SUMMERY

目をつぶらない

滑らかに生きたい。明晰に生きたい。方途を探っています。

Silent Hill4 と最近読んだ現代小説

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 今週も忙しかったなあ。

 折に触れて観直す動画が上に貼ったもの。Silent Hill4:The Roomというゲームのオープニング動画であるのだが、現れる異形のものたちの表象が見事だと思う。ゲーム内で「ゴースト」と呼ばれる彼らのいずれも、大きな暴力により破壊され、変形された身体を持って現実世界に現れる。

 彼らは生前市民社会では厳重に禁じられてあるはずの(しかし確かに存在してはいる)苛烈な暴力の対象となっており、その傷ついた身体は一般的道徳を著しくはみ出した地点—規範のない場所—を象徴する。通常ではあり得ない動き、いかなる意味も読み取れない声は、彼らと私たちとの間に共有可能なルールの不在を思わせる。

 しかし彼らはあえてプレイヤーである私たちを襲ってくるわけで、それは著しくねじくれ曲がっており、基本的にはいかなる意味でも理解不能なのだろうが、しかし、やはり一種のコミュニケーションの希求なのだろう。ゴーストが生きているものの心の産物なのだとしたら、彼らは規範の埒外に対する私たちの恐れそのものの象徴であるのだろう。

 大江健三郎『水死』を読み直している。作中に現れる思想対立は面白いが、それだけならわざわざ小説として書く意味がない。「森々」(農本主義?)と「淼々」(日想観?)の運動性が交差する「立ったまま水死」を書くことの意味、二つの思想を重ね合わせたまま宙吊りにすることの評価が為されなければならない。が、わからず。11月の学会発表になんとか出せれば良いが…。

 最近、「使わない爪をといでいても仕方がない」というフレーズをよく思い浮かべる。「といでいても仕方がない」と諦めているのではない。人間は使わない爪をといでしまうものだ。それを虚しいものでなくするために、何が必要かということを考えている。私の現任校は、どちらかというと進学校で、教員の学歴も高めなのだが、その中には、コツコツ密かに、最先端の学問的動向を追っている人がいる。彼らの知見は、しかし高校で授業をする分には大して役に立たないだろうし、生徒にも同僚にも理解されないだろう。彼らは何かしら自己の認識を新たにしていく試みに知的快楽を覚えているのだろうが、それが本当に単なる快楽のためなのだったら、そのうちに飽きが来る。勉強をどう日常生活・職業生活に生かしていけるのか、気になっている。

 授業では町屋良平の『しき』(初出:『文藝』2018年夏季号)を読んだ。授業参加者からは割と好評だったし、私も思春期の少年たちの内面はうまく描けていると思ったが、それらを安直なリリシズムに回収しようとする語り手の振る舞いが鼻についた。思春期の少年たちの内面の曖昧さを描き出そうとすることよりも、それらしきものを読者の見たいように加工して見せている気がした。細部の失敗をあげつらうことはあまりしたくないし、実際瑣末な失敗は目をつぶることができる私だが、読者に迎合するかのような語り手の傲慢さ(あえてやっているのなら良いが、そうでないもの)が見える作品については話は別で、看過できない。

 もう一つ北条裕子の『美しい顔』(初出:『群像』2018年6月号)も読んだ。これは読んでいる途中にいたたまれなさを覚えるものだったが今から振り返ると、町屋良平の語り手に感じるような傲慢さはなかった。うまくいっていない部分に関しても、作者は真摯な努力の上に表現を行っているという感があった。ただし、母親のお友達の女性に説教される場面など、端的に浅はかだと思った。そうした教条的な説教はわざわざ文学でしか書けないのかと強く疑問に思った。ラストは「あーはいはいそうまとめるのね」と言いたくなるような、安直なトラウマ乗り越え物語で、私にもわからないので偉そうなことは言えないが、被災者の物語とはこのように単純なものたりうるのかとこれについても疑問に思った。

 両作品とこの間感想を書いた高橋弘希送り火』(初出:『文学界』2018年5月号)に共通するのはどの小説も思春期の少年少女、それも田舎の少年少女(『しき』にも田舎から越してきた少年が重要人物として現れる)に内面化していること。なぜなのだろう?若者の心理は現代ではそれほど多くの人が取り組まなければいけないほどわけのわからないものなのだろうか。にしては彼らの大半がどっぷりつかってしまっているSNSは、まだ現代文学にとってのトポスたり得ていないような気がする。

