない、千にとってはなんとも不条理なはずの理の側の存在で、本来現実世界に生きる千とは立場が違う(敵対しすらする)のだが、それに寄り添われる千は一人ではない。自分には理解不能なものらに、千は付き添われている感覚がある。

 

 こうしたひとつひとつのイメージの連なりが、私にとってはほとんど衝撃的なほどに新鮮だった。一体何故水の中に一本レールを通すというイメージを思いつくのか。どうしてそこに西洋風の物寂しい家々を配置できるのか。それらにネオンサインを重ねてちらつかせる着想はどこから得られるのだろう。千についてくる小さな存在の両義性、それとの関わりから得られる温かみ。不条理な世界の理に立ち向かう一本気な千の仲間たちをこのように、単に千に共鳴する存在でなく、立場としては逆になりうるものらから構成することにより、相互に慈しみあう関係が成立し、それこそが千、そしてその孤独を心配する観客を励ます。どうして鼠たちが千についていく展開を思いつき得たのだろう。

 他人の心の中に生き生きとした想像の構築物を立ち上げていく、宮崎駿らの想像力の仕事。通常並列されることのない風景同士を並列させ、ともに旅しそうにないキャラクタ同士を結びつけて旅をさせる。しかしそれは全く荒唐無稽な並列・連結ではなく、展開されてみれば、確かにそれがあり得たような気のする、日常表出化しない独自の論理を持った並列・連結なのだ。それによって、観るものを強力にそこに現れるイメージの連なりに惹きつけ、そこにこそありうる論理を納得させ、物語にリアリティを付与する。その帰結として、私のような観客に、映画の中の世界を、自分がそこで生きられる世界のように感じさせること。湯屋を動かす湯婆婆の魔法よりもずっと、そのことが私にとっては魔法のようだった。どんな風に生きたらそれらの組み合わせを思いつくことができるのかわからなかった。狂おしいほどそれらに近づきたかった。こんな風にして自分自身の世界を作れるのなら、そしてそれを作ることが、自意識に内閉するのでなしに、一緒に生きる新たなものらを生み出していくことなのだったら、そのように自分に寄り添う存在、自分の帰ることのできる場所を作っていくことで生きたいと思った。…のだった。多分。

 

※長くなったので、分割しました。続きは以下

 

summery.hatenablog.com