 芥川賞はあくまで新人賞で、その候補作および受賞作が瑕瑾のない作品である必要はない。しかし読み手としては何か見所のある新しさを感じさせるデビュー作を期待してしまうもので、私がこれまでいくつかの受賞作や候補作の中で、これはすごいと思ったのは…沼田真佑『影裏』かなあ。それ以前だと、円城塔川上未映子目取真俊がよかった。錚々たるメンツ。今年や去年に受賞した作家がこうしたビッグネーム並みの活躍をするようになるのかなあ。期待。少なくとも次の芥川賞の候補には高山羽根子・今村夏子・古川真人が名を連ねており、今村さんは正直私にはよくわからないが友人が強烈に押しているし、他の二人は実力があると思えるし、楽しみである。

雑記:学校現場におけるマネジメントスキルの育成はどうすればいいのか

 

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 さてさて、雑記に行くが、なんでしょうね、最近疲れることが増えて来てしまって、授業準備と授業の繰り返しだけやっていれば楽なものを現実にはそうはいかないのが辛いところね。担任業務、はまだ生徒相手だから楽だが、保護者対応に行事・部活関係は本当に体力をごりごり削ってくる。授業・生徒対応とは全く異なる頭と身体の使い方をしなければならないのが辛い。教育現場は教師になんでもできることを求めて来ていて、他方私は、残念だけど何でもできるようになることに魅力を感じてはいないのである。それはひょっとして何も満足にはできないことと紙一重なのではないかと感じてしまって。

 一つの職場しか経験していないのに何だが、よく日本企業について語る際に、「日本企業はスペシャリストを育成する力に欠ける」と言われる。例えば「あの人は経理処理が苦手だから、できるようになってもらおう。」みたいな思考が叩かれる。得意な人にやらせればその人のスキルはもっと上がるだろうし、苦手な人は自分の得意な分野にさくことのできる時間が多くなる。全体の効率はそっちの方があがるはずなのに、そうしないのはなぜかと。

 やはりこの問いへの解は、日本企業が終身雇用・年功序列を基本に据えており、誰もがいつか管理職になることを想定した人材育成をしているから、ということになるのだろう。これから課長になる人が、経理処理を全くやったことがなく、知らない・経理処理のセクションと全くなんのコネもない、では確かに話にならない。こうした育成システムが、つまりは労働者個々人がスキルを上げ、それを元に複数の会社を渡り歩くような現在出現しつつある社会のシステムと矛盾しているということなのだろう。

 学校現場にもある程度まで同じことが言える。副校長や校長にならんとする人が保護者対応をしたことがなく、行事運営の方法やその際の危機管理をできないというのでは話にならない。それが、どんな教員も色々できた方がいい、という考えにつながる。

 解決策は、管理職と教員とをきっぱりわけてしまうことなのだが、これには教員から反発が出る。次の策は管理職になることを見越した育成パスとそうでないパスをわける、という手。しかしこれだと管理職パスの人が転職してしまった場合その人にかけたコストは無駄になる。すると、ともかくどの教員にも手広くやってもらっておいた方が、結果誰が残ることになってもその人に経験がある程度蓄積されているので、問題が少ないということになる。

 …と、せっかくの休日なのに仕事の話を書いてしまったが、専門性を身に付けたいのに雑多な仕事で疲弊させられるのが嫌だ、というのはどこかに勤める現代的労働者共通の悩みな気がするので書こうかと思ったのだった。

高橋弘希『送り火』の語り手に対する違和感

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 毎日疲れる。心地よい疲れと、身体が重くなるような倦怠と、その狭間にある。これ以上忙しくなると疲弊していきそうな、そんなギリギリなところにいる気がする。この生活の破綻もそう遠くないかもしれない。

 

 高橋弘希の『送り火』を読んだ。第159回芥川賞受賞作である。

 高橋の作品については話題になった『指の骨』を読んだことがあり、その時は濃密な筆致から立ち上がってくる「リアルな戦場」という虚構(高橋はもちろん戦争経験者ではない)に圧倒されたものだった。しかし読後感は良かったものの、それほど評価する気にはならなかった。簡単に言えば、高橋の戦争描写は、これまでの作品にその多くを依存している気がしたからだ。

 もちろん小説という文化的装置は、それまでの積み重ねの上に立つものだから、あからさまな剽窃は排されるべきだが、時代とともに蓄積されてきた戦争の描写を借りることは自由にしてよいと私は考えている。しかし私には、高橋がこれまでに蓄積されてきたものを組み合わせる、その編集の上手さは感じられても、彼がそれらの上に何か独自のものを積み重ね得ているようには思えなかった。

 ただ、作家はそれぞれ独自のものを持っており、高橋も例外ではないのだから、その独自のものが感じられないのは妙で、はて、これは何故なのだろう(読み手の私に問題がある?)と考えていた。

 

 今回、『送り火』を読んでその理由がわかった気がする。『送り火』は例によって非常によく書けているし、面白く読めたが、積み重ねられる一つ一つのエピソードの収め方が妙に技巧的で、〈挿話を安直なリリシズムに回収することに巧みな作家〉という印象を途中で持ってしまったのだが、するともうあまり作品内世界に没入することができなくなった。

 問題だと思ったのは、語り手が、本来複雑であるはずの問題について語らねばならない時は主人公の中学三年生に内面化することで回避し、そうでない風景描写などについては顔を出して繊細な言葉で塗り込める、この往復関係である。一言で言ってしまえば、そこにあざとさと狡猾さを感じた。

 もちろん、小説という場において、通常語り手は適宜必要な場所に顔を出し、小説を小説として立ち上げるための大立ち回りを密かに行なっている。だから、それ自体を糾弾することは反-小説的なのであって、さすがにそんなことをいうつもりはない。しかし、高橋がなぜ「送り火」を書かなければならなかったのかが伝わってこなかった。肝心な問題に踏み込んでいないように感じた。最後に描かれる送り火の場面も、それ以前に描かれたエピソードとテーマ的にうまく結びついていない。薄っぺらいと思う。

 選考委員の高樹のぶ子はこの作品について以下のように述べている。

「「送り火」の一五歳の少年は、ひたすら理不尽な暴力の被害者でしかない。この少年の肉体的心理的な血祭りが、作者によって、どんな位置づけと意味を持っているのだろう。それが見いだせなくて、私は受賞に反対した。」

「読み終わり、目をそむけながら、それで何? と呟いた。それで何? の答えが無ければ、この暴力は文学ではなく警察に任せれば良いことになる。」

(以上、『文藝春秋』2018年9月号 )

 私はこれに同意したいと思う。近いうちにこの作品について授業で扱われるので、他の人たちの感想を聴きながら再考したい。

 

 

 

 

Prime会員をやめます/自己愛の強い人

 

 標題の通りamazonのプライム会員をやめることになった。長らく学生でい続けているので、ずっと学生料金だったが、ついにStudentの会員年限に達してしまったので、これを機会にやめることにした。正規会員料金が確か毎月500円で、まあ、それほどの価値はないかなと思ったのが理由である。私にとってのPrime特典の価値は以下のとおり。

・新刊本送料無料:私は新刊本をほとんど買わないので使わなかった

・Prime Video:一時期は結構使ったが、めぼしいものを見終えてしまったので使わなくなった。一時期は無料映画以外もよく見ていたが、近くのGEOで100円の旧作も400円だったりするので、割高に感じていた。正直近くにTSUTAYAやGEOがあって、定期的に行くことを厭わないのなら、そっちの方がPrimeよりずっと安くつくと思う。

・Prime Music:地味に一番使った、が、ないならないなりになんとかなると思う。

 正直、Prime Videoの無料Videoに満足できるかどうかが分かれ目だと思う。私はもう、月に二本以上無料映画をPrimeを介してみることはないだろうと思われたので、やめるに至った。

 ということで今日は代替案にこれからなるGEOに行きカードを作った。そういえば18を超えてからこの方、ビデオ屋のアダルトコーナーに入ったことがなかったので入った。ほとんど「新作」というラベルが貼られていて、そういうマーケティングなのかもしれないが、そうでなく本当にあれだけの作品が新作で作り続けられているのだとしたら、それは大したことである。このご時世、女性向けのビデオもゲイ・レズビアン向けビデオも皆無なのが印象的だった。順当にエヴァ(旧劇)とまどマギの劇場版(叛逆)を借りた。どっちもprime videoでは300円以上だったか見られなかったかそんな感じだったと思う。

 

 職場に入ってきた3歳くらい年下の新入社員、受け持ちは英語。ピカピカの時計をして、スーツもオーダーのようなぴったりさ。しかし、自分がいかに、世間とずれた環境で育ってきたかということを強調するありように、鼻白んだ。それはあなたの言葉ですか?と聴きたくなる。京都大の学生のごく一部が、自分たちのことを「変人」とアピールするような、そんな感じ。しかし至極当たり前のことながら、自己の「変」さをアピールすることそれ自体は、別に変ではない。特別な存在で居たい、というあまりにも普通の欲望で、まあ病的なほど自分が変であることを強調するのなら、確かにそれはかなり変、というかやばいのだが、そうでなければまあ、話す人自身の凡庸さの証明。私も小学生の時だか中学生の時だか、一時期自分がいかに変かをそれほどあからさまにではないが、周囲に喧伝しようとした時期はあった。大抵の、ちょっと自分に自信のない人は身に覚えがあるのではないか。ただそれを会社で表にだすというのは、当然気づいているべきことをその時まで気づいてこなかったということで、幼い感じはいなめない。幼いというより、そういうことが許されてきた同質的な集団にずっといたのだろうし、そうした馴れ合いの、湿った若い体臭が立ち込めていそうな微温的共同体、そんなに羨ましくはない。

 

 

先輩教員の転職と教員に求められる「専門性」について

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 良いことなのか悪いことなのかわからないが、筆が進むのは大抵自分の中に違和感が渦巻いている時である。もちろん、自分の力で変えることができたり、にぎりつぶすことができる程度の違和感であれば、わざわざ筆をとることもない。自分の力で容易に変えることのできないような、周囲の人間に対する決定的な違和感。それが出来した時には、その内実を確かめるためにも筆をとる。不満が渦を巻き、それほど楽しいと言えなかった時期に、後から振り返ると結構長い小説を書いていたり、示唆に富んだ洞察を含む日記が大量生産されている。今の日常が、特に言うことない日々の繰り返しであるにも関わらずというか、そうであるがゆえに書き物が捗らないので、昔の書き物を振り返って、過去の自分はなかなか色々考えていたなあ、などと感慨にふけったりする。

 

「専門性」重視の勤務先

 この四月より職場の中堅教員が転職した。同じ現代文の担当だった。私の勤め先は学力レベルとしては高めの客観的事実として付け加えるなら、偏差値は相当高めの学生が集まる高校だ。それ故に受験勉強の指導はあまり求められていないし、学習指導要領を逸脱する内容を扱っても、また、実験的授業形態を取り入れても誰からも文句は言われない。そもそも生徒が優秀なので、何をやっても大抵、「成果」らしきものは出てくる。それが生徒のためになっているのか、ということを真面目に考えるのなら、もちろんどこの高校でどんな授業をやろうと難しいだろう。しかし、自己の行う授業の価値を対外的に説明しようとするのなら、とりあえず生徒の反応の良さや成果物があればなんとか格好はつく。その意味で、私の学校はやりやすいのだ。

 

 こういう学校にどのような教員が集まるのかというと、高い学力を持つ生徒の知的好奇心を満たすことができる教員だ。生徒らの多くは、情動については一般的な高校生の域を出ないので、教員の知的能力が自分よりも低いとみなすや否や、授業を聞かなくなるなどの態度にでる。優等生達であるから、授業を抜け出したりするようなことはないが酷い場合には教室の8割が授業を聞かず、塾の宿題をやるというようなことが起こり得る。そうした状況の中で授業を続けるのは教員にとっては辛いことであるから、そうならないためにも、受け持ちの教科について一般の教員よりも深い専門性をもつ教員が集められる。

 

 こうした、専門分野に関する知識が生徒の方からも、教員間でも重視される校風の中、やめてしまった先輩の中堅教員仮に「岩下先生」とするは、自分に専門性がないことに苦しんでいた。「中高教員の教科に関する専門性は高がしれている」というようなことも言っていたが、これは自分に専門性がない、という意識の裏返しだろう。

 

 岩下先生は私と同じ現代文を持っていたのだが、現代文の教員になったことが岩下先生にとってよかったことなのか、私はわからない。現代文というのは専門性が見えにくい教科だ。学ぶ内容が現代の文章の読み書きという汎用性が高く、基礎的なものであるため、重要であることは誰もが疑わないものの、現代文の「専門性」とはなにかと言われると多くの人は首をかしげるのではないか。ある体系の中に組み入れられた知識をある程度決まった順番通りに一つ一つ理解し、覚え、それらを駆使してさらに応用的な内容を積み上げて行く、というのが私の中での大まかな「専門性」のイメージである。このイメージに現代文という科目で学ぶことが沿っているとは言い難い気がする(言えないこともない気がするが)。

 

 岩下先生の中には専門性への憧れと、それへの反発との両方があったのだと思う。その岩下先生が現代文という、専門性が規定しにくい教科の教員になったのは幸福でも不幸でもあったと思う。幸福だったのは、専門性とつかずはなれずの態度を維持し続けることができること。不幸だったのは、つかずはなれずの態度を維持し続ける運命にあったこと。両者は裏返しだ。

 

 専門性の希求。体系だった知識を自分のものにし、他の人にできないような高度な知的操作を素早く時間は有限なので、大抵の場合、速度が重要行うことへの憧れ。誰しも多かれ少なかれ、そうした憧れを抱くのではないか。いや、私がその憧れを共有しているから、「誰しも」とか勝手に思い込んでいるだけなのか、わからないが。とにかく一現代文教員として私は岩下先生に共感するところはあったのだが、私は仮にも国文系の研究をしていた(+いる)ので、一応現代文を教えながらでも「専門性」の片鱗は見せられたのである。岩下先生は国文科出身でも、国語学出身でもなかった。現代文教員だけれども、文学史に精通しているわけでも、日本語という言葉に精通しているわけでもない、ということが、岩下先生の気になっているポイントらしかった。

 

先生の転職

 それで、話を続けるが、結果的に、岩下先生はやめることになった。中高一貫校で主に高校教員だった彼は、高校生に対する教育からは手を引くことになった。詳しい事情を聞いたわけではないが、これまでの彼の言行からどうしてこのようなことになったか推測すると以下の通りだ。

 

 前述の通り、私の学校で教員はほとんど何をしてもいい。大学のような雰囲気を持っている。しかし、大学が専門知を持った大学教員の住処であることを大前提としているように、何をしてもいい私の勤務先でも大前提がある。それは「教員に(一般的な教員に比して秀でた)専門性(=教科の内容への幅広い知識・深い理解)があること」「教員が専門について勉強を続けること」だ。別に専門性がなかったら、誰かから論難されるわけではない。それでもやっていける。しかし確実に居づらくはなる。自分は場違いである、求められていないと隠微な形で知ることになる。これは辛い。

 

 岩下先生はこうした辛さと戦っていたのだと思う。戦いながら、なんとか教科の内容についての専門性とは別の方向性において勝負しようとした。指導における専門性を追求しようとしたと言い換えてもいい。岩下先生の戦いは決して間違っていなかったと思う。今では私も、教師にとって教科の専門性は重要だが、それは教師がもつべき重要な力の中の一つに過ぎないと思っている。さらに言うならば、それは確かにあればあるほどいいけれど、教員採用試験にいつでも合格できる程度の「専門性」を維持していれば、当面教師として問題ない程度であると思う。少なくとも、通常の学校では。

 

 私は教師にとってそれ以上に重要なことはいくつもあると思う。一つあげるとするなら、生徒が何をできるようになったのか、ということをキャッチし、それを、それまでの生徒の学習や、その生徒が向かうだろう(向かいたいと思われる)方向との関係から位置付けてあげることだ。例えば一つ漢字が書けるようになったという達成があったとしても、その位置付けは個人によって異なるはずである。努力の末なのか、一目見ただけで書けてしまったのか、その漢字が書けることはその子にとってどう重要なのか、など。ある程度知識が深くなければ位置付けなどできないから、もちろん教科の専門性は必要なのだが。

 

 岩下先生はこうした点に力をそそいでいたな、と同僚として思う。無味乾燥な校内実力テストの、それも漢字の採点で、岩下先生がコメントをつけていて驚いたことがある。漢字の丸つけで何を書くのかと思い、いない隙に見てみると、「おしい!」などと書いてある。私はこれに感心した。確かに何も書かない生徒と、とにかく何か書こうとしている生徒は、同じペケでもその子にとっての意味合いが異なる。努力の跡を読み取ってもらえるのなら、その子の学習は次に繋がるだろう。校内実力テストは通常業務に割り込んでくるから大抵てんてこ舞いの中で採点することになるのだが、その中でこうした細かなコメント付けをできるというのは、要はこういうことが好きなのだと思う。そしてそれは教師に向いているということでもある。

 

 岩下先生にとっては専門性を重んじる私の学校は環境として合っていなかった。彼が失意のうちに辞めていったとは言わないけれど、残らなかったこともまた事実だ。そして、高校教育からも手を引く彼は、しかし次の職場ではうまくやるだろうと思う。やっと確立した自我を必死で守らなければならない高校生くらいの時期は、自己の価値観を括弧にくくることが難しい時期でもある。周囲の大人による学習の後押しがとんでもなく鬱陶しく感じたりもする。岩下先生の「おしい」というコメントも「鬱陶しい」と感じる生徒は正直いただろう。特に、「漢字問題は0か1かで、半分書けていようが白紙だろうが0は0」というような二元論が支配していそうな本校では(見方が適当すぎるかもしれないが)。しかし、もっと年齢が下で、学力層も多様な生徒からなる学校であれば話は別と思う。本当に、頑張って欲しい。

 

話を聞いているふりがうまい人/責任を逃れるのがうまい人

 話を聞いているふりがうまい人がいる。こちらの目を見てうなずいてくれる。しかし相槌とともにはさむ「共感の言葉」がずれている。こちらが喜び半分、不安半分で話している時も、「本当によかったね。幸せだね」や、「すごい!優秀ですね」といってまとめる。こうした人にとって「よかったね」「優秀ですね」というのは明らかに、ネガティブな話題を除く大半の話題を無難に収めるための切り札のようなものだ。「よかったね」と言われて「いや、よくなかった」と答える人はそうそういない。「優秀ですね」と言われて否定する人はいるだろうが、嫌な気持ちになる人はほとんどいない。大抵の話にはよかったことが含まれているし、話者特有の認識や判断の鋭さをうかがわせる部分がある。本心としてどう思っているかは別として、「よかったね。本当によかったね。」「すごいですね」と言えば、言われた側はとりあえずそうかなという気分になり、つかのま嬉しくなる。言った側は自分の言葉が発揮した効き目を目の当たりにして陶酔的になる。

しかし、多少なりとも冷静さがあれば、こうした共感の言葉をあまりにもすぐに、また繰り返して発する人の、当該の言葉が空虚であることに気づくはずだ。その人は自分の何も見ていない、と思うだろう。その人にとって重要なのは、話題が何であれ(あきらかにネガティブな場合は除く。そういうときに「よかったね」と言ったらやばいことくらいはさすがに彼らでもよくわかる)とにかく「よかった」「すごい」というラベルを話者の話にべったりとくっつけて、話者を気持ちよくし、それによって自分自身も気持ちよくなることなのだ。

そうしたコミュニケーションは、端的に寂しいと思う。そこには交感はない。真の意味での共感もない。全部うわべだけのことで、社交なんてそんなものかもしれないが、寂しい。もちろん、本人が一番寂しさを感じていると思う。「よかった」「すごい」を明るい顔で言わないことはなかなかないから、そうした人は一見、割とニコニコしているように見える。けれどもそれは、自分の中の観念にくすぐられてそうしているわけで、そうしたところからくる笑みは想像以上に空虚だ。でも、それでうまくやってこれてしまったのだからしょうがない、のだろうか。

 

***

 

責任を逃れるのがうまい人がいる。誰でもできるような瑣末な仕事を積極的に引き受けるその人は、一見物腰柔らかで優しく親切。しかし、その人が優しく親切なのは、自分が優しく親切にできる領域の中でだけの話だ。例えばペンを貸して欲しいと言えば、そうした人は喜んで、しかも最速で貸してくれる。遠く離れた席にも喜んで小走りで貸しに来てくれる。それは彼らにとってあまりにも容易なことで、なおかつまた、どうまちがえようと決して後ろ指を指されることがないからだ。途上で転んだり、結局ペンが出なかったということになれば、おおげさに謝る。貸す時点で文字通り「貸し」を作っているのはわかっているから、その上で謙虚に謝ればますます、相手が恐縮し「ありがとう」の言葉をかけてくれるということをわかっている。

細かいところでやや過剰と思われるくらいの親切心を発揮する人には注意が必要だ。まず第一に、そうした人はそれ以外に自分の価値を発揮することができないから、そこに力を入れている可能性が高い。それは一つの免罪札なのだ。こういうことを丁寧にやる。すると、周囲の人からの印象はよくなる。細々とした仕事も率先して引き受けるので、皆がそうした仕事をその人に期待する。結果的に、本当はその人の年齢やポジションにふさわしいような他人との(大抵の場合面倒な)交渉事を伴う仕事を回避できる。というか、そうした重い仕事を引き受けられないし、避けたいのでそうでない、あまりにも簡単な部分に過剰に時間と心を傾けて、周囲の機嫌をそこなわないようにする…。

これは不幸なことなのだろうか。

人とぶつかるのは基本的に大変なことである。それをせずにすむのなら、誰だってしたくない。その面から言えば、人とぶつかる大変な仕事を避けるのは合理的な戦略だろう。しかし、結局人とぶつかりうる交渉事を自力でなんとかできなければ生活が、もっと言えば生が、新たな局面を迎えることは決してないように私には思われる。もちろん、それは相手に「勝つ」ことができなければ、ということではない。そうではなく、相手と話し合って落とし所を探す、ということだ。

 

私も人とぶつかるのは正直クソめんどくさい。そうした仕事は人に嫌われた挙句、思ったような成果が上がらなかったりする。

一方で、花瓶に水を入れたり、お茶を汲んだり、ゴミを捨てたりといった雑用は、みんなやりたがらない汚れ仕事で、だからこそみんなから感謝される。感謝だけされて気持ちよく生きていきたいなら、くだらない雑用だけするのが一番だ。

でもなぜだろう。お茶汲みで一生終えたくないと強く思う。それは空虚だと思う。お茶汲みにプライドを持っている人を馬鹿にしているのではない。そうではなく、簡単な仕事に逃げ込む人でありたくないと思う。面倒臭いが、人と対立しうる現場で協働の道を探していくことにしか、自分の生の開かれはないような気がする。多分この感覚は正しいので、そうしていくが、とはいえ、ほんっとうに面倒くさいんだよね。交渉・調整は。

 

 

 

なぜ「信仰」なのか 柳田国男・丸山眞男・大江健三郎に学びつつ

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柳田と丸山の新書を読んだ

 ここ数日柳田国男丸山眞男に関する新書を読んでいた。具体的に読んだのは以下の二冊。

 

柳田国男 ──知と社会構想の全貌 (ちくま新書)

柳田国男 ──知と社会構想の全貌 (ちくま新書)

 

 

丸山眞男―リベラリストの肖像 (岩波新書)

丸山眞男―リベラリストの肖像 (岩波新書)

 

 

 柳田も丸山も、戦後、主に高度経済成長下に進行した大衆社会化の中で、旧来の伝統や道徳から切り離され利己的になっていく国民の姿を見て日本の将来を憂えていたという。彼らの問題意識には共感するところがあった。

 

利己主義的利他主義

 しかし、利他的な行動を他人に勧めることは難しい。その難しさも、(引用されている文章からであるが)彼らの筆致から感じた。よくある説明では:私たちは他者との関わりの中から自己形成し、他者との関わりの中で生きているのだから、他者に裨益する行いは、結局は、自己に裨益する、ということになる。頭ではわかるのだが、私はこの種の説明に昔から違和感を覚えて来た。「情けは人のためならず。めぐりめぐって自分のため」—結局、自分のためにやるのなら、それは「情け」なのだろうか。「利他」なのだろうか。

 「結局自分のためになるのだから」ということを根底に置いた人から、そう言わずともそうした態度が透けて見える人から、何かをしてもらいたいとは思わない。「ただほど高いものはない」ということわざもある。それだったら、最初からわかりやすい等価交換の形にしてほしい。そんな風に思ったことは一度や二度ではない。でも人の心というのはそう簡単に割り切れるものではないから、利他的な行動を行う人の中にも、「結局自分のためになる」という利己主義以外の動機付けが混在していることは当然ある。そう考えて、自分を納得させもするのだが。

 私はこうした点に変に敏感で、塾講師として働いていた時期も、教師をやっている現在も、「無償で」生徒のために長い時間残業なりをしている同僚が、ふと合格実績を上げることで自己の名声を獲得しようとしているようなそぶり(「色々やってあげたけどやっぱこいつダメだわ」みたいな)を見せると鼻白んでしまう。なんだ、結局そういうことか、と思う。それはそうなのである。私が勝手な「いい人像」を押し付けていただけなのだが。あるいは、私が勝手に、その人の中の「いい人的側面」ばかりを見ていただけなのだが。

 ずいぶん脱線したが、脱線ついでに言えば、私自身は大変利己的な人間である。それはわかっている。人のためにしてあげること一つ一つに対価を求める、というのでは流石にない。というか対価を求めたりはしないが、自分の持ち物が減ることには敏感だ。余裕があるときには純粋に利他的に振る舞えるが、自分の持ち分を減らしてまで、ということはできない。

 

「倫理」の基礎に置かれる「信仰」

 話を戻そう。お金に換算することができるような、経済的な価値が優先される社会的風潮の中で、人々が利己的になっていく。そうした人々が、利他的に振る舞えるようになるためには何が必要なのか。過去の人々が直面した困難を引き継ぎ、現在自分とともにある他者たちの生を支え、未来の世代の生を豊かにするような行動をとる人とはどのような人なのか。

 私が読んだ限りでは、柳田にしても丸山にしてもこうした問題について考えた上でたどり着くのは「信仰」である。例えば信仰の対象として代表的な「宗教」は生に意味を与えてくれる。

 柳田にとって日本古来の宗教とは、血縁的なつながりのある自分の祖先たちが死後、神になるという祖霊信仰であった。もちろん、自分自身も、また、自分の子供も、死後は祖霊に加わることになる。そうして後続の世代を見守るというわけである。血縁で繋がった家、家族という個を超えた価値に帰依することは、利他的行動を利己主義的でない文脈で捉える考え方を供給してくれる。これが、柳田のいう「倫理」「道徳」の基盤であった。丸山は柳田のように信仰の対象について詳しく一つに限定して論じることはなかったが、信仰を「倫理」「道徳」の基盤として置いたことには変わらない。

 私は特定の宗教を信奉してはいないし、信仰について考えたことがなかった。しかし上で脱線しながらも述べたように、利他的行動の利己主義的でない根拠づけはできないものかと漠然と時折考えていた。それは自分が利己的な人間である、ということにも起因する。

 だから、柳田と丸山が「信仰」の問題を取り挙げていることについては、一つの刺激となった。何か宗教を始めてみよう、ということではない(「宗教」は「信仰」の対象の代表的なもののうちの一つだが、唯一のものではない)。宗教の作り出す共同体やそれが何世代と受け継がれていく中で生み出されていく価値観の体型に興味があるのである。

 

「生まれてくる生命を支える」—何故?

 ところで、以上を書きながら、以前にこのブログで書いたものを一部思い出した。以下の記事からの引用。

  

summery.hatenablog.com

 

たとえば、相模原事件。たとえば、日本における排外主義運動の高まり。電通で自殺した友達の友達。そして、今も、また、これから何十年何百年も禍根を残し続ける原発問題。

    それらに関する情報を拾う中で強く感じるに至ったことがある。それは、「一つ一つの小さな生活が危機に晒されている」という危機感だ。当たり前の生、当たり前の幸福の享受や、当たり前の自由が、当たり前でなくなり、時に軽々と蹂躙され、時に複雑隠微な方法で息苦しい形へと変えられていく。

   上に挙げた中で、特に個人的にショックが大きかったのは、相模原事件だ。相模原事件直後にネットの最悪な部分で噴き出した言論は本当にひどかった。障害者の生きる権利を認めないような、とてもここで再現するのがはばかられる発言が多々リツイートにより運ばれてきて、ネットを見て初めて涙を流しそうになった。生まれてくる命を受け入れ、支え、それとともに生きることに喜ぶという当たり前のことが、もしかしたら難しくなってきているのではないか。月並みな表現だが、「社会の底がぬけてしまう」と思った。

 

 若干小っ恥ずかしい表現もあるのだが、修正しようとまでは思わない。実際にそう思ったし、今も当時のTLを見るとそう思うだろうと思う。そしてこうした問題意識の裏には、次の記事の以下の部分があった。

 

summery.hatenablog.com

 

「生まれてくる生命を支える社会を創る」

 最近、東日本大震災直後の『世界』『文藝春秋』『中央公論』を読み直していました。その中で、『世界』の2011年5月号、つまり東日本大震災を内容に盛り込んだ初号を読み返し「生まれてくる生命を支える社会を創る」という記事をみつけました。

ci.nii.ac.jp

 この記事を見つけた私は、その題名だけでなんだか安堵してしまいました。人より優位に立つことや、自己利益を追求することではなく、人とともに支えあい助け合い生きていくことを求める人々がまだまだいると思うと、私も頑張ろうという気分になります。 

 社会を変えようとか、そのような大それたことを思っているわけではありません。「コモリン岬」における見田宗介の言葉を用いながら言えば、私は私自身の聖域を守ろうとしているのです。本来的に混沌として、不条理な世界の中で、なんらかの文化的構築物を仮構しなければ、人間は社会的な存在として生きていくことはできません。助け合い共に生きる共同体のあり方、もしかしたら今、危機にあるかもしれないあり方は、私が人間としてあるために最も基本的なあり方であると思います。つまり、「聖域」です。

 

 この記事は題名の通り、大学院を修了し、社会に出るというタイミングでの、自分の中の宣言として書かれている。当時の私は、共同体の中で、他の人の生を支えることを通じて役割を果たしたいという気持ちがあった(普通に考えれば「大学院」も「社会」の一部であるのでまあ、その外で役割を見つけたかった、ということになる)。

 私は「信仰」を持たない。帰依しようという超越的存在を有していない。けれども、自分と同じようにこの社会で生きる人々の生を支えることは、いつも手放しでできるわけでは決してないのだが、しようと思える。「しなければならない」と言ってしまうまで責任を負えるかわからないのだが。

 そしてそれもまた一つの「信仰」なのかもしれない。おそらく、「信仰」と呼べるほど強度のあるものでは、それはないのだが。

 

「信仰を持たない者の祈り」

 ところで蛇足なのだが、「信仰」は私が折に触れて読んで来た大江健三郎が70年代から90年代に作品やエッセイで盛んに扱った主題でもある。70年代終わりに大江は柳田を集中的に読んで来たとエッセイで言及しているし、晩年の作品では丸山眞男の著作を引いたりもしている。間違いなく、上二者について豊富な読書経験がある。

 ここからは推測に過ぎないが、おそらく、大江もまた、戦後日本における倫理の問題を考える中で、「信仰」ということに当たったのではないかと考えられる。「倫理の問題を考える」とはおそらく、過去/現在/未来に生きた/生きる/生きることになる人々と共有する/せざるを得ない社会の一員として、自分個人のこととは別に何を【すべき】か、そして、【なぜ】そう【すべき】か、ということなのではないだろうか。

 大江は「信仰を持たない者」としての自己につきエッセイ等で一時期盛んに言及している。そして、それは、私が上で述べた「何かはっきりと対象を定めているわけではないが、漠然ともっている共同体への志向」、おそらく「信仰」と呼べるほどの強度のないこの志向を抱えて(それ以上強いものを抱えることができないものとして)どう生きていくか、という問いを考えるきっかけになるのだろうと思う。

 

時代と小説/信仰を持たない者の祈り [新潮カセット講演]
 

 

 しかし、これ、カセットだけなのか?まさか…

 いや、そうっぽい。うーん…。手に入るかなあ。手っ取り早いのは、国会図書館か…